<T024-13>高槻カウンセリングセンター便り集(13) 

 

(本ページの内容) 

・高槻カウンセリングセンター便り~37通目:専門語 

・高槻カウンセリングセンター便り~38通目:病名で呼ぶ人たち 

・高槻カウンセリングセンター便り~39通目:人への寛大さ 

・終わりに 

 

 

 

<高槻カウンセリングセンター便り~37通目:専門語> 

 

 さて、今回は言われてみれば当たり前の話なんだけれど、一般の人が見落としてしまいがちなことを話そうと思う。 

 それは診断名(病名)に関するもので、本題に入る前に次のことを押さえておきたいと思う。 

 

 まず、心理学という学問はその他の分野の学問と結びつくことがある。社会学と結びつけば社会心理学に、芸術なら芸術心理学、宗教なら宗教心理学、神経生理学とであれば神経心理学というように。精神医学と結びつくとそれは臨床心理学ということになる。 

 こうした他分野の学問と手を組むことに僕は賛成である。むしろ、心理学などという学問は人間に関するあらゆる学問分野と結びつかなければならないし、そうであることが普通のことであると僕は考えている。 

 

 次に、心理学にも他分野の学問にも、それぞれ専門用語などがある。両者が結びつくとそれらの専門語が共有されることもある。他分野の専門語などを心理学が借用するわけであり、その逆のことも生じる。今回の話ではここが重要なポイントである。 

 臨床心理学は精神医学から多くの言葉や概念を借用しているのである。その一つに診断名(病名)がある。さまざまな病名を、臨床心理学は精神医学から借りているわけである。 

 

 例えば、統合失調症でもいいのだけれど、精神科医もこの言葉を使用し、臨床心理学者も同じ言葉を使用する。 

 しかし、統合失調症に関する精神医学的研究と臨床心理学的研究とは様相を異にする。同じ病名の診断をもらった人たちに関するものであっても、医学的研究と心理学的研究との違いがあるわけである。一般の非専門家の人たちにとっては見分けがつかないかもしれないし、あまり気にしないことであるかもしれない。それでも、両者の研究はそれぞれ違ったものになる。 

 

 余談だけれど、病名のような言葉が共有されているので、精神科医とカウンセラーの混同が一般の人に生じるのかもしれない。 

 また、医師でもないのに病名を使用していいのかといった指摘を僕は何度か受けたことがあるけれど、そもそも臨床心理学の世界がそうなっているのである。僕個人に言われても困るのである。  

 

 一時期、1960年代のアメリカで、精神医学からの借り物ではなく、臨床心理学独自の診断カテゴリーを作成しようという動きがあった。残念なことに、どうもそれは成功していないようである。いまだに臨床心理学は疾病概念を精神医学から借りている状況である。 

 こうした借用が悪いとは思わない。病名が共有されていることで便利な面もあると思う。ただ、一方で問題を感じることも僕にはある。 

 例えば、それほど病的ではない人、病気とまでは言えない人にまで病名が使用されてしまうということもある。それの何が問題となるのかということは別の機会に譲ることにして、一般の人ならまだしも、心理学をやってる人でもそういうことをしてしまうことがある。それ(病名)に代わる言葉を心理学が有していないからである。 

(2022.8.2) 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

<高槻カウンセリングセンター便り~38通目:病名で呼ぶ人たち> 

 

 37通目で書いたように、精神医学の言葉は心理学でも共有されているうえに、一般の人も使用することがあります。今回は一般の人が病名を使う場面について考えよう。 

 

 一人の父親に登場してもらいましょう。この人は息子の問題で相談にお見えになられたのでした。 

 彼は開口一番、「息子は○○障害だ」と言います。 

 私はびっくりして、「それはお医者さんからそう診断されたということでしょうか」と尋ねます。 

 彼の言うところでは、そうではなくて、自分でいろいろ調べて、その障害が息子にあてはまるようだと考えたそうであります。それ以来、その病気に関していろいろ検索して調べているということです。 

 考えたいのは、この父親は一体何をしているのか、ということです。 

 

 スペースの関係で、考察の手続きは省き、結論だけを述べようと思う。 

 彼は息子を病名で呼ぶことによって、息子を一臨床ケースに貶めていることになると私は考えています。息子を一人の人間としてではなく、一つの事例として見ているということは、つまり、彼は息子を疎外していることになるのです。 

 しかも、彼は息子のことで熱心であると自分では信じているのです。息子のためにいろいろ考え、努力していると言うのすが、これは欺瞞になるのです。息子と関わっているつもりが、臨床像に関わっていることになっているからです。本当は息子さんのことを見てもいないし、関わってもいないのだけれど、自分では息子に熱心に関わっていると思い込んでしまっているのです。 

 もし、ここでカウンセラーが「そう、息子さんは○○障害なのですね」と、父親の言葉を受容したら、それは父親の自己欺瞞にカウンセラーも共謀することになってしまうのです。従って、父親のその見解は否定されなければならないのです。父親にはそう見えるだけなんですねとか、医者の診断ではないので誤診している可能性もありますね、などと言って、父親の見解をそのまま受け入れるわけにはいかないのです。 

 

 では、なぜ父親にそのような欺瞞が生まれるのかということですが、父親は本当は自分の子供を見たくないのです。それでも見ざるを得ないのです。何のためでしょうか。そこにこの父親の抱えている葛藤があるわけです。前者は父親の感情、後者は父親の義務のようなものです。この場合、感情の方が勝つのですが、息子を臨床ケースにしてからでしか息子のことを考えることができないというのは、その妥協形成物ということになるわけです。 

 自分の見解が受け入れないと怒る人もあるのですが、この父親はそうではありませんでした。もし、激怒するのであれば、彼が息子を拒絶したい相当な気持ちがあることが窺われるのです。でも、息子をそこまで拒否しているわけではないことが、この父親のカウンセリングでは救いとなったのでした。 

 

 個人を病名で呼ぶこと、それは他者に対しても自分に対しても同様で、それはその個人を非人格化することであると私は考えています。そして、当人にはその個人を非人格化しなければならない相当な理由があるはずである、と仮定しています。ただ、自他を病名で呼ぶ行為に対しては、私はそれを受容しないと決めているのです。病名は個人を表現するのに適した概念ではないと思うからです。 

 現在、病名だけが独り歩きしているという印象を抱いているのは私だけでしょうか。そうであればいいと思うのですが、何かと危惧するところであります。 

(2022.8.7) 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

<高槻カウンセリングセンター便り~39通目:人への寛大さ> 

 

 人間とはメガネをかけているものであると信じている人にとって、メガネをかけていない人を見ると戸惑う。ギリシャ哲学で著名な田中美知太郎さんの用いた比喩である。 

 これは、つまり、人間の本質とは、それを考える人の経験や認識に規定されるところがあるということなのですが、もう一歩進めてみよう。 

 

 人間とはメガネをかけているものだ、メガネをかけている者だけが人間である、とそう信じている人いとって、メガネをかけていない人の存在はあり得ないものになると思う。そういう存在は脅威として感じられるかもしれない。 

 大きく二つの道がそこから枝分かれしてくると僕は思う。 

 一つは、戸惑いながらもメガネをかけていない人の存在を承認し、受け入れていくか、もう一つはメガネをかけていない人を迫害し、排斥し、攻撃するかである。 

 

 差別、ヘイトスピーチ、スケープゴート、人に対する誹謗中傷などはすべてそれをする人の経験や認識、教育や学習に規定されているものである。 

 同胞である人間に対して寛大であろうと欲すれば、何よりも自分自身にあるものを意識化していって、経験の幅を広げ、認識の質を高め、再学習していかなくてはならないと僕は思う。 

 生理的嫌悪感のようなことを言う人もあるが、それは正しくないと僕は思う。生理的に受け入れられないというのは、嫌悪することになった要因が当人には意識化されていないことを意味している。僕はそう考えている。 

 

 一部のクライアントたちは、自分とは異なった人たちに対して寛大になっていく。自然とそうなっていく。それは彼の認識が変わり、それによって体験していることの性質が変わってくるからである。 

 

 平等な社会も、平和な世界も、その実現は私たち一人一人にかかっているものである。それは社会の問題でも戦争の問題でもなく、それ以上に僕たち一人一人の心の問題なのである。僕はそう考えている。 

(2022.8.9) 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

<終わりに> 

 今回は高槻カウンセリングセンター便りの37通目から39通目を収録しました。 

 27通目と38通目は専門用語並びに病名に関する内容でした。37通目で述べた現象は不思議なものであります。社会心理学者が社会学の用語をいくら使用しようとなんら問題はないのです。臨床心理学者には、どういうわけか、問題が発生するのであります。単に言葉を精神医学と共有しているだけであるのに、過剰な反応が生じることもあるように思うのです。それらの言葉が引き起こす反応によるものだろうと思うのですが、一般の人たちの多くは心の病に関する認識が古臭いままであるのかもしれません。 

 他者に対して病名をつける人もあれば、自分自身を病名で表現することもあります。正式にそう診断されたというわけでもないのにであります。でも、そもそも病名は個人を表現するのに適した概念であるかどうかをも考えないといけないのですが。 

 39通目は認識に関する内容でした。ヘイトスピーチや差別でもそうでありますが、自分がどういう認識をしているかを自問せずにそういうことをやらかしてしまっていることが多いだろうと私は思っています。 

(2023年7月) 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

 

 

 

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