<T024-12>高槻カウンセリングセンター便り集(12)
<本ページの内容>
・高槻カウンセリングセンター便り~34通目:それ、青い鳥?
・高槻カウンセリングセンター便り~35通目:カウンセリングへの誤謬
・高槻カウンセリングセンター便り~36通目:改善のチャンス
・終わりに
<高槻カウンセリングセンター便り~34通目:それ、青い鳥?>
投資問題で話題になっているお笑い芸人さんがいる。
あまり個人のことを書くと削除されてしまうかもしれないので、予め言っておくのだけれど、僕はその芸人さん個人について書くつもりはなく、一つの例としてその人のシチュエーションを拝借するだけである。
この芸人さんも、他の芸人さんたちと同様、売れるまではお金に苦労したらしい。芸人として売れてから、お金儲けのことを考えるようになり、投資に手を出していったようである。
そして今、この投資問題が起きているわけだ。この芸人さんも被害者の一人なのか、それとも黒幕の一人なのか、不明である。事務所を退職するとか、芸能界を引退するとか、そういう話になっているそうだ。
結局、お金儲けなどに走らず、日々芸人としての仕事をしている方が幸せだったなんてことに気づくことになるかもしれない。投資に手を出すのではなく、芸に磨きをかけるとか、仕事のレパートリーを増やすとか、そういうことに努力していた方が良かったとこの芸人さんは後悔するかもしれない。
これって、要するに「青い鳥症候群」なのだ。今現在が十分幸せであるのに、どこか他にさらなる幸せがあると思い込んで、深みにハマっていくのだ。
この芸人さんも売れるまでは、売れたら幸せだろうなと思っていたかもしれない。彼はそれを実現したのである。ところが、その先にまた違った幸せがあると信じたのだろうか、本来の目標(芸人として売れる)というところからあまりにも逸れてしまったように思えてくる。
1980、90年代は「青い鳥症候群」なんてよく言われていたものだ。2022年現在でもこんな言葉が残っているのだろうか。僕は知らないけど。
「青い鳥症候群」なんて名称は廃れているかもしれないけれど、やはりそのような人はいるのである。概念は変わることがあっても、人間そのものは変わることはないのだ。
現在の「青い鳥」は少々危なっかしいところがある。詐欺やハラスメントの被害に遭う可能性が、「青い鳥」ではない人と比べて、高いように僕は感じている。もっとも、僕の個人的印象であって、正式な統計調査があるわけではないんだけれど。
「君だったらすぐに支店長クラスになれるよ」などといった甘言に乗って、今よりもはるかに規模の小さい会社に転職して、気づいたらこき使われていて、こんなはずではなかったといったところに、さらに「君のような有能な人を求めている」という甘言に乗っかって転職を繰り返した人がいる。言うまでもなく、ちっとも幸せになんかなっていないのだ。最初の会社を続けていた方がはるかに良かったのにと、僕なんかは思ってしまう。
幸福は日々の中にすでにあるもの。遠くの幸福より足元の幸福をちゃんと実感している方がいいと僕は思う。
最後にもう一度。僕はこの芸人さんが青い鳥症候群と言っているのではなくて、この芸人さんのような話を聴くと青い鳥症候群を連想してしまうのだ、ということなので、そこはお間違えのないようにお願いしたい。
(2022.7.28)
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
<高槻カウンセリングセンター便り~35通目:カウンセリングへの誤謬>
一般の人がカウンセリングに対して持つ見解の中には誤謬もけっこうある。今回はそのうちの二つを取り上げようと思う。
よくあるのが「カウンセラーは話を聴くものだ」とか「話を聴くだけ」といった認識であります。
これは間違いではないし、一般の人がそう信じてしまうのも無理はないことであると思います。というのは、これは欧米のカウンセリング理論を日本へ輸入した際に生じた誤謬の一つであるからです。
クライアントの話に耳を傾けましょう、という一文があるとしましょう。この文の意味は欧米の人と日本人とでは異なると私は考えています。この文章を聴いて誘発される行動が欧米の人と日本人では異なってくるのであります。
次に、「話すとスッキリする」という神話があります。
私はクライアントが話をしてスッキリした場面など見たことがないし、自分でもそういう経験をしたことがないのであります。だからこれは神話に等しいと考えている次第であります。
もし、話をしてスッキリしたという体験をした場合、それは単にそう見えるだけか、もしくは、ごく微細な一部分だけを取り上げているに過ぎないと私は思うのです。
人がスッキリするという体験をした場合、話すという一つの行為に還元できるものではないと私は考えています。人間はトータルに反応するので、そういう体験をした場合には、話すということだけではなく、他のさまざまな体験や活動がそれに資するのであります。
私の見解はむしろ逆であります。話すことでスッキリする場合よりも、話さないことでスッキリする場合の方が圧倒的に多いと考えています。秘密の領域に踏み込まれないという安心感によってスッキリするのであります。その領域が守られているという実感がスッキリにつながると私は考えているわけであります。
従って、カウンセリングで難しい点は、クライアントに話してもらうことにあるのではなくて、話させないことにあるのです。人にはそれぞれ絶対に踏み込まれたくない領域が心のどこかにあるものだと思います。そこに踏み込まないように話し合いをしていかなければならないのであります。その領域にあるものを無暗に引き出して話させてはいけないのであります。
「話すとスッキリする」という神話を額面通りに信じてしまうと、自分のすべてを告白しなければならないと思い込んでしまう人も現れるのではないかと私は危惧しているのですが、決してそうではないということを、この場を借りて、強調しておきたいと思います。
最後に余談を。
前回は本当は34通目でした。心理学ショックの項目を二回に分けたので回数に混乱が生じてしまいました。34通目は欠番となりますが、今回で調整しています。今回が35通目であります。(注:再録にあたって修正をしておきました)
(2022.7.30)
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
<高槻カウンセリングセンター便り~36通目:改善のチャンス>
どのクライアントも、その人生において、改善のチャンスが何度か訪れていることが見受けられるのです。
その時に取り組んでおけばよかったのにとか、もう少しそこで続けていればよかったのにとか、もう一歩踏み出していればよかったのにとか、そこでこっちを選択していればよかったのにとか、クライアントと面接していてそのような思いに駆られることが私にはよくあるのです。
彼らの多くはそのチャンスを逃してしまうのです。一見すると不可抗力のようなことでも、その中に彼らがチャンスを逃してしまっている部分があるのです。
なぜチャンスを逃すのか。そこには人それぞれの事情もあるのですが、以下のようなことが起きているという印象を私は受けています。
一つは衝動性といいますか、主観的感情だけで決定していることがあります。その判断が主観的感情だけに基づいているというようなものであります。根拠もなく「もういいか」と思ったり、「イヤになったから止める」とか「しんどいから続けない」といったように、自分の感情だけで決定しているわけであります(これは後に述べることになる「感情的正当性の優位」であります)。
次に時間的展望を持たないという例があります。これをやると今後こうなるとか、これを耐えるときっとこうなるとか、そうした展望を持たないわけです。あるいは根拠もなく「そのうちなんとかなる」と見込んだり(これは将来の展望とは言えないものであります)することもあるようです。
自分に起きていることなのに無関心となって、他者に取り組むということもあるようです。これは交通事故で怪我をしているのに、自分の治療は放置して、乱暴な運転をする運転手を改悛させるようなものであります。そういうことをしている人もおられるということであります。
その他、これはなかなか言いにくいことでありますが、敢えて端的に言いますと、自己破壊的な傾向の強い人にとっては、自己破壊的な選択肢が一番正しいように見えるというものであります。敢えて自分にとって不利となる選択肢を選んでしまうということも起きるわけであります。あとで自分が苦しむことになることが予測されるものをわざわざ選んでしまうのであります。
他にもいろいろ考えられるでしょう。あまり事細かく書くのは控えたいと思います。
結局のところ、それは後になってからでしか分からないのであります。あの時のあれが絶好のチャンスだったということは、その時には分からず、ずっと後になって気づかれるのであります。
それに気づく人はいいのです。気づく人は自分の人生に後悔を残すことになるけれど、それが次の何かの動機づけになることもあれば、後悔を受け入れる強さにつながることもあると私は考えています。一生それに気づかないという人もあるでしょうけれど、気づかない方が幸せとも言えないのです。
いつの日か、今日という日を振り返って、あの日のあれがチャンスだったのになどと後悔することのないように、今日一日を過ごしたいものであります。
(2022.8.1)
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
<終わりに>
本ページでは高槻カウンセリングセンター便りの34通目から36通目を再録しました。
34通目は芸能ネタであります。ちょっとした息抜きの感じで書いたものでした。青い鳥症候群というのも懐かしい響きであります。1980年代から90年代にかけて、「○○症候群」だの「××シンドローム」などという名称がもてはやされたものでした。誰かがすぐにそういう名称を作ったものでした。現在では、症候群やシンドロームなどよりも、「○○障害」だの「××病」などということになるでしょうか。症候群などと言っている方が良かった時代だったかもしれない。
35通目はカウンセリングに関して一般の人が抱いているイメージに関するものでした。そのイメージは現実とは異なっていることがけっこうあると私は感じています。「話すとスッキリする」という時の「スッキリ」は、基本的に罪悪感等の低下によってもたらされるものであり、いくら話してもそれらの感情を高めるような話をし続ける限り、話してスッキリするなどということは起きないのであります。
36通目も一般の人のイメージに関するものでした。「精神病は治らない」などと信じられているけれど、その「治らない」の内実に関するものです。その一つとして、そのチャンスを逃してきたということ、そうして症状や問題を長期化させてきたことによるところのものがあるわけです。
(2023年7月)
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)