<自己対話編―18> 平成24年6月23日
<対話>
C:昨日は忙しくて、これができなかった。午前中にアルバイトの件で動いていて、午後からは姉さんと会っていた。姉さんというのは、高槻の呑み屋で働いていた女性で、僕は仲が良かった。呑み屋が廃業になって、今は保険の勧誘員をしている。定期的に僕の所に来ては保険の勧誘とお喋りをして帰る。それで夕方の4時に昼食で、晩の仕事に備えた。帰ってからこれをやっても良かったのだけれど、なんとなく気が乗らなくて。(1)
T:何か以前のようなやる気が、この対話編に対して失せている感じでしょうか。(2)
C:そうだな。昨日はパソコンを持って帰らずに、家では本を読んで過ごしていたんだけれど、こういう時に限って、原稿やブログを書いておきたいって思うんだ。でも、昨日は本を読んで夜を過ごした。寝ようとしたけれど、眠れず、明け方になってようやく眠れたんだ。だから今日は寝不足でしんどかったよ。最近、こういうことが多いな。あんまり眠れないんだ。昨日はYさんのことを気にして、とても気分が穏やかじゃなかった。(3)
T:いろいろな心配事を抱えているんですね。(4)
C:そう。アルバイトのこともそう。何となくだけれど、新しいことを初めたいんだ。夜のバイトを探していて、この仕事と時間が被らないという条件で探していたんだ。近所のコンビニが募集していたので、やってみようかなと。高槻で開業する直前まで、コンビニのバイトは続けていたんだ。まだ採用が決まったわけではないけれど、年齢やシフトの問題はなんとかなりそうな感じがしている。不採用だったら、他を探せばいいだけのことだ。雇ってくれる所を何軒でも探すつもりなんだ。(5)
T:そこまでして始めたいんですね。(6)
C:何かをして生活を変えたいんだ、それに収入があれば負債も早く終わらせることができるしね。そちらの方がバイトの理由としては大きいかな。負債をけっこう抱えているんだ。それが最近は負担に思われて仕方がないんだ。(7)
T:肩の荷を下ろしたくなっている。(8)
C:そう。そうでないと、次に進めないっていう感じがしているんだ。利益を追求することは何も悪いことではないと僕は考えている。だけど、何のために利益を追求するのかという、その部分が大事で、次に進むために利益を追求するというのが、僕は一番いいあり方だって思う。ただ数字を追っかけるだけの利益追求は人格を貧困化するんじゃないかって僕は思うね。(9)
T:負債を減らして、その上で新しいことを初めたいって思っている。(10)
C:そう。それは臨床に関することだ。でも、バイトは少し臨床から距離を置きたいって考えている。臨床のことにどっぷり浸りすぎているなという感じがしてならないんだ。(11)
T:それはあなたにとっては望ましくないことのようですね。(12)
C:とてもしんどくなるんだ。臨床の仕事、カウンセリングの仕事をするのは好きなんだけれど、それ以外の場所が欲しいんだ。そうでないと、とても狭い世界で生きているような感じがしてならないんだ。(13)
T:自分の生活世界を広げたいって思っている。(14)
C:そう。だからバイトでも今までやったことのない職種をと思っていたんだけれど、結局、条件が合わないので、イヤと言うほど経験のあるコンビニに落ち着いたんだ。でも、それぞれの店では、そこに来るお客さんと親しくなるんで、それが僕は愉しい。大学生の頃のD店でもそうだったし、スーパーのK店でもそうだった。一番長く続いたファミマではたくさんのお客さん、常連のお客さんと知り合いになったよ。高槻でも一度当時の人を見かけたことがある。その人は僕のことを覚えているどうか知らないけれど。僕の方はちゃんと覚えていた。(15)
T:あなたは多くのお客さんと知り合いになるんですね。(16)
C:なぜか不思議なことにね。ファミマの隣にスナックがあったんだ。ある時、僕がレジに立っていると、そのスナックの女性店員が来て、今日は何時に終わるのかって、僕に尋ねるんだ。なんでも、そのスナックでお客さんが誕生日パーティーをしていて、その人が僕をリクエストしてるって言うんだ。僕は終わったら行きますと約束したんだけれど、その人が誰なのか全然心当たりがなかった。それで仕事が終わってから、隣のスナックに入ったんだ。見るとコンビニの常連さんがいて、その人は一度僕と飲みに行きたいって思っていたって言うんだ。その人とはその後も何回か一緒に呑みに行ったよ。好い人だった。この話、けっこう、びっくりされるんだ。だって、コンビニの店員さんとコンビニのお客さんが呑み友達になるなんて、なかなか見かけないことなんじゃないかな。それで、そのスナックは僕とファミマ常連さんたちの集まる店になったんだ。仕事をしていると不思議な縁ができるんだ。(17)
T:あなたはそうやって好かれるのですね。(18)
C:そう思っていた。僕はけっこう人から好かれるのじゃないかって。D店のお客さんも僕のことを覚えていたんだ。十年以上間が空いているのに、向こうは僕のことを覚えていたんだ。僕はちょっと忘れていたけれど、言われてみて思い出したっていう感じだったな。僕は、人が僕のことを覚えていてくれるというのが、とても嬉しいんだ。もちろん、いい意味で覚えていてくれているということだ。今でも、ごくたまにだけれど、地元の駅でファミマ時代に一緒にバイトしていた人とばったり出くわすこともある。特に何もしないんだけれど、まあ、ちょっと会釈するくらいのことだけれど、大抵、向こうの方が僕に気づいてくれる。そういうのがとても嬉しい。先日も、地元の呑み屋で呑んでいると、その店で働いている女性が、僕の中学時代の同級生だったんだ。何となく、お互い知っているんだ。一緒のクラスになったこともなかったのに、お互いに何となくそう言えば隣のクラスにそういう人がいたなあっていう程度なんだ。でも、こういうつながりが妙に嬉しく感じられるんだ。(19)
T:あなたのことを覚えていてくれて、見つけてくれる、それがとても嬉しい。(20)
C:そう、みんな僕のことを見てくれていたんだなあって思う。そういうのが無性にうれしく感じられてくる。今がとても孤独だからかもしれない。(21)
T:孤独を感じる?(22)
C:この世で独りだなあと感じる時がよくある。でも、独りになりたいんだ、矛盾しているように聞こえるかもしれないけれど、今は独りでいたい。独りでこういう作業、対話編のような作業を進めていきたいって思っている。(23)
T:独りになって、深く自分を見つめたいという気持ちの方が強いんですね。(24)
C:そう。でも、この対話編も僕の中でしっくりいかないものを感じている。僕はこういう作業を通して、もっと自己意識的な生き方をしたいって思っているんだ。自分を語りなおす、あるいは見つめるという時、語る自分と語られる自分とがある。見ている自分と見られている自分だ。主観と客観と言ってもいい。僕たちは主観的な存在であると同時に、自己に対して客観的なんだ。普段の会話でされ、話している自分と、話している自分の声を聴いている自分がいるのを感じる。主観と客観は常に同時に僕には体験される。主観的自己と客観的自己っていうべきかもしれないけれど。(25)
T:主体として自分を見ていると同時に、対象として自分を見ている、自身がその二つに分かれている。そういうことでしょうか。(26)
Cそう、僕は主体であると同時に対象でもある。自分を対象化する際に、僕は自分自身の間に裂け目を見る。この裂け目は、常に僕に矛盾や葛藤をもたらす。できることなら、客観の部分を自分ではない第三者にお願いしたい所なんだけれど、そういう人がいないので、僕は一人で複数の役割をこなしながらやっている。これがキツイんだ。対象を見るには距離が必要なんだ。建物の中に居る人は、自分がどんな建物の中にいるのかが全く見えないはずなんだ。建物を見るためには、その人は建物から外に出なくてはいけない。でも、全体を見ようと思えば、建物からあまり近い所で見てはいけない。少し離れて見なければ全体は見えない。そうして、対象を見る時、対象との間に距離が生まれているんだ。(27)
T:自分自身を対象にして、自分を見つめ直そうとすればするほど、あるいは、あなたの全体を見ようとすればするほど、主体的に体験されているあなたからは離れていっているように思うのですね。(28)
C:そう、それが僕の中に裂け目を生み出すんだ。この裂け目の中に、僕がよく見えていないものがあるんじゃないかって思う。だから、僕は裂け目を作らずに、あくまでも主観としての僕を語りたいんだ。そして僕を対象として見てくれる他者がそこにいてくれたらいいって、本当に僕は思うんだ。(29)
T:あなたは主観的に体験されているあなたをそのまま語ることができればどれだけいいかなあと思うのですね。あまりに自分を対象視してしまうと、あなたはあなた自身から離れた所に位置してしまう。(30)
C:自分のことを話していながら、どこか他人事のような感覚も覚える。こういう作業が僕の精神的な健康にとって望ましいのかどうか分からないんだけれど、でも、僕はこのスタイルで続けていくって決めたんだ。(31)
T:それだけのことをするだけの価値をあなたは認めているのですね。(32)
C:そう。この対話編をすることは今の僕には価値がある。誰にも読まれなくても構わない。また、この対話編を読んで、その人が僕を信用できないと判断しても構わない。他人のためにしていることではないんだ。中学時代に、あれは一年生の時だったかな、教育実習に来ていた先生が僕のことをこんな風に言ったんだ。「寺戸君は不思議な人ですね。人が見ていようが見ていまいが、やることはやるんですね」って。僕は今でも覚えている。男子なんて、みんな掃除をサボったりするんだ。その中で、僕だけが掃除をしているんだ。みんなと一緒にサボることもできるんだけれど、僕はそうしなかった。いや、これは自分を美化しすぎているな。サボる時はサボる、やる時はやるっていう、そういう感じだった。(33)
T:周りに合わせたりするのではなくて、自分の気持ちに従う感じなのですね。(34)
C:僕自身の気分や感情や価値観でね。僕は自己意識的な生き方をしたいと思っているってさっき言ったけれど、これの反対は自己埋没的な生き方なんだ。周りに流され、周りに合わせて生きるっていう生き方なんだ。そして周りに流されて生きているっていうことに少しも気づいていないんだ。僕はそういう生き方が一番イヤなんだ。自己意識的になるっていうのは、自分を意識するっていうことだ。そのためには何が自分で、何が自分ではないかっていうことの区別をしなければならないって思っている。自我と非我を区別するっていうことだ。どうやって区別をするかっていうことは、自分を語ることによって得られるものだって、僕は思っている。(35)
T:この対話編もあなたが自己意識的に生きるために必要な作業なんですね。(36)
C:そう。もし、僕が自己意識的に、自己独立的にと言ってもいい、そういう生き方ができないとすれば、僕は簡単に他者に融合してしまうんじゃないかって思う。女性友達だったMさんとの間で体験したことはそういうことだったんだって、今では思う。自他が融合するというのは、母子一体の関係と同じことなんだ。僕はそこから出なければならない。Yさんとの間でも、僕はそうなっていたのかもしれない。だから、今、少しYさんと距離を置きたいって思っている。Yさんに問題があるとかそういうことではまったくないんだ。僕が自己意識的に、自覚的になりたいと思っているだけで、もう一度、体勢を整え直したいって思っているだけなんだ。(37)
T:親しくなると、あなたは相手と融合的になっている自分を発見するんですね。(38)
C:だから自分を見失うことになるんだろうって思う。何が自分のモノで、何がそうじゃないのか。何が自分の中から自然に生まれたモノで、何が外からもたらされたモノなのか。僕は区別をしていかなければならないのだ。今までもしてきたけれど、これからももっとしていかなければならないんだ。(39)
T:そうしないと、自分が混乱してしまいそう?(40)
C:そう。ある意味で硬直さが足りないのだと思う。もちろん、これはパーソナリティのことだ。ある部分ではとても柔らかくて、外側のものが容易に侵入してくる。吸収力があると言えば聞こえはいいかもしれない。夕べはオールビーの「ヴァージニア・ウルフなんてこわくない」っていう戯曲を一生懸命読んでいた。とても痛々しい物語だった。4人の登場人物のそれぞれが僕には妙にリアルに迫ってきた。過去の苦痛から、現実と幻想がごちゃまぜになった世界で生きている人たちだ。みんな憐れで痛々しい。そして、お互いの間で通じ合うこともないんだ。とても孤独な人たちが、賑やかな振りをしているだけという生活を送っているんだ。すごく悲しい気持ちに僕はなった。(41)
T:とても共感できる感じがするんですね。(42)
C:登場人物は4人だけなんだ。二組の夫婦が一夜を過ごすだけなんだ。4人とも過去にいろんなものを背負っている。でも、みんなそこから目を背けようとしているんだ。目を背けようとするんだけれど、それができなかったり、不意にそれを見せつけられたりするんだ。そして、お互いを攻撃し合う。悲しいんだけれど、一方ではとても浅ましい感じもしたし、読んでいてこっちが腹立たしく感じられた場面もあった。(43)
T:自分自身から目を背けている人の悲劇を見るような思いがしたのですね。(44)
C:そうなんだ。現実から目を背けるから、幻想が入り込んでくるんじゃないか。でも、幻想は常に現実の脅威にさらされるものなんだ。現実の波が襲ってくるので、幻想は不完全なものになるんだ。そうして、常に現実のことが意識に入り込んでしまう。それを一生懸命ごまかすんだ。滑稽だけれど、気持ちが伝わってくる。(45)
T:あなたはそういう生き方をしたくないって思うのですね。(46)
C:自分自身を見ていきたい。僕の歴史が僕なんだ。いくら忌まわしい歴史であったとしても、それが僕なんだ。そこには肯定も否定もないんだ。ただ、僕の歴史がそういうものとしてあるというだけなんだ。(47)
T:ただあるがままの歴史をそのまま見ていきたいって思う?(48)
C:そう。肯定したり否認したりしないで、そのまま見ていきたい。それがとても大事なことなんだって、僕は思う。クライアントたちはそれをしたがらない。一部のクライアントたちだけれどね。彼らは自分を見る代わりに、方法を知りたがる。自分が何をしているかを知る代わりに僕が何をしているか、僕がどんな技法を使っているか、そういうことばかり気にしている。そして、彼ら自身は自分の体験からは何も学んでいなかったりするんだ。僕も十分に自分の体験から学んでいるかって訊かれたら、どうだろうって思うのだけれど、でも、僕は少なくとも学びたいとは思っている。僕は若い頃、クリニックで勤めていた頃だけど、臨床家の年齢なんて関係ないって考えていたんだ。僕の知っている臨床家で、彼は自ら人生経験が豊富で、その人生経験を武器にして仕事をしているなんて豪語している人があったのだけれど、愚の骨頂だね。いくら人間が長生きしてもせいぜい100年ってところじゃないか。人間が100年で経験できることなんてたかがしれていると僕は思う。おまけに、僕は男性として生まれた、その人も男性だった。その時点で女性が体験することを僕たちは体験できないっていうことが決定されているんだ。それなのに、自分の人生経験が豊富だなんて、思い上がりも甚だしいと僕は考えていたね。年長者が人生経験豊富とは限らないんだ。それよりも、年齢が若くても、一日一日の自分の体験を自分のものにしている人の方が偉いって、僕はよく言ってたんだ。それで年長者に対して突っ張ってたんだ。若気の至りだったなあという感じがしないでもないけれど、今では、当時の僕の考えはそれほど間違っていないんじゃないかって、そう思える。(49)
T:きっと、その当時から、あなたには見えていた事柄があったのだと思うよ。それでは、時間になりましたので、今回はここまでにしておきましょう。(50)
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)