<自己対話編―14> 平成24年6月16日 

 

<対話> 

C:少し気持ちを落ち着かせてから始めよう。(1) 

T:気持ちを落ち着かせる必要がある?(2) 

C:昨日は非常にエネルギッシュで活動的だった。あの後、夜の2時くらいまで本を読んで過ごした。この本のこともいつか述べたいとは思う。僕が大学生の頃、ちょうどしんどかった時代に読んだ本なんだ。それを引っ張り出して、もう一度読み直したくなった。読み終えてから何か言えるような発見があるかもしれない。(3) 

T:大学時代のあなたにもう一度触れてみたい気持ちだったということでしょうか。(4) 

C:そう言えるかもしれない。当時、どんな思いでその本を読んだのか、もう一度思い出したくなっているのかもしれない。それをすることで当時と今とのつながりがもっと回復するのではないかと思っている。(5) 

T:苦しかった時代をどうも切り離してしまっているのではないかっていうこと?(6) 

C:そう。切り離しているという感覚はないのだけれど、その後の苦悩で当時のことが忘れてしまっているのかなという感じがしないでもない。(7) 

T:その後の様々な苦悩が前景にあるという感じなのですね。(8) 

C:そう、僕は僕のことを書き込む書き手のことを随所で述べているのだけれど、彼らのことで苦悩しない日はない。書き込まないクライアントに対してもそうだ。どのクライアントに対しても、僕は心残りなことや後悔を抱えている。書き手のように好き勝手に書き込める人が羨ましい。僕にはそれはできない。僕自身、とんでもない失敗をやらかした経験がいくつもあるし、そもそも、一度でも僕は自分でも満足のいく仕事をしたという経験がないんだ。必ず、どこか至らない点や反省すべき点を見出してしまうのだ。(9) 

T:あなたはそれをクライアントのせいにはしないつもりなんですね。(10) 

C:そのつもりだ。少なくともそれが僕の良心だと思っている。その代り、僕は悩まされる。ごく一部のクライアントだけれど、彼らはいつも僕の心に重くのしかかっている。亡霊のように僕に付きまとう。大多数のクライアントは、その後どうしているかなと気になるとか、あの時はうまくいかなかったなとか、お互いに苦しかったなとか、そういう思い出とかの形で僕の中に蘇る。(11) 

T:あなたを苦しめるのは、もっとつきまとって離れないように君臨している一部の人たちなんですね。(12) 

C:そう、彼らのことを思い出すと、苦しい。ある女性クライアントだった。若い人だった。彼女は明らかに僕の面接に不満足そうだった。面接が終わる時、彼女は面接申込票を目の前で破棄してくれと要求してきた。面接申込票には彼女の名前とか年齢、住所、連絡先が書いてある。それを目の前で破棄しろと要求してくるのだ。僕のことを最低のカウンセラーと表してくれる人もいるが、僕は自分でもそう思う。僕は彼女の要求通りにそれを破棄したのだ。破り捨てたのだ。彼女は満足そうだったけれど、僕に何をされたのかはまるで気づいていないようだった。僕は彼女を見放したのだ。僕の方もウンザリしていた。今だったら、「あなたは欲求不満を体験すると、何が何でも自分の要求を押し通したくなるのですね」と答えるだろうと思う。そして、彼女のいいなりにはならないだろうと思う。もし、僕がその人を抱えていこうとするなら、きっとそうしていただろうと思う。実際、彼女の語るエピソードの中には、周囲の人に対してそういうことをしてきたことが窺われるものがいくつもあった。周りの人は彼女の要求通りに動く。それはみんなが彼女を厄介払いしたいからそうするだけのことなのだ。いつかそれは面接の中で話し合われることになっていただろう。ただ、初回でそれを指摘すると、彼女の怒りに火を注ぐことになるだろうと思ったから、その時は控えてしまったのだ。今から考えると、もっと直面化しておけば良かった。どうせ縁が切れるなら、少しでも彼女と周囲の人たちの関係が見えている方がましだっただろう。それで未だに、僕はその女性のことで悩まされる。もう何年も前に来たクライアントだったのに。(13) 

T:あなたは自分のしたことが援助的でなかったということで、自分をそうして責め続けている。(14) 

C:とても自罰的にやってしまう。僕は初回でクライアントに名刺を渡す。この名刺に関しては面白い発見がある。クライアントが僕に対して不快な感情を体験している時、その感情は目の前にいる僕に対してではなく、僕の渡した名刺に対してその感情を出すんだ。それも名刺を破ったり、捨てたりとかいうような直接的で分かりやすい形を取らないんだ。もっと微妙な態度でそれを表すんだ。そして、これも面白いことに、そういう人はみんな同じことをするんだ。だからクライアントがそれをした時、「この人は僕に対して何か言えない感情を体験しているぞ」と分かるんだ。それを少し表明するように仕向ける。少しでも表明できる人はその後も継続する可能性があるし、関係が改善されていく可能性が開けるのだけれど、表明しない人はまず二回目はないね。(15) 

T:あなたにはそういうことが見えている。(16) 

C:そして彼らは人間や世界を信頼できないという問題を抱えているものなんだ。だからその人たちが僕のことをとやかく言っても、それ以前にその人自身が人を信頼して、人と協力的に生きていくことが既に困難になっているということが証明できるんだ。だから、それは僕一人の問題ではないと捉えている。僕にも拙かった点があるということは認めるけれども。(17) 

T:自分一人が罪を被るのはおかしいと思い始めているのですね。(18) 

C:そう。彼らはしばしば無理な期待を寄せて訪れる。不可能なことを僕がやってくれるだろうと期待しているわけだ。それで期待が裏切られると、自分が最初に持っていた期待の方に間違いがあるということではなく、僕の方が間違っていると言いたがるんだ。ある女性は明日、大切な面接を控えているからそれを何とかこなしたいと言う。でも、明らかにその女性は強度の対人恐怖、いや視線恐怖を抱えている人だった。それをどうにかしろと言われても、無理でしょうと答えるのが正解だ。彼女はすでに十数年それで悩み続けていたんだ。それだけの長期に渡って抱え続けてきた視線恐怖をこの一時間で取り払えと要求しているようなものだ。それでも僕はこう言った。「明日の面接のためではなく、今後のあなた自身のために取り組んでいきませんか」と。彼女はそれではダメなのだ。あくまでも翌日の面接をうまくパスするということしか考えられないように僕には思われた。目先のことしか取り扱うことができない人だったのかもしれない。そういう目先のことに囚われている人に対して、長期的な展望を持たせようとした僕は間違っていたかもしれない。そこが仮に間違っていたとしても、彼女の要求がどの治療者でも叶えることのできない類のものだということは言えると思うね。こういう人はけっこう多いんだ。今、一人の女性クライアントを例に挙げたけれど、実際にはけっこういるんだ。みんな、いかに自分と関わって来なかったかということなんだ。(19) 

T:それは愚かなことだということ?(20) 

C:愚かな生き方だと僕は思っている。よく、こういう誤解をされている人がいるんだ。病と治療ということをここでは便宜上区別するけれども、病を抱えてきた期間がどれだけあっても、それは治療とは違うものだということなんだ。もし、今日、僕が初回のクライアントを二人受け持つとする。片方はその病で20年間苦しんできたとする。もう一人は3か月前からそれを抱えるようになったとする。でも、どちらも治療は一日目なんだ。20年苦しんできた方は、きっとこう言うだろう。「ずっとこれを抱えて来て、もうそろそろラクになって欲しいのに、そうならない。いつになったらラクになるんでしょう」と。僕がいいたいのは、抱えてきた期間は関係ないということなんだ。治療を始めたら、その日が治療の一日目なのであり、それ以前の期間とは関係がないことなんだ。(21) 

T:そこが分かっていない人がいるので、苦労する?(22) 

C:そういう人は時間が解決してくれると信じているのかもしれない。はっきり言って、時間は解決してくれないものだ。時間がかかるということは確かだし、時間的な要因も無関係とは言えないけれど、ただ時間が経過するだけでは何も変わらないんだ。時間が解決してくれると考えることは、自分の問題を運任せにしていることであり、自己放棄の一つの表れだと僕は思っている。いつか何かが偶然に起きて、あるいはいつか救世主のような人が現れて、その出来事や救世主が何とかしてくれるだろうという期待なんだ。僕もそれを信じていた時期があったから、それが間違っているということが理解できるんだ。人間はもっと意志的な存在なんだ。(23) 

T:遠くにあるものが何とかしてくれるという期待は間違っているって、その人たちにも言いたいのですね。(24) 

C:僕はそれで多くの時間を無為にした。それはひどく後悔している。恐らく、ここで僕は自分とその人たちの区別が曖昧になってしまっているのだろうな。(25) 

T:自分が後悔したから、その人たちも後悔すると思って、先取りして忠告してしまいたくなるのですね。(26) 

C:後悔しようとしまいとその人の人生じゃないかとも思う。でも、自分が間違ったことをしていて、それが間違いだったと気づいていて、同じ間違いをしていながらそれに気付いていない人を見ると、どうしても啓蒙してしまいたくなる。僕はそれは善意でしているつもりだった。どこかで気づかないと、取り返しがつかなくなるという思いがある。だからその人たちの間違いは僕の間違いでもあるんだ。ここに境界が不鮮明になっているなって思う。(27) 

T:あなたとしては放っておけない気持ちになるんですね。(28) 

C:そう。一方で、僕のしていることがそんなに間違っているのだろうかと思う。火傷を経験した人なら、誰かが熱い物に触れようとする際に、忠告したくならないだろうか。その人が火傷をするのを平気で見ていられるだろうかと思う。でも、実際に火傷をしなくては気づかないのだろうなとも思う。(29) 

T:その辺りは自分でもどちらが正しいのか判断できないようですね。(30) 

C:一つ気づいているのは、その人が間違いをしている時に、僕は同時に自分が体験した間違いを見ているということだ。(31) 

T:その人を見ているようで自分を見てしまっているということ?(32) 

C:そう。関心がその人ではなく、自分の方に向いてしまっていたのかもしれない。はっきり言って、明日までに何とかしてくれと要求する人に対して、それは無理ですと言って、門前払いしたところで、何も間違ったことはしていないはずなのだ。時間が解決してくれると信じている人に対して、じゃあ時間が解決してくれなかったらその時はまたおいでと伝えても間違いじゃないはずだ。実際に火傷をして、その時になって、あの人の忠告は正しかったと人は分かるものかもしれない。(33) 

T:もっとその人の体験に任せてもいいじゃないかということ?(34) 

C:二進も三進も行かなくなって、その時に、自分は無理な要求をカウンセラーに出していたんだと気づくかもしれないし、その時まで僕が待ってもいいっていう話なんだ。まあ、でもそういう人たちが気づくかどうか、僕は何ともいえないのだけれど。(35) 

T:その人たちのことを言う時にはいささか諦観してますね。(36) 

C:どうしても彼らは自分自身と関わってきたというようには思えないんだ。外側の何かが自分を良くしてくれるという発想で、その発想をしている限り、自分自身とは関われないだろうし、自分の中にもっと良いものがあるということも信じられないだろうと僕は思う。そういう生き方は、その人を薄っぺらい人間にしてしまうものだと僕は思う。当人がその生き方でいいと言うなら、僕は反対はしない。(37) 

T:そういう形であなたは彼らと干渉しないようにすることもできる。でも、どうも干渉してしまいたくなるようですね。(38) 

C:どうしても他人事とは思えないんだ。(39) 

T:他人事とは思えないことを、何とかして他人事にして、自分を守っていくということでしょうか。(40) 

C:そこには常に葛藤を体験する。ある意味では放っておけないんだ。(41) 

T:放っておけない気持ちはあるけれど、最終的には見放すということも生じてしまう。(42) 

C:本当はそういう結末になることが一番イヤなんだ。僕だってその人を見はなすつもりはないんだ。きっと彼らは信用しないだろうと思うがね。彼らとも上手くやって行きたいとは思っている。(43) 

T:上手くやって行くには、まず彼らの間違いを正すということから始めないといけない、そんな風に思うのでしょうか?(44) 

C:間違いを正すというのが正しいかどうか分からない。でも、その人のしていることがいい方向には導かないということは知ってほしいと思ってしまう。そして、これもまた厄介なことなんだけれど、もし、自分のしていたことが間違っていたかもしれないと少しでも気づくと、彼らは容易にパニックに陥る。それだけで深く傷つき、動揺してしまうんだ。そこを気にして関わっていると、どうしても直接的に指摘するわけにはいかない。でも、最終的にはかなり直接的に指摘しているのかもしれない。当人にはそのように体験されているかもしれない。その人たちと関わっている時、僕は自分の中でそういう闘争が起きているのを感じる。もちろん、これは一部のクライアントに対して生じるということで、その他の多くのクライアントではそれを体験することはないということを、ここできちんと言っておきたいんだ。(45) 

T:ええ、いいですよ。でも、一部の人たちと関わると、あなた自身も落ち着いてはいられなくなってしまうのですね。そろそろ時間になりましたので、今回はここまでにしておきましょう。(46) 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

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