<自己対話編―13> 平成24年6月15日 

 

<対話> 

C:今日は異常なほど活力がある。朝の5時半頃から家のことをやっていた。片づけをしたりしてた。それから8時半頃職場に着いて、それからしなければならない仕事もやり、雑用もこなし、資料等の整理もし、整頓や清掃もかなりおおがかりにやった。午後2時半にYさんが来て、僕は京都の実家まで不用品を持ち帰って、それからまた職場に戻って、作業の続きをした。その間に論文を200ページほど読んだ。本もスラスラ読める。すごく調子がいい。キャンペーンのアイデアなんかも浮かんだ。今回の対話編は夜にしているけれど、今日はホント、16時間くらいぶっつづけに動いている感じがする。(1) 

T:それだけエネルギーに溢れている。何かそれについて思い当たることがあるかな。(2) 

C:分からないけれど、昨夜夢を見た。残念なことに細部や展開は覚えていないけれど、一つだけとても印象的な場面があった。それは僕がお風呂に入っているんだ。湯船にゆったりと浸かっている。足を見ると、すね毛が一本も無くなっているのだ。一瞬、「あれ、いつ剃ったんだろう」って思った。毛が一本もなくて、僕の足はすべすべなんだ。自分の足がこんなに綺麗だったなんて思わなかった。ついつい自分の足を摩ってみたりした。そういう夢だった。朝起きて、僕は自分の足を見た。そこには相変わらず剛毛の足があったんだけど、意外な夢だったなという気がした。(3) 

T:その夢の場面についてどういうことを連想しますか。(4) 

C:毛が一本もなくて足がきれいだったということだけれど、それは僕には女の人の足というイメージがある。でも、僕もかつてはそういう足をしていたのを思い出した。子供の頃だ。だからそれは子供の足ということも連想する。それと足に関しては、僕にはいろいろ悩みの種がある。陸上部で走っていた頃は、当然故障と言うと足に生じる。今でも持病がある。踵の辺りの骨が歪んでいるんだ。それは歩行には何一つ障害にならないんだけれど、時々痛む。この痛みは僕が中学生の頃から経験しているものだ。(5) 

T:夢の中の足は女の人の足のようでもあり、子供の足のようでもある、そしてあなたにとっては持病のある部位である、それからどういうことになるのでしょうか。(6) 

C:つまり、子供も女性も僕の中に取り入れられたというのか、一体になったという感じがする。いつもの夢なら、僕とは別に子供や女性が登場するのだけれど、それらを表すものが僕自身に生じているということで、それがまず意外な感じがした。これまでの夢のパターンからすると、これは珍しいタイプの夢だという気がする。そして、悪い所がある足に、僕は触れている。問題とか病に触れることができているという印象を受ける。それは僕一人ではとても触れることができないものだったかもしれない。子供や女性といった非自我だったものが自我に入ってきたことで触れることができるようになっているのかもしれない。きっと、以前のシャワーの夢ではその他大勢の人たちで登場していた部分だと思う。それから前回はシャワーだったけれど、今回は湯船に浸かっている。現実の僕の生活では、普段は湯船に浸からなくて、いつもシャワーで済ますんだ。だから前回の夢の方が僕の日常生活により近かったのかもしれない。子供の頃の水恐怖の名残があるのか、あまり湯船に浸かりたいとは思わないのだ。浸かっても、すぐに上がるんだ。だから今回の夢のように僕がゆったりと湯船に浸かり、寛いでいるなんて、ちょっと信じられないくらいなんだ。これは現実生活では馴染みのない場面なんだ。(7) 

T:そういう所でもあなたは今までとは違ったものを何か感じているんですね。(8) 

C:そう、こういうのは本当に不思議だ。何か内面で動いていることの証拠なんだけれど、僕はやはり夢はその人の日常に馴染みのある場面が出てくるものだと思う。今回の夢はそういう僕の馴染みからは少し遠いものが出てきている。何か変化の過程が生じているのかなと思っている。これからどんな風に僕が変わっていくか、僕は今から楽しみなんだ。(9) 

T:あなたは変化を恐れないのですね。(10) 

C:僕は何かになっていくのだろうと信じている。単に生きているだけでは本当に生きたという気がしないんだ。自分の中で変化や変容がない生は本当に無意味に思えてくる。意図的に変えることのできる部分もあるだろうとは思う。訓練で変えていく部分もある。でも、そういうのは人間の本当に表面的な部分でしか起きないことだと僕は思う。内面的な変化は、内面を見つめていくことで生まれるものだと信じている。これを科学的に証明しろと言われたら、できない。科学自体がそこまで人間の内面を扱えないからなんだ。科学が扱う対象もまたその表層的な部分に限られている。その部分に限れば、科学は価値がある。でも、科学でも手が届かない領域は、やっぱりあると思う。(11) 

T:あなたは自分に生じていることや体験されていることを、科学的な表現では言い尽くせないように感じているのですね。(12) 

C:そうなんだ。説明のしようがない。そこで多くの人は愚かにも、科学的ではないから信じられないと言っているんだ。そういう人は科学しか信じないのだろうけれど、その人は科学が扱うことのできるわずかな領域でしか人生を送れない人だと思うね。(13) 

T:具体的にそれは誰のことなんでしょうか。(14) 

C:いろんな人がいて、特定の誰かというわけではないけれど、そうだな、今咄嗟に思い浮かんだのは、うつ病と診断されたクライアントだった。その人は「うつ病は脳の病気だから」と言って、ひどく抵抗していたよ。それなら脳手術でも何でもしたらいいじゃないかと思う。脳の病気だからと言っておきながら、カウンセリングは受けに来ているわけだ。まあ、あまりクライアントの個人的な話はしないでおこう。その人がそう言いたい気持ちも、実は僕にはよく分かっているんだ。その人は科学的でない話は信用できない人だった。科学的でないという部分は、より人間的な部分、自然の部分であるはずなのだ。だから人間的な体験や自然に生じる事柄に関して、その人は距離を作ってしまっていた。だから何一つ感動もしないし、動かされることもない人だった。うつ病ということを差し引いても、その人はそういう生き方を送っていたと思う。(15) 

T:科学に限定せずに、それ以外の人間的な体験や感情の方があなたには大切なんですね。(16) 

C:それ以上のものがあるだろうか。今日も保険の勧誘があった。病気になった時の用意ができていますかと尋ねてくる。僕は病気になった時の用意はしていないけれど、死ぬ時の用意はできていると、言いたかったね。ラッセルが言ってたのだと思うけれど、科学のおかげで人間の寿命は延びたけれど、人間の機能はそのままだと。僕はそれに大賛成だね。人間の機能は人間的な部分なんだ。そこはどうすることもできない。(17) 

T:人間の自然をもっと受け入れるべきだということなのかな。(18) 

C:そう。これはユング派の人が言っていたことだけれど、死は自然なものであるから、自然から隔絶されている人ほど死を恐れ、否定するという。僕はそれにも賛成だ。この中の死を他の言葉と入れ替えてもいい。老化であるとか、病気であるとか、災難とか災害とか、言葉を入れ変えても同じことが言えると思う。自分や人間の自然、世界や環境の自然を僕は拒むべきではないと思っている。それに抗う人はとてもしんどい生き方をすることになるだろうな。(19) 

T:やはり、そういう人もあなたは知っているのですね。(20) 

C:たくさん知っているよ。そういう人は身体を一定の状態に保つために異常なほど努力するものだ。多少、努力することはあってもいいけれど、僕には度が過ぎているように思われるんだ。そして、その人は人生の一定時期より先には進もうとしない生き方をしていると思うね。過去の一時点に生きている人だ。具体的には、すぐに思い浮かんだのは、昨年交際していた女性友達のMさんだ。彼女は子供のままだったな。僕より年上の女性だったのだけれど、子供のまま生きているような、そういう生き方をしている人だった。もちろん、特定の部分では普通の大人以上のものはあったけれど、何て言うのか、心の有り方は子供のままだったように、僕には映っていた。今、交際しているYさんにもそういう所がある。Yさんのことを出すのは辛い。彼女が僕の書いたものを読んでは気にするので、迂闊なことは言えないのだ。Mさんはこういうのを絶対に読まないと確信しているので、Mさんに関しては書くことを躊躇しないのだけれど、Yさんとなるとそうはいかない。(21) 

T:Yさんが読んでどう思うだろうかってあなたも気にしている。(22) 

C:だからYさんのことはここでは言えない。Yさんが一人で気にするというのならまだしもだけれど、それを僕に持ってくるので、僕もまた辛くなる。本当は言いたいこともたくさんあるのだけれど、プライベートなことにも触れるので、やはり今は言いたくない。(23) 

T:彼女のプライバシーに触れてしまうということなんですね。(24) 

C:そう。僕の方は構わない。ここでもかなりプライベートなことを書いているので、僕に関しては問題がない。少し話題を変える必要があるな。というのは、ここで行き詰った感じがしているからなんだ。(25) 

T:では、他に何が話したいですか。(26) 

C:うーん・・・(タバコを一服する)・・・何かないかな。今日はそれで非常に多くの作業をこなしたんだ。何て言うのか、生活や身辺を一新したいような気持ちになっている。それで体をもっとつくらないといけないなということも考えた。つまり、少しばかり鍛えようということなんだけれど、体力の衰えを最近は特に感じていて、僕はこの夏を乗り切れるかどうか不安になったんだ。今以上に頑張ろうと思っているのだから、体力もあるにこしたことはないなって思う。体力よりも気力や活力の方が大事なんだけれど、それだけでもよくないんだ。(27) 

T:もっと身体も鍛えたいし、身体を動かしたくなっている。(28) 

C:そういう感情かもしれない。動かしたいんだ。滅多にそういう気分になることはない。でも何かしたいんだ。(29) 

T:外に向けての活動もしてみたいということになるのかな。(30) 

C:そうだ。先日も何かもう一つアルバイトをしようかなと計画したこともある。それと原付の免許も取ると言っておきながらそのままになっているし、それを再開しようかなとも思った。何かをやりたがっているのだなとは自分でも分かっている。でも、そういう気持ちが生じているのは、僕の心が動いているからなのか、内面を見つめることに抵抗しているのか、それがどちらだろうかということは分からない。(31) 

T:抵抗している感じもある?(32) 

C:やろうと思ったことの中には座禅もある。昔、一時期だけれど座禅を組むということを日課にしていたことがある。そういうことをまたやりたいとも思ったのだから、必ずしも外的な活動に逃避しているとも言い切れないな。(33) 

T:もっと内面も見たいと思う。(34) 

C:それは思う。僕の中には何があるだろうかって、いつも気になる。でも、それだけで生きていくのは、それはそれで窮屈になりそうだとも思う。(35) 

T:内面を見るだけでは、不十分なんですね。(36) 

C:大切なことだけれど、人生の半分しか生きていないのではないかって思う、もし、それだけだと。振り返ると、僕の人生は内省が大半を占めていたのではないかな。内省とか、思索とか、空想とか、そういうことばかりだったように思う。何かをしている所を考えたり空想したりしても、それは現実に行動したことにはならない。最近、そういうことをよく考える。今、継続しているクライアントでもそういう人がいて、その人は考えることで行動したことの代わりにしているという感じの人だ。考えるけれど、行動したことにはならないということを理解して欲しいとは思うのだけれど、そういうことを示唆すると自分が否定されていると述べるので、いささかやりにくい。思索は思索でしか過ぎないし、それが価値のある活動だとしても、現実に行動することとは違った価値があるだけなのだけれど、そこを等価にしたいようだ。僕は自分の体験からも、思考と行動を等価にすることは正しくないと分かるのだけれど、それをその人に伝えようとすると、けっこうたいへんなんだ。(37) 

T:あなたもそれだけ考えてきたのですね。(38) 

C:間違った思索をしてきたと自分でも思う。何かのために思索するのであって、思索することが目的になり、手段になってしまっていた。考えるために考えるっていう考え方だったな。だから僕の思索はまったく発展しなかったし、それで現実に何かを獲得したわけではないんだ。今でも役に立っているといえば、いろんなことを少し立ち止まって、自分で考えてみるという癖が付いたという程度のことだ。何も考えずにやる人もあるけれど、それは僕には羨ましいと思う反面。もう少し思索してみればいいのになと思う。そういう人も半分の生しか送ることができていないって、他人事ながら、そう思ってしまうんだ。(39) 

T:一つに偏ることがよくないことだっていうことでしょうか。(40) 

C:そう、何か一つのことで生きようとすると、どうしても生が縮小してしまうものだ。僕が兄に追いつくというその価値観だけで生きていた頃、その価値観が意義がある間は僕も生きていけた。でも、それがもはや価値がなくなった時、僕には何も残っていなかった。僕の人生は空虚なものだった。十代の頃、僕は自分が生きていたという感じがしない。もう少し丁寧に言うと、僕が自分として生きてきたという感じがしないということなんだ。二十代はそれから抜け出すために費やしたように思う。自分が生きているという感じがするようになったのは三十を超えてからだ三十歳の誕生日に、僕は何かをしたくなった。それで山登りを始めた。それは僕にはとても新鮮な体験だった。それから登山の魅力に取りつかれて、近辺の山をいくつも登った。ここ数年は登山からも遠ざかっているけれど、これだけは僕だけのことなんだ。家族で登山をする人はいないし、親族にもいない。誰かに影響されたというわけではないんだ。ただ、三十歳の誕生日に何かしようと思って、前々から考えていたんだけれど、直前になって、自分でも理由もわからず、よし、山に登ろうって決めたんだ。それでいきなり登り始めた。まったく行き当たりばったりで登って、今から考えるとけっこう無謀なところもある。その日、山から下りて、夜は部屋で音楽を聴いていた。その時、いつも聴いている音楽がいつもと違ったように聞こえたんだ。僕の中で妙に振動するものがあるんだ。それで感受性が高まっていたのか、その音楽にものすごく感動したんだ。当時はそれがどうしてだか理解できなかった。ただ、新しい体験をしたからだろうくらいにしか思わなかった。でも、それはもっと別の意味があったんだって今では分かる。僕は他の誰でもない自分の感情に従って行動したんだ。純粋に自分の感情に従ったんだ。それはもしかすれば初めてに近い体験だったかもしれない。それが僕の状態を変えたんだ。内面を動かしたんだと思う。(41) 

T:自分自身を体験したように思えたことでしょうね。自分自身を体験することは、とても素晴らしいことのように体験されたのですね。では、ここで時間になりましたので、今回はここまでにしておきましょう。(42) 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

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