<自己対話編―1>解説編 

 

<解説> 

(1)Cの困惑から始まる。実際のカウンセリングでも、クライアントは困惑から始めるものである。 

(2)Cの困惑に対して、Tが助け舟を出している。話せることから話していいと許可を与えている。現実のカウンセリングでも、カウンセラーのこうした働きかけに助けられてクライアントは語り始めるものである。 

(3)Tの助け舟のお陰もあって、Cが語り始めている。この対話編を始めることになった契機を話している。Cは自分を語りなおしたいと願っている。これがこの対話編を始めることになった契機であり、Cが望んでいることである。現実のカウンセリングでは、クライアントはこういう主訴を語ることは少ない。大抵ははっきりとした「問題」を自覚して訪れるものである。 

(4)Cは書くことでやっていったけれど、話す方がいいと述べている。でもそれができないと語っている。Tはそこの部分に焦点を当て、展開を方向付けている。 

(5)Cには聴き手がいないということが語られる。I先生とのことが語られる。ここでI先生というのが、この対話編で最初に登場する第三者である。最初に語られる他者はしばしばクライアントにとって重要な役割を担っていることがある。恐らく、今後もI先生のことが語られるだろう。I先生はCの意図を汲み取ってくれなかったと語っている。そういう体験をしながらも「一回目から多くを期待するのが間違っている」と、Cは自分の方に間違いがあると語っている。これはCが欲求不満状況に折り合いをつけるためにするパターンであるかもしれない。もし、これがCのパターンであるとすれば、同様のエピソードが今後も語られていくだろう。 

(6)Tは「失望」という言葉を用いている。Tはその時にCが体験したであろう感情に目を向けようとしている。(5)の発言から、CはI先生という対象を失ったように体験しているだろうことが窺われる。だから「失望」という感情は当たらずとも遠からずだったろうと思う。また、「あなたはI先生を失ってしまったように感じている。それも辛いことの一つなのですね」という応対も可能ではないかと思う。これは他にも辛いことがあるのだろうという前提を有しており、Cに他の辛い体験を語ることを許すものである。これがもっと中盤であるなら、「I先生を失うことはあなたにとってどういう体験だっただろう」と尋ねることもできる。I先生がCにとってどういう意味がある存在なのかを問うこともできるということだ。 

(7)において、Cは対象を必要としているということを語っている。I先生という一人の対象を失ったために他に対象を求めなければならなくなっているようだ。聴き手なしでやってみて、一層、聴き手の存在を必要としているということがCには体験されたのだ。 

(8)では、「あなたは聞いてくれる対象を求めている。そういう対象を取り戻したい」といった対応も可能だと思う。Cが求めている対象がどういうものであるかを探求していくことのきっかけにもなるだろう。 

(9)対象を必要としているということをCは意識化できている。ここでYさんが初めて登場する。I先生に続いてYさんが登場しているわけだ。この二人はCにとってとても大きな位置を占めていると考えて間違いなさそうである。言い換えると、かつてI先生が位置していた所に、Yさんを置きたいということである。しかし、YさんにはI先生の代わりはできないということで、Cはここでも対象を失ったままなのである。Cにとって、I先生がどのような存在であったかをもっと知っていく必要があるだろう。 

(10)Tは対象がいないということに焦点を当てている。それもかなり直接的な焦点の当て方だ。ワンクッション置くためには、Yさんに焦点を当てることもできるだろう。「Yさんがそういう対象になったらどんなにいいだろうかということでしょうか」でも構わない。CはYさんに対する感情をもっと話すようになるだろう。これを通して、I先生のことがもっと語れるようになるかもしれない。 

(11)しかし、CはYさんやI先生のことではなく、一つの葛藤、Cが抱えているまた一つの葛藤を述べている。これは(10)でのTの直面化が急激過ぎたために生じた反応であるかもしれない。ここで語られる葛藤とは、自分を受け止めてもらえるという体験をCは必要としており、自分にそういう体験がなければいかにして他の人を受け止めることができるだろうかという葛藤である。ここにI先生やYさんに期待しているものがどういうものであるか、それを理解する手掛かりがある。CはYさんやI先生との関係を通じて、成長していきたかったのだということである。Cは現在の自分に行き詰まりを体験しているということであり、それは自分一人ではどうにもできないように体験しているということである。これがCには苦しいことなのだということが理解できる。 

(12)TはCの状況を反映して見せる。Tはどうも否定的な側面に関与してしまっている。「そういう対象がいさえすれば、あなたはこの状況を抜け出ることができると信じている」ということを伝える方が望ましかったかもしれない。 

(13)一つの方法として他のカウンセラーに依頼してもいいとCは述べる。時間と費用としなければならない作業の大きさを考えると、とても踏み出せないとCは言う。これは一つの抵抗でもあるかもしれない。また、新しく出会うカウンセラーが、I先生やYさんのような存在になるかどうかという不安もあるかもしれない。つまり、新しい人と転移関係を築けるかという不安であるかもしれない。いずれにしても、話が深まるよりも、別の方向に話が移ったという感じを受ける。これは(12)のTの発言に対して、Cが何か回避したという印象を受ける。 

(14)でTはCの抱えている願望を表現している。不安の方に焦点を当てていないということである。Tがここで軌道修正をした感じでもある。 

(15)Cは理解者がいないということを表現する。「多く見積もってゼロじゃないかな」というのは幾分含みが感じられる表現である。含みが感じられる表現は、その人が相手に何かに気づいて欲しいということのサインでもある。 

(16)Tはこの表現の含みを捉え損なっている。Tのこの応答はCの孤独に目を向けるように促すことになる。ここで先の含みのある表現を考察してみる必要がある。普通に「ゼロだった」とは言わないで、わざわざ「多く見積もって」などと言っている。どういうことをCが言おうとしていたのだろうか。ただ理解してもらえなかったということだけではなく、かすりもしなかったというニュアンスを読んでいて感じる。従って、「たとえ少しでも理解してもらえたという感じもなかった」ということになるのではないだろうか 

(17)Cは家族の中でいかに孤立していたか、家族との交流がなかったことを話す。この後Cはタバコを喫って、流れを中断する。これは抵抗感の表れである。家族とのことを話すのは、この時点のCにとっては辛いことなのだということが分かる。それよりも、I先生という対象を失い、Yさんはそういう対象にはならずということに続いて、家族もまたそういう対象にはなってくれなかったというつながりである。この連続をTは脳裏に留めておくべきである。 

(18)しかし、Tはそのことをもっと話すように促す。実際のカウンセリングでは「家族とのことを話すのは難しそうなんですね」とか「これを話すと辛くなりそうに思うのかな」といった応答をするかもしれない。現実のカウンセリングで、この流れで話すことを促すのは、クライアントの中には強制されていると体験する人もあるかもしれない。 

(19)恐らく、Cがもっとも傷ついている部分である。Cは自分が生まれてくるべきではなく、そういう自分を消したかったと述べる。ここまでの流れはCにとっては少々辛かったのかもしれない。深い自己嫌悪をここで表明している。現実のカウンセリングで、時期尚早にこの部分を引き出してしまうと、耐えられないクライアントもある。しかし、もしクライアントが耐えられるなら、クライアントがこれを表明することは意義がある。Cにとってもこれはなかなか表明しにくい事柄だったのではないかと思う。 

(20)Tは「消したかった」というCの表現を取り上げている。「自分を消したい」というのは、自分を物質化しているようなイメージを受ける。自分を物質化して表現する時、その人がいかに人間的な関わりから遠ざかっているかが窺える。 

(21)一つの苦しい体験が語られる。刃物を自分に突きつけるエピソードだ。その後、「消したい」ということがどういうことなのかが語られる。それは「非存在の存在」になることだという。そして自分の存在が人の記憶に残ること、自分の存在の痕跡が残ることさえCには耐え難いことだったということが分かる。当時のCがどれほど自分を憎悪していたかが窺われる。自分の痕跡さえ残すことを禁じているほどなのだ。人の記憶の中でさえ、Cは自分が存在してはいけないのだという感じを体験していたのだ。レインの言うような「存在論的な不安定」感を受ける。 

(22)Tはそこまでして非存在になりたかったという感情に焦点を当てている。「そこまで自分を憎悪しながら生きてきたのですね」と伝えることも可能である。そうするとCは自己憎悪感情をもっと語るようになるだろう。ここではどういう応答が望ましいだろうか。「痕跡さえ残してはいけないほど、あなたは許されず、どこにも安住し得ないような体験をされていたのでしょう。そこまで追い込まれて生きるのは本当につらかったでしょうね」と、Cが生きている世界を表現したいと思う。 

(23)Cはそういう体験を理解してもらえなかったということを語る。理解してもらえなかったということが、それは不可能なことを達成しようとしていたのだという一つの洞察につながっている。ただし、この洞察は偽りのものかもしれない。理解してもらえなかったから、Cはその感情に折り合いをつけなければならなかったのではないだろうか。「それは不可能なことをしようとしていたのだ」というのは、その折り合いの一つの到達点だったのかもしれない。先ほどの「一回目から多くを期待する方が間違っている」式の折り合いのつけ方ではないだろうか。 

(24)Tのこの応答は、Cが哲学的な話に入り込まないようにしている。Tは「そのことを誰に理解してほしかったのでしょうか」と尋ねることもできる。Cの対象関係に焦点を当てることもできる。しかし、TはCが努力して自分の存在を受け入れようとしている所に焦点を当てている。望ましい対応の一つと思われる。 

(25)Cは存在してしまっていることに対して、絶望している。しかし、絶望以上のものがそこには感じられる。(24)のTの応答が、Cの中にある望ましい面に目を向けることを可能にしていったかもしれない。 

(26)Cが存在を続けていることに対して、Tは良くなかったという面に注目している。流れとしてはおかしいものとは思えない。ただ、否定的な側面に再び目を向けることになる。それよりも「辛い作業をしてきたのですね」でも構わないと思う。 

(27)CはTの応答に応じようとしながら、それがうまく行かないようだ。ここでCにある場面が思い出される。C自身が語っているように、この瞬間に思い出したエピソードだ。それは電車内での男女の会話の場面である。なぜCにこの場面が、このタイミングで思い出されたのだろうか。一つの可能性は、この会話に登場する女性、聞き役の女性の存在にあるのではないだろうか。Cがイメージする聴き手、Cにとって望ましいと体験されるような聴き手というのは、この女性のようなイメージではないだろうか。 

(28)Tのこの質問はいい。このエピソードは男性が女性に自分のことを話している場面である。Cがこの男性の側に同一視している可能性は高い。同様に、この女性にCが求めている聴き手のイメージを投影している可能性も高い。それは先述の通りである。従って、「その女性は理想的な聴き手でしたか」とか「彼女はあなたの求めている人でしたか」と問うことも可能である。 

(29)Cは最初は否定するが、語るにつれて、その男性との間に同一視を認めていく。しかしTはここで一つの手掛かりを手に入れたことになっているのだが、Tは気づいていない。Cが聴き手となる相手を求めている、その相手に語り共有してもらいたいと語る時、Cの中ではこの男女がイメージされているということだ。Cが求めているのは、その電車内での男女のような関係であるのだ。もし、Tがこのイメージを共有できるなら、今後、Cとの関わりはもっと自然になってくるだろう。 

(30)Tは話を聴いてくれる女性という存在に焦点を当てている。若干、Cの話の腰を折ってしまっている感じである。この男女のエピソードにおいて、本当に大事なのはこの女性の持つイメージである。Tは今さらながらそこに気づいたのである。 

(31)女性とのことに話が移って行く。Cは女性と付き合いたいととても思っていたことを話す。Cの思い描く聞き役イメージを、Tは共有し損ねることになった。その代り、女性との関係が話されるようになっていく。I先生、Yさんもともに女性である。この二人にしろ、その後に語られた家族にしろ、そしてこの男女の女性にしても、共通するイメージを伴っていることが感じられないだろうか。ここで女性との交際の話になるが、このイメージが女性と重なっているということは理解できるので、Cは女性との関係でこのイメージと関わろうとしていたのだということが窺われる。 

(32)それは自然な感情であると、Cの感情をTはノーマライズしている。下手に解釈するよりも、この方が自然な流れである。 

(33)新たなエピソードが語られる。Cがバイト先の女の子をデートに誘ったといういきさつだ。この女性はI先生やYさん、電車の中の女性などと共通するイメージを持っているだろう。 

(34)Tはそれほど重要でもない事柄に触れている。デートに誘った女の子がどういう人だったのかを尋ねてもいい。電車内の男女の女性と共通するものがあるかもしれないし、I先生やYさんとのつながりも見出せるかもしれない。「きっとあなたの話を真剣に聴いてくれそうな女の子だったのでしょうね」とか、「あなたのことを分かってくれそうな女の子だったの?」と伝えてもいいだろう。もう少し言えば、Cにこういう女性(イメージ)がいなかったために、Cは自分に欠乏感を抱いているということである。どのようなものが彼の欠乏を埋めてくれそうだったのか、その理解を深めることをTは手伝うことができるのである。 

(35)Cはここで新たに葛藤を語っている。Cは女性を好きになるのは構わないけれど、周囲にそれを知られたくないと言っている。恋愛感情は知られてはいけないという思いが強いようである。それだけ恋愛感情を抱くことはCにとってはタブーなのかもしれない。もっと深読みすれば、Cは自分の欠乏感を知られたくなかったのかもしれないし、自分の欠乏感を満たすには常に障害が立ちはだかっているという体験を語りたかったのかもしれない。 

(36)「悪いことをしているわけではないのにね」というこの部分だけが、このTの応答で救いになっている。「好きだということが知られたとしたら、周囲の人はあなたにどんなことをすると恐れているの」と尋ねる方が良かっただろうと思う。女性がCの求めている対象のイメージを一部担っているとすれば、それを妨害する対象はどのようなイメージであるかを明確化できたかもしれない。 

(37)Cは曖昧にしか答えられない。ただ自分の知らない所でこそこそされるのがイヤだという嫌悪感情を述べるだけである。ここでネットの書き手へと話が移る。この書き手はCにとって望ましくない対象イメージを含んでいる。このことは、Cにとって望ましい対象イメージは比較的明確になっているのに、逆の望ましくない対象イメージは曖昧にしか把握できていないということを意味しているのではないだろうか。 

(38)Cの感情をTは表現している。この応答は望ましい。なぜなら、周囲の人間がこそこそと何かをする、Cはそれを侵入的に体験しているようだからである。周囲の人のそうした行為が彼の中に入りつき、まとわりつくように感じられるのではないだろうか。少なくとも、Cが嫌悪する対象イメージの輪郭は掴めそうである。陰でこそこそとまとわりついて、侵入してくるというイメージなのである。 

(39)「放っておいてくれたらいいのに」。これもまたCの抱える望みの一つなのだろう。このことから分かるのは、彼の周囲には無神経に彼に関与してくる人たちがたくさんいたのだろうということである。そして、そういう関与にCは非常に苦しんできた経緯があるのかもしれない。この望ましくない対象イメージが、噂する周囲の人間であり、ネットで書き込む書き手に投影されているのだろうが、一番最初にこの対象となったのは誰であるかということをもっと知りたいところである。 

(40)ここで時間が来てしまう。欧米のカウンセリングでは時間が来たら、容赦なく終了する。個人的には、もっと柔らかく終了したいと思っている。あまり断ち切るような終わり方はクライアントを不必要に傷つけてしまうのではないかと思っている。しかし、この対話編では、時間が来たら唐突に終了することにする。 

 

 一回目にはいろんなテーマが広く語られるものである。次の点は押さえておく必要がある。 

・Cは望ましい対象を失っている。その対象は女性に期待されている。電車内の男女の女性にそのイメージが現れている。 

・Cを苦しめる対象はあまり明確ではない。それは噂する人たちやネットの書き手に投影されている。 

・激しい自己憎悪感情を抱いていた時期がCにはあり、そこには苦痛に満ちた体験があるだろう。 

・家族関係は、Cには非常に希薄なものとして体験されていたのだろう。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

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