<テーマ149>自我親和性から自我異質化へ(3) 

 

前項からの続き 

 

(149―4)抵抗は人間的な過程である 

 自我にとって親和性を帯びていたルールが異質化されていく時、当人には動揺がもたらされる場合もあり、時には苦しい体験となることもあるということを述べました。さらに加えて、(149―2)で述べたように、ルールというものは他のルールと絡み合って存在しているものなので、この苦しさはその人の心の広い領域において体験されてしまうことにもなるのです。 

 そのため、人によってはこうした自身の変化に抵抗したい気持ちが生じてしまうのです。そのことも理解できないことではありません。この苦しい状態から少しでも早く抜け出したいという感情が生じてしまうとしても、無理なことではないのです。そこでその人は親和的だった傾向にしがみつきたくなるのです。これは既に<テーマ148>にて述べた見解ですが、少し振り返っておきます。 

 たとえそれが異質性を帯びてきているとしても、以前の馴染のあるルールやパターンはそれまで当人に安定感をもたらしてきたものでもあります。上記のような状態にある時、新しい傾向を創造し自我に同化していくことよりも、以前の安全だった傾向を取り戻したいと望んでしまうこともあるのです。それがもはや古くなり、違和感をもたらし、現実に適合しなくなっていても、そちらの方が安全であり、安心できるように当人には感じられてくるのです。未だ生まれていないものに信頼を置くよりも、不都合をもたらすけれども確実に在ったものの方を当てにしたくなるのです。こうして、人は変化に対して抵抗してしまうのです。 

 私はこうした抵抗はとても人間味があると感じるのです。新たに変容していくにしても、やはり新しいものに対する恐れがあるのです。その恐れに耐えられないと感じたり、一時的にでも以前のものに逃避したいと感じたりするのは、ある意味では人間らしいことではないかと私は思うのです。 

 常にこうした抵抗があるとは言えませんし、その抵抗の程度も人によってさまざまであります。異質化されるものがその人にとって大きな部分を占めていればいるほど、変化していくことが耐え難い体験と感じられるものだと思います。 

 また、変化を恐れる傾向が強い人ほど、こうした変化が脅威として体験されていることも多いのです。いずれにしても、こうした体験は、その人の心が次の段階に進むまで続くものであり、次の段階に差し掛かると消失することも多いものであります。従って、クライアントはその一時的な不安定感や動揺を耐えることが望ましく、カウンセラーもまたそのように耐えるクライアントをサポートしていく必要があるのです。両者にとって、とても難しい局面を迎えることになるのです。 

 次節において、私は変化に対して激しく抵抗を示した男性クライアントの例を提示しようと思います。 

 

(149―5)変化への抵抗を示した一事例 

 ある男性はこれまでの自分の考え方や物の見方に対して、それが一面的で自分に都合がよくなるように歪めてしまっていたということに、カウンセリングを重ねるうちに、気付き始めました。彼はそうした自分の傾向に対して、今では疑問を覚えています。この傾向のために、彼は同僚たちと仲間になれず、彼らと摩擦を起こし、孤立した生活を余儀なく送ってきたのでした。 

 彼は自分が人から好かれないのは、この考え方、この歪んだ物の見方と関係があるということに気付き始めています。彼はここで選択を迫られているのです。つまり、新しい考え方や物の見方を身につけていって仲間の中で生きていくか、それとも、以前のものを固持してそれまでの孤立した生き方を続けていくかという選択です。前者は新しいものが創造され、定着するまで、不安定感や動揺を彼にもたらす可能性があります。後者はかつて安定をもたらしていたものであるけれど、彼の望んでいるものの多くを犠牲にしなければならないのです。どちらもリスクがあるわけです。 

 上記のような私の説明を聴くと、彼はそれはよく分かると答えました。そして、もし新しい何かを受け入れていくことになれば、自分のこれまでの生が否定されてしまうようで、それが怖いと彼は打ち明けたのでした。 

 私の説明不足もあったかもしれませんが、彼はこれまでの彼の生が間違っていると私から指摘されたかのように体験されたようでした。そもそもここにはどこにも否定の要素は存在しないということに注目してほしいのです。彼のこれまでの生が否定されているわけではないのです。ただ、それが望ましくないことをもたらしてきたこと、今ではそれが古いものになりつつあるということ、もっと違った傾向がこれから生まれてくるだろうということなのです。本当はただそれだけなのです。 

 彼は、結局、以前のものにしがみつきました。彼には人間関係から疎外され、孤立した過去に苦しんでいました。今でもそれで苦しんでいたのです。その状況に対して、彼の考え方や認知が深く関係しているという事実は彼にとっては受け入れがたいことであったかもしれません。このカウンセリングで彼は自分が責められていると感じたかもしれないし、自分がひどく悪い人間であるかのように体験していたかもしれません。でも、もし彼が人間関係の中で生きることができれば、誰も彼を責めないということ、人は彼を悪い人間だと思わないということ、彼の過去に何があっても誰もそれに文句をつけないこと、過去における過ちがどれだけあったとしてもそれが許してもらえているという体験ができたであろうと思います。でも、彼はその方向に進むことをあくまでも拒絶したのです。 

 彼は述べるのです。それでは過去のあの辛かった体験になんの意味があったのだと。孤立して、孤独だった日々は何だったのかと。彼は私にその問いを突き付けてきます。彼は苦悩してきた日々になんらかの意味づけをしたいのでした。それが無意味であったとは、あるいはそれが間違っていたとは、彼はそのようには認めたくないのです。 

ところが、人は変化して初めて過去の体験に意味が見いだせるものなのです。ここはよく誤解されている部分であります。実際、彼がその生を続けている間は、彼は過去の意味なんて見出せていなかったのです。 

新しい生き方に踏み出して初めて旧い生き方の意味が見えてくるものなのです。そこを通過して初めて過去の意味が見えるものであり、それを続けている間は見えないものなのです。ちょうど家の中に居る人は、自分がどんな家に居るのかは見えなくて、外に出てみて初めて、自分が居た家を見ることができるように。それと同じことなのです。 

もう少し踏み込んで述べるなら、彼はその過去を失いたくないだけなのです。望ましい将来を犠牲にしてまで、その過去を保持しておきたかったのです。なぜ、彼がそこまで自分の過去に固執する必要があったのかということは、彼のもう一つのルールと関係があるのですが、あまり深入りしないでおきます。 

 以上、変化に対して抵抗を示した例を提示しました。抵抗が生じるのは、それが辛い体験であるからです。彼の中では明らかに過去のことや彼の認知の一部が自我異質化の過程に入っていました。彼は自分の何かが間違っていたということが見え始めていました。それは彼には耐えがたい苦痛として体験されていました。変化の過程は既に始まっていたのでしたが、彼はそれに耐えられなかったのです。 

 変化の過程が始まれば、もっとその流れに身を委ねることができればいいと私はよく思うのです。自然の流れに任せればいいのです。そうすれば何かが自然に生み出されてくることがあるのです。 

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

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