<テーマ146>否定と肯定
(前項からの続き)
(146―4)自己否定が手放せない
前節で述べたことは、肯定と否定は同時に在るということでした。あることを否定するとき、その他の何かが肯定されていることが分かるということでした。
それはおかしいと思われる方もいらっしゃるかと思います。なぜなら、人が自己否定しているとき、そこに肯定されている何かの存在がないからです。でも、これは単に見当たらないというだけのことであって、やはり、私は肯定されている何かを感じるのです。
自己を激しく否定されている方々とお会いします。その方たちが自己を否定する時の口調を見れば分かるのですが、そこには否定以外の何かが感じられるのです。それも肯定的な何かです。
その人が自己を否定しているのだから、きっと他者を肯定しているだろうと思われるかもしれません。中には他者を上位に立てる人もありますが、自己否定している人は基本的には他者否定的でもあるのです。自己を否定して他者を肯定するということは、私の考えではまず不可能なあり方なのです。それをしようとすれば、他ならぬ自分が人間から切り離されなくてはならないからです。そうではなく、もっと他のものが肯定されているのです。
激しく自己否定している人は、その否定を肯定しているのです。つまり、自己を否定しているその人がまず在るわけですが、その自己を否定している自分が積極的に肯定されている、もしくは、肯定的に体験されているということなのです。
その人は自分を否定しています。自分を否定している自分を肯定しています。こういう在り方が可能だろうかとあなたは疑問に感じられるかもしれません。私はこの在り方はけっこう頻繁に見られるのではないかと思います。
例えば、自分を犠牲にして他者のためにひたすら尽くすという神経症的な人がいます。DV「被害者」によく見られるタイプです。その人は自分を毀損し続けています。自分を否定し続けているのと同じです。でも、そこに価値を置き、あたかも英雄的な自己犠牲をしているかのように、それをする自分をどこかで肯定しているのです。ただ、この肯定は当人に気づかれていないことが多いのですが。
もし、機会があれば、とことんまで自己否定している人が自己否定している現場に出合わしてみられるとよいでしょう。その様子を見れば、上記のことが分かるでしょう。彼らは自分を徹底して否定し、卑下します。でも、それをあたかも英雄的な行為であるかのように尊大に話しているように聞こえることは間違いなしです。
つまり、自分は人間失格だなどと自分を貶めることで、自分は他の人とは違う特別な人間なのだということを証明したがっていることが見受けられたりするのです。
そして、この肯定的な要素がある限り、その人の自己否定は繰り返されてしまうのです。キルケゴールの言葉のように、理性ある人間は絶対的に自分自身を否定できない存在なのです。自分を否定しているようで、そこに肯定されている何かがあるために、その否定は当人には手放すことができない行為になるのです。
(146―5)否定の否定が肯定されること
何が言いたいのかといいますと、人間は究極的には自己否定できない存在なのだということなのです。自己否定しているようで、それは自己否定しているように見えるということでしかないのです。肯定されている何かが同時的に在るのです。
その肯定されている何かをここでは自己否定している自分であると措定しました。このことから理解できたことは、その肯定がある限り、その人は自己否定を止められないということでした。
それは、自己否定をしないようにしてなされる努力の方向を誤らせるのです。自分を否定することを止めるではなく、自分を否定している自分をこそ否定されなければならないということになるのです。
例えば、「僕は人よりも劣っている」と言って自己否定している人がいるとしましょう。この時、「ダメだ、こんな考え方をしてはいけない」と、そこを止める努力を重ねてしまうのです。でも、自己否定することによって自己肯定を獲得してきたのですから、これは同時に肯定されているものをも手放すことになってしまいます。だから、これは当然苦しくなってきます。肯定的な何かが完全に得られないように思われるからです。
そこで、「僕は人よりも劣っていると自己卑下することで、僕は自分を特別な人間だと信じる」という部分に対して、「でも、それは間違ったやり方だ」と言わなければならないということなのです。否定している自分が否定されなければならないというのはそういう意味なのです。自己否定から得られる肯定感こそが否定される必要があるというのが、私の考えなのです。
ここで得られていた肯定感を否定するとなれば、この否定は同時に何を肯定するでしょうか。おそらく自己否定を放棄している自分を肯定していることになるでしょう。次に、このことをまとめて見てみましょう。
(146―6)要点
上記のことを少し簡潔にまとめてみます。
まず、
・(命題1)私は自分を否定している。
・(命題2A)私は自分を否定している自分を肯定している。
を初めに設定しました。両者は背理しない、つまり矛盾しないのです。(命題2A)が(命題1)を正当化し、強化してしまうのです。
この命題の行き着く所は、
・(命題3A)従って、私は自己否定を止められない。(もしくは、私の自己否定は正しい、とか、自己否定を止めたくない、)ということになるでしょう。(命題1)は変わらず存続するでしょう。
そこで、この(命題2A)の部分こそ変える必要があるということを述べてきました。
そうすると、
・(命題1)私は自分を否定している。
・(命題2B)私は自分を否定している自分を否定する。
という背理になります。
これは、自分を否定し、自分を否定している自分を同時に否定するという背理で、(命題1)と(命題2B)は矛盾を起こし、両者が成立しないということです。(命題2B)があるが故に、(命題1)が成立しないのです。(命題2B)が(命題1)を排斥しているからです。でも、(命題2B)は(命題1)が成立しなければ導かれないものなのです。もし、この両者が両立してしまうと、その人は身動きが取れなくなってしまいます。
この背理は肯定的な何かを付加することで解消される必要があります。そうすると、この命題の行き着く所は
・(命題3B)私は自分を否定している自分を否定する自分を肯定する。(つまり、私は自分を否定しているような自分を否定し、そのような自分を肯定するということ。自分を否定しない自分を肯定する、ということ)
という命題なのです。これは結果的に(命題1)を覆すものになるのです。
実際の人間の体験や感情は複雑なので、これほど簡潔に述べることができないのが実情だと思います。ただ、自己否定を止めようと努力を重ねてきた人が、しばしば上の(命題1)の部分しか見ておらず、そこだけをどうこうしようとされてきているのです。当然、この努力は報われることがありません。非常に残念なことだと思います。
そうではなくて、その奥にある(命題2A)に働きかけないといけないのではないかということなのです。そこが変わらない限り、(命題1)が繰り返されてしまうでしょう。それが本項で私が述べたかったことなのです。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)