<テーマ146>否定と肯定 

 

(146―1)用語について 

 本ページは「自己否定と劣等意識」というタイトルを付しています。 

 「劣等意識」というのは、私たちに馴染のある言葉で言えば「劣等感」のことであります。次の二つの理由から、私は「劣等感」ではなく「劣等意識」という言葉を用いることにします。 

 理由の一つは、人は劣等感に苦しむのではなく、劣等意識に苦しむものであるという前提によるものです。人が自分の中に何か劣っている部位を認識すると劣等感情を体験します。そして、人はその劣等感情を意識し、劣等部位を意識するようになり、さらにはその劣等部位を有する自分を意識するようになります。「意識する」ということがここではとても大きな働きをしていることが窺えるので、「劣等意識」と呼びたいのです。 

 理由の二つ目は、これは語感によるものです。よく「意識は変えられる」と言われたり信じられたりしていますが、事実、自分の意識は変えることができるのです。感情以上に意識は変革していくことができるのです。その意味合いをも含めて、「劣等意識」という言葉を用いたいのです。 

 一方、「自己否定」の言葉は、これはそのままの意味合いで、自己否定とは自分の中の一部もしくは全体が自分自身によって否定されているという現象を指している言葉としておきます。 

 自己否定と劣等意識ということを同列に並べるのは、自分の中で否定されているものが劣等部位であり、その劣等部位を有する自分自身を否定したいという気持ちに人は襲われたりするからであります。つまり、自己否定と劣等意識とは密接につながっていて、切り離せないものだ私は思うからです。 

 そして、自己否定には自分で自分を否定するという側面と、自分が他者から否定されるという側面とがあります。ここで言う「自己否定」にはその両者を含んでおり、今後はその双方を考察の対象にしたいと思います。 

 

(146―2)人は自分自身を完全には否定できない 

 「否定」ということはとても難しい問題を孕んでいます。ある人が「現実に否定」されたのか「否定されたかのように体験した」のかは、その体験をしっかり吟味してみないと分からないことも多いのです。 

 しばしば、クライアントは自分の体験を大雑把にしか把握できないでいます。それは人間がとても複雑な機能を有していて、一度に多くのことを同時に体験し、その体験を抽象したり総合したりすることができるからです。また、一方では、自分の体験をしっかり吟味するほど自分自身と接触持つことができていないという理由にもよります。 

 前項で示したことは、自分が否定されたというように体験されていたとしても、よくよく吟味すれば、それは自分の要求が通らなくて、そのことで傷ついていたという体験であることが分かるという一例でした。そこにはそもそも「否定」なんてなかったかもしれないのです。 

 幾分、文脈を異にしているのですが、キルケゴールは「理性は自己自身を絶対的に否定してしまうことはできない」(『哲学的断片』より)と述べており、実は私もその通りだと信じているのです。 

 本項において、私が取り上げたいことは、人は自分自身をすべて否定することはできないという事実であります。もし、自分を完全に否定しているというような人がいるとすれば、私はそれはもっと別種の活動ではないかと考えています。 

でも、その前に否定と肯定の関係を見ておくことが大切だと思います。いささか抽象的な話になるかもしれませんので、読むのが面倒だと思われる方は(3)を飛ばして、(4)にお進みいただいて結構であります。 

 

(146―3)二分法の陥穽 

 私たちは二分法の考え方に馴染んでいます。二分法というのは、対極する二つでもって分類するというものです。例えば「強い―弱い」「正しい―間違っている」「健康―病気」 

「良い―悪い」「高い―低い」等々です。「肯定―否定」もまた一つの二分法であります。 

 こうした二分法には一つの落とし穴があると、私には思われるのです。ある人が何かを二分法的に捉えたとすれば、その人には片一方しか見えていないということが生じるのです。他方も確かに存在しているのですが、そこはなかなか見えないという落とし穴なのです。 

 ある人が「あの人は強い」と表現するとき、そこにはその人よりも「弱い」誰かの存在が想定されているものです。それが「あの人は私よりも強い」という意味であれば、そこでは言外に「私はあの人よりも弱い」を伝えているということなのです。 

 「肯定―否定」にも同じことが言えるのです。例えば、「私はインターネットの世界を否定している」と述べる時、そこには他に肯定されている世界の存在が暗示されているのです。「私は現代という時代がイヤだ」と言って、現代を否定する時、そこには私にとって理想的な過去の時代があるということをも表現していることになるのです。 

 つまり、否定と肯定は常に一つであり、否定の中には肯定が、肯定の中には否定が含まれており、それらが同時に提示されているということなのです。私たちが何かを否定する時、そこには肯定されている何かの存在が暗示されているのであります。 

 むしろ、二分法には対極のものがなければ成立しないものなのです。否定はそれ自体では存在しえないのです。同時に何かが肯定されなければ否定は成立しないのです。逆もまた真なりです。 

 例えば「差別をやめよう」というスローガンがあるとします。ここでは「差別」が否定されています。同時に「平等」ということが暗示的に肯定されています。それでこのスローガンは成立できるのです。もし、「差別をやめよう」と言って「差別」を否定し、同時に「平等であることもやめよう」と言って「平等」をも否定すれば、それは矛盾であり、背理であります。この背理を解消するには、そこに肯定的な何かを新たに持ち込まなければならないのです。そこで例えば、「何があっても独りで生き抜きましょう」と言って、「自力」を肯定するとすれば、この背理は解消されるのです。「差別はしないけど、平等でもない社会で、自力で生きよう」と言ったとすれば、内容が倫理的にどうであれ、背理は解消されていることになります。 

 何かが否定される時には、必ず何か肯定されているものが付随しているはずなのです。それがなければ背理を生み出すのです。もし、背理を生み出したとすれば、人は矛盾に耐えられないので、この背理を解消するために欠けている方を補うのです。否定して、さらに否定すれば、そこに肯定的な何かを補って、背理を解消するのです。 

 幾分、話を先取りしすぎましたが、上記のことは後に再度取り上げることにしましょう。ここで押さえておきたいことは、自己否定という時にも、そこに何かが肯定されているということなのです。 

 

次項へ続く 

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

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