<テーマ135> 怒り不安自己感情(4) 

 

前項からの続き 

 

(135―3)本事例の要点 

 一人の女性クライアントに生じたことを追ってきたのですが、この事例自体、多くの学ぶべき点があるので、いささか多くのことを取り上げすぎたような気にもなっています。怒りというテーマに絞って少し振り返り、要点を示すことにします。 

 彼女の事例を通して述べたかったことの一つは、怒りでもって不安に対処するということがあるということです。そして、これはけっこう頻繁に見られる現象であります。 

 最初に怒りには適切なものと不適切なものがあるということを述べました。その怒りが適切だというのは、それがその怒りを誘発した状況に適したものであるという意味であります。不適切な怒りというのは、状況に適しているように見えず、過剰であったり、長引いたりするものであります。その怒りが不適切なものになるのは、そこにその人の不安が関わっているからであると私は考えるのです。 

 自分で予約を取っておきながら、ケンカ腰で私を訪れるクライアントもあります。きっと、カウンセリングを受けるということ、あるいは私という人間に会うということなどに関して、とても不安を体験されているのだろうと思います。 

 小さな子供が独りで留守番をしているという場面を想像してみましょう。この子は独りでとても心細くて、すごく不安だとします。この子がこの状況においてどのような反応をするかということはいくつも考えられるでしょう。「不安だから早くお母さん帰ってきて」というものもあれば、「お母さんなんて嫌いだ、顔も見たくない」と怒りで反応するものまで様々あるでしょう。 

 不安があまりにも強すぎるという人ともお会いすることもよくあります。しばしば確認できることですが、その人が居ても立ってもいられないくらい強い不安に襲われている時、本当にイライラされているのです。強い不安に襲われている人と怒りを抑制しようとしている人とは、外見的にはとても良く似ていると思うことも私にはあるのです。 

 簡潔に述べますと、不安という感情と怒りという感情にはつながりがあるということであり、人によってはこれが非常に強くつながっているということなのです。そして、しばしば不安の対処法として怒りということを身に付けた人もおられるのです。事例の女性はそのような人ではなかったかと私は理解しているのであります。 

 

(135―4)不安への対処 

 そこで私たちは不安という感情について考察していかなければなりません。これは怒りのテーマから外れて、不安のページにて書くような内容となるでしょう。 

 不安というのもまた、人間が体験する感情の一つであり、その人が生きた人間である限り、不安を体験することは避けられないものであります。不安とはそれだけ人間にとって普遍的な感情かもしれないのです。 

 人間の文化とか、宗教とか、あるいは科学とか、それらを推進した原動力の中に不安という感情がきっとあるだろうと私は捉えています。その不安を解消するためにそれらは発展していったと見ることもできるのです。 

 不安は常に体験される可能性があるものです。それは人間が自分の死を避けられない限り体験されるだろうと言われることもあります。つまり、何かに対して、自分が無力だという状況がある限り、それに対しての不安がつきまとうと考えてもいいわけであります。 

 例えば、自分がいつまで仕事ができるか不安だと述べる高齢の人がいるとしましょう。老化という自分でもどうすることもできないことに対して無力な自己を体験されているがために、そのような不安が喚起されてくるのでしょう。 

 自分の努力でどうすることもできない事柄というものが人生にはあるもので、そういう事柄に関して、私たちは不安を体験すると考えていいだろうと私は思うのです。私たちが不安になることの多くは、私たちの将来のことに関わっている事柄です。なぜそうなのかと言うと、将来のことはまだ自分の効力の及ぶ範囲外にあるものであり、自分ではどうすることもできないとか、何が起きるか分からないというニュアンスを非常に強く感じ取ってしまうからではないでしょうか。 

 従って、自分の努力ではどうすることもできないという事柄が多ければ多いほど、その人は不安に晒される機会が増えるという考えが成り立つのです。 

 不安に対してどのような対処をするかに関しては、非常に多くの対処法があるのです。怒りでもって不安に対処するというのはその中の一つに過ぎないのです。その他にも様々な試みを人間はしているものです。特定の対象と結びつけて、特定の物や場所が怖いという恐怖症にする人もあります。ひたすら外側のものを追求するというような躁的防衛をする人もあります。補助的にその人を支えてくれるように思われる品物にしがみつくというような人もあります。不安という観点からその人を見ると、とても多くのことが窺われると私は考えているのです。 

不安に対処するための怒りについて言うと、その怒りの感情を体験している時、その人は剥き出しの不安から免れているのであります。不安を感じる代わりに怒りを感じているのです。恐らくですが、その不安のなにがしらの部分は当人にも体験されているだろうとは思います。しかし、それが不安であるということを当人が認識できているかどうかということは、また話が別なのです。だから、その怒りの根底に不安感情があるということを洞察できたとすれば、その人は一つの段階を超えたことになるのです。 

事例の女性もそこまで進み始めていました。彼女の自我は怒りという対処法を放棄し始めていました。その代り、怒りでもって覆い隠していた不安感情を彼女はそのまま体験しなくてはならないという事態に陥ったわけであります。 

 この時、彼女の祖父母が生きていてくれたらなあと私も何度願ったことか分かりません。彼女が不安を体験し始めるようになってから、その不安が剥き出しのまま体験されるようになるまではとても急速でした。私も対応しきれなかった部分が多々あるのです。それに、その不安には意味があり、当然生じて然るべきものであり、そして一時的なもので終わるだろうということ、さらには、その不安に彼女は耐えていけること、不安が襲ってきてもいずれはそれが鎮まること、それを繰り返していく中で不安に襲われる頻度や時間が少なくなるということ、そういうことを伝えて保証しても尚、彼女の祖父母には至らない自分を痛感したのでした。 

 弁解するわけではないのですが、彼女が不安を体験するようになったのは、カウンセリングを初めて13回目辺りからでした。これが50回目に生じたのだとすれば、事態はもっと穏やかに進展していたかもしれないとも思うのです。彼女の中で急激に展開していくものがあって、私はそれに十分ついていけていなかったようにも思います。時にはそれを制する必要もあったのだと思うのです。だから、私にとってはいくつもの反省点と後悔を残した事例なのです。 

 そして、私はもっと考慮すべきだったと今では思います。彼女の生活において、不安に襲われる彼女を支えてくれるものが何もないのです。夫はむしろ支えを必要としているような人であり、子供もまた然りです。支えてくれるはずの家は、お隣とお向かいのことで、むしろ不安を掻き立てられる場所になってしまっています。そのために、外の世界に救いを求めることもできないのでした。彼女は自分の家を死守しなければいけないと感じていたからであります。こうして、支えのない生活において、強い不安を体験するようになったのですから、彼女には相当辛い思いを体験させてしまったのではないかと私は今でも悔いるのです。 

 

(135―5)自己感情という概念 

 さて、怒りから始まり、不安へと発展したこの事例を通して、私はさらに不安についても考察していこうと思っています。不安を考察するにあたって、自己感情という概念を提示するのですが、それをいくつか説明して、本項を終えようと思います。 

ここで私が言う自己感情とは自己に関する感情とか感じをひっくるめて記述しているとお考えになられてけっこうです。つまり、それは自己肯定感だとか、自己効力感、自尊感情、自己受容感情などをすべて含む概念だということです。それらを個別に表記すると非常に煩わしいので、一語で表現できる言葉があればいいと思ったので、こういう言葉を使っているわけなのです。 

 さて、私が述べたいと思うことは次のことであります。自己感情の低い人ほど、その人は不安を体験する機会が増えるということです。実際、不安性障害と診断されるような人は、ほぼ間違いなく、自己感情が低い人たちであります。私はそう断言しても間違いではないと信じています。同じように、怒りに駆られやすいという易怒的な人もまた、自己感情が低い人たちなのであります。 

 次項において、こうした点を考察していく予定でおります。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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