<テーマ135> 怒り不安自己感情(4) 

 

(135―1)「見ること」と嫉妬・被害感情について 

 事例の女性は自分がその人たちを見て、監視しているのに、彼女の方が彼らから見られ、監視されているという訴えをしてきたわけであり、そこに逆転が生じているということを前項の最後で見てきました。 

 これは被害感情(それも不適切な被害感情)というものが、どうして生じるのかというテーマに通じるものでもありまして、実はとても深いテーマなのです。図式的に説明すると、自分が彼らを攻撃したいのだけれど、それが禁じられているという状況では、彼らが自分を攻撃してきているのだという形に転換されているということです。そうすることによって、自分の抱えている敵意、攻撃感情の方は正当化されるので、それが禁じられなくなるということなのです。 

 実際、ひどく被害感情に囚われている人は、とても攻撃的だったりするものです。私も何人もそういう方を見てきました。彼らは自分が迫害されていると訴えながら、迫害する相手に対しては極めて攻撃的になるのです。そして、自分が攻撃的になっているということを知らないのです。 

 こういうことは時に経験されるものであります。例えば、小さな子供A君が母親に「B君が僕に意地悪するんだよ」と訴えます。共感的な(だけの)母親なら、「まあ、B君って悪い子ね」とでも答えて、終わりになるでしょう。もう少し子供と関わろうとする母親なら、「まあ、B君がAちゃんに何をしたの?」とでも尋ねるでしょう。 

 A君の答えは次のようなものかもしれません。「B君はとても高価な玩具を僕にみせびらかすんだよ」と。心理学などという人生に何の益ももたらさないような学問を熱心にされていた母親なら、ここで閃くものがあって、「あら、それはB君の玩具をAちゃんが羨ましがっているだけよ」などと答えるかもしれません。そうなるとA君は決して母親に心を開かなくなること間違いなしです。 

 「Aちゃんも持っていないような玩具をB君が持っていて、それを持っていないAちゃんに見せびらかすのね」と、A君とB君の違いを押さえる母親もあるかもしれません。A君は次のように言うかもしれません。「そうだよ。僕だって持っていないような玩具をB君が見せびらかすんだ」と。そうしたら、「そうなの。その玩具、Aちゃんも欲しいのね」と母親は答えるかもしれません。A君は「僕も欲しい玩具なんだよ」と答えるとします。母親は「同じ玩具を持っていたら、B君とももっと仲良くなれそうに思うのね」とでも答えるかもしれません。 

自分が欲しいと思っているものをB君が持っている、それでA君はすごく腹を立てているわけです。B君がその玩具を現実に見せびらかしたかどうかはそれほど重要ではないことで、確実に言えるのは、A君はB君のその玩具を見ているということです。その玩具を見れば見るほど、A君の心中は穏やかじゃなくなっていくでしょう。なぜなら、自分はそれを所有して然るべきなのに、所有していないということをまざまざと「見せつけられて」しまうからです。実は見せつけられたのは、自分が所有していないという方だったのに、B君が所有しているということを見せつけられたというように体験していると述べていいかもしれません。心の中の感情が複雑であればあるほど、そして、そういう感情が上手く把握できなければできないほど、こういう逆転が生じることでしょう。 

 あまり適切な例とは言えなかったかもしれませんが、人間にはそういうことをしてしまうことがあるということを押さえておきたいのです。 

 そういう過程を無意識的にやっているのです。図式的に描くと、どうしてそれが無意識的なのか、その辺りが掴めないかもしれません。ここで少しだけ脱線して、無意識なるものを眺めてみましょう。 

 無意識というものは、人によって定義が異なるのですが、そこにあって見えていないもの、見えているのにきちんと見えていないというものはすべて無意識であると私は捉えています。何かを見るということに絞って考えましょう。仮に一枚の絵画を見ているとしましょう、その時、必ずしも絵画の全体すべてに意識が行き渡っているとは限りません。見えているのに見えていないという領域が生じたりするのです。「この奥の方に木が描かれていますね」などと指摘されて、初めて「本当だ、こんな所に木が描かれている」ということを発見したりします。この領域は、その人にとっては見えていながら見えていなかったということになります。そういうものが無意識なのです。 

 何かを感じているのに感じていないとか、聞こえているのに聴いていなかったりとか、考えているのに考えていなかったとか、そういうことすべてに無意識が関わっているのです。 

 クライアントはしばしばおっしゃいます。「ずっとこの問題を考えてきたのに、そんな風に考えていなかった」などと。これは考え方の問題ではないのです。考えていたけれど、考えていない部分があったり、考えてはいたけれど本質の部分を考えていなかったりとか、考えていたけれど考えてはいけない部分があったりとか、そういうことを示していることが多いのです。そこにあるのが無意識(の働き)であるわけです。 

 このことは視点を変えると、次のことを意味するのです。それが見えているのに見えていないから、指摘されるとそれが改めて見えるということです。あるのに見えていないのであって、初めからないものを見るわけではないのです。だから、私たちは無意識のことに気づき得るのであります。 

 いささか脱線してきましたが、事例の女性に戻ろうと思います。 

 

(135-2)内面の現実を外的現実として位置付けるための行動化 

 そして、彼女はある時、彼らに正面から挑んでいきました。行動を起こしたわけであります。この行動化がなぜ起きたのかが疑問になります。彼女はこの折り合いを現実のものにしようとしていたと考えることができるのではないかと私は思うのです。もちろん、彼女はそういうことを意識していないのです。 

彼らは悪意のある眼差しでこちらを見ていると彼女には体験されています。これは彼女の中だけで体験されていることでした。それが客観的で誰も否定しえない現実であるということを証明するには、それに則った行為を起こさなければならなくなるでしょう。従って、向こうが見ているからこちらは攻撃するのだということであり、実際に攻撃するということは、向こうが見ているということを現実の事実として定立することになるのです。 

 では、なぜそれを現実の事実にしてしまわなければならなかったのかということが次の疑問になります。彼女は心の中で、無意識的にこの状況に折り合いをつけたはずではないか、それなのになぜ行動に移し、現実化する必要があったのかということであります。 

恐らく、折り合いをつけたはずだったのに、この折り合いが破たんしたのだろうと思います。彼女の内面でつけていた折り合いを、現実の世界において実現化させたわけであります。それは内面だけで折り合いをつけることの限界に達したということであり、現実の補助を必要としていたということになるのではないかと思われるのです。 

 こういう仮説をいきなり言われると混乱される方もおられるのではないかと思います。彼女の行動化とは、言い換えれば、彼女の内面の現実だったものを外側の現実にしてしまうという意味あいがあるわけです。こういうことは人間関係で時々起きることでもあります。 

 例えばあなたが友人と会話しているとしましょう。友人はあなたに「あの本、読んだことある?」と質問されたとします。あなたはきちんと読んでいないのに「読んだよ」と答えるとします。実際には、あなたのこの答には、「その本を読もうと思っていた」から「書店で手に取ってパラパラページをめくってみた」まで幅広い意味合いを含むもので、それを「読んだ」ということにしているわけです。あなたは決して嘘をつくつもりはなかったのです。友人の質問に対してあまり正直に答えることが憚られただけなのかもしれません。そして、友人がその本のことをあれこれ話し始めたとしたら、きっとあなたは自分の返答を悔やむだろうと思います。あなたは友人との関係において、一つ負い目を背負ってしまったわけです。あなたはそれをそのまま押し通すこともできるし、解消する方向に動くこともできます。これを解消するには、友人に「いやあ、実はね、読んだとは言ったけれど、実際には書店でページをめくってみた程度なんだよ」と正直に打ち明けるか、実際にその本を購入して読むかするしかないでしょう。後者の場合、あなたの内的な事実(本を手に取ってページをめくっただけだけど、それを読んだということにしよう)を、現実に事実として履歴を残しているということになります。そして、こういう実現化によって、あなたは不安を解消しているのです。 

 事例に戻りましょう。彼女が現実に彼らに先手を打って「反撃」することによって、彼らに「攻撃」されているという彼女の内面にある事実を外側の現実にしていると考えることができるのです。そうして、彼らに「攻撃」されているという履歴を、それが現実のものとできるわけであります。それは彼女が内面において事実だとされていることを、内面において押し通していくことの限界に達して、そこから生じる苦痛を解消しようという動きでもあったのだと考えられるわけです。 

 従って、彼女の行動化は、彼女自身が考えているよりも遥かに危険なものだったのです。そして、彼女はこの折り合い、それを現実化するという折り合いにも失敗してしまうのです。その直後に、彼女のカウンセラー探しが始まったということなのです。恐らく、彼女の内面において、急激に危機感が高まったのではないかと私は察します。 

 

次項へ続く 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

 

 

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