<テーマ123> 無力者の抵抗
(123―1)人には身に付けた表現スタイルがある
他項で述べたことですが、人にはそれぞれ、その人が生きてきた中で身につけたスタイルというものがあります。
そういうスタイルがあるということは、いくつかの場面で、その人は身につけたスタイルに従って行動する傾向が強くなるということです。
従って、このスタイルはその人の行動に一貫性をもたらすものになるのです。私たちが「性格」と表しているのは、このスタイルであるということができるのです。
怒りの表現ということにもその人のスタイルがあると私は仮定します。つまり、その人が怒りを表現する時には、かなり一貫したやり方をとるものです。
例えば、ある人が私に対して「寺戸はサイテーのクズ野郎だ」と掲示板なんかに書き込んだとします。その同じ人がコンビニの店員さんに毒を吐く時には「あそこのコンビニ店員はサイテーのクズ野郎だ」というように書き込むものです。時には、その人は自分自身に対してさえ「私はサイテーのクズ野郎だ」と罵るものです。
もちろん、ここで挙げたように一字一句違いなく罵るとは限らないとしても、大体において、同じような傾向の罵言を吐くものです。その人が身につけた表現スタイルがあるからこそ、場面や対象が違っても、同じような表現をするものなのです。
(123―2)硬直している人ほど一つのスタイルにしがみついてしまう
そんなことはないと思われる方もおられるでしょう。書き手が毒を吐くのにも、いくつものパターンがあるのではないかと反論されるかもしれません。確かにそれは考えられることではありますが、私はそれには素直に頷けないのです。
なぜかと言いますと、書き手が繰り返しあのような書き込みをするということは、その人の行動パターンが既に限られてしまっていることの証拠であると思われるからです。
様々な場面で、様々な行動パターンが採れる人は柔軟性のある人だと言えるのですが、書き手にはそのような柔軟性を欠いており、かなり硬直したパターンで生きている人たちであるという印象を私は受けるのです。
あるいは行動のレパートリーがほとんどないのかもしれません。従って、頭に来るようなことがあっても、一つのやり方でしか対処できないのだろうと思います。その限定された対処法がネットで書き込むということです。後でまた取り上げる予定ですが、他の対処法が何もないからこそ、「書き手」は書き込まざるを得なくなっているのだと私は理解しているのです。
パーソナリティに柔軟性を欠き、硬直している人ほど、さまざまな場面においても一つの行動パターンで応じてしまうということになるのです。そして、そのように硬直している人ほど、その表現スタイルも単一のものになってしまう傾向があるのです。
(123―3)無力者が攻撃する時
ここでネットに書き込むということがどういう現象であるかを考えてみましょう。ある人は誰かに対して頭に来ることを体験します。その人がネットに書き込みます。その書き込みは、怒りをもたらした相手に知られない所でなされるという、いわば相手の目に触れるかどうか非常に不確実なやり方なのです。相手に知られないように、相手の悪評を流すというやり方なのです。
まず、考えたいのは、こういうやり方を採ってしまうのはどのような立場の人であるかということです。それは、明らかに相手に対して正当な手段を取ることができない立場の人たちなのです。相手に対して弱い立場にある人であるはずです。
この立場の弱いというのは、言い換えると、相手に対してまともに物を言えないということでもあります。相手に対してあまりに無力であることを体験しているのだと私は思います。
無力者が人を攻撃する時はこのようなやり方を採ることが多いのです。脅迫状を送りつけたり、いきなり切りつけたりすることも、同じであると私は捉えています。すべて相手との関係で無力な人が実践するやり方なのです。
この無力さは、その怒りを適切に処理することに失敗している自分を体験していることからももたらされているかもしれません。つまり、相手との関係で無力であるだけでなく、自分自身に対しても無力であるという体験をしている人もあるかもしれません。
無力な自分を体験しないためには、それをもたらした相手の価値下げをもしなければならないのでしょう。実際、以前私が受け取った脅迫状まがいの文面はそのような活動で満ちておりました。私がその人に気付いて欲しいと願うのは、相手を価値下げして自分の優越を維持することではなくて、そうせざるを得ないほど無力感を体験されている自己の方なのです。
「書き手」に対しても、私は同じように言いたいのです。まず、無力な自分を体験しているのだろうということ、その無力感のために、非常に惨めな自分を体験されているだろうということです。確かに辛い体験ではあるでしょう。それで精一杯反抗したくなるでしょう。でも、そのやり方は「書き手」の内面をかなり損ねるやり方だと私は理解しています。そこに大切な事柄があるかもしれないのですが、「書き手」の書き込むという行為は、こういう部分には決して取り組まれることがないものとなるのです。
(123―4)ネットは自分を偽る場である
柔軟性を欠き、一つのやり方でしか対処できなくて、尚且つ無力な自己を体験されているとすれば、その人はあちらこちらで同じような書き込みをするでしょう。
掲示板に書き込むというこのやり方が、最も安易であり、安全であると感じられるからです。簡単に書き込めて、相手から反撃されない確証が得られるからです。
だから、一つの掲示板に繰り返し毒を吐くというような「書き手」もけっこうおられるようです。あるいは、特定の他者のことを、複数の掲示板にて書き込むという人もあるようです。
よく、「ネットでしか本音を語れない」というように表現されるのを耳にするのですが、私はそれに対しては半信半疑です。もしかすればそのような人もおられるのかもしれませんが、私がいくつかの掲示板で見た限りでは、そこに「書き手」の本音などが語られているとは思えないのです。別項で述べるように、書き手は決して自分自身を書かないからです。むしろ「ネットでしか自分を偽れない」という人も案外多いような気がするのです。
もし、本音を語るなら、書き手は相手を攻撃することではなく、自分の無力さや卑小さや弱さをもっと書き込んでいるはずです。しかし、私の見た範囲では、そういう書き込みを目にすることは滅多にないのです。
時には、本音どころか、自作自演しているのではないかと思われるような書き込みをも目にするのです。だから、掲示板というものは、「書き手」が本音を語る場ではなく、むしろ「書き手」が自己を偽る場となっているのではないかと私は捉えています。
従って、私は個人的に次のような見解を持っているのです。ネットの掲示板で書かれるのはその人の本音ではなく、偽りのその人であるということです。その掲示板の中でしか、相手よりも強く尊大な自己を表現できないということです。実際は、その人はもっと相手よりも微弱で無力な自分を体験されているかもしれないにも関わらずにです。そして、書き込みはその人の偽りの方を助長する行為となる、私はそう捉えているのです。
(123―5)私の反応
ここで公平を期するために、私も本音を書きましょう。私が私に対する書き込みを目にする度に、私は忌まわしい過去の古傷に触れられたような体験をするのです。それはかつての迫害された自分を再体験するような感覚を受けるのです。それだけに私はその手の書き込みに対して過敏に反応してしまっているのです。
最初に私に対する書き込みを見た時には、非常に嫌な気分に襲われました。この嫌な気分がどこから来ているのかを私は私なりに追及していったのです。
子供時代、私は家族の鼻つまみ者でした。それが私の迫害恐怖を生み出し、自分が迫害されるという物語を空想し続けていた時期をもたらしたのです。
ああいう書き込みを目にした時、私はかつての空想が甦り、あの忌まわしい空想が実現したかのような恐怖感を覚えたのでした。このことが洞察できるまで、私はとても苦しい思いを体験していました。
逆にこの洞察が得られると、私は私に対しての書き込みが苦しくなくなっていくのを体験しました。そして、書き手のことをもっと知りたいと思うようになったのです。
たとえ癒えている傷であるとしても、傷跡を無神経に撫でられるのは気持ちいいものではありません。だから私を苦しめたいと思う人はどんどん私に対しての書き込みをされたらいいのです。私は書き込まれたものを削除しようとはしません。むしろ永久保存しておきたいくらいなのです。その書き込みで、恥をかくのが私の方であるか、あるいは書き手の方であるか、いつか決着が着く時が来るでしょう。そして、私が自分の体験しているこの苦しい感じがどこから来ているのかをしっかり把握できている限り、私はそのような書き込みで被害を受けることはないでしょう。私を不快な思いにさせることはできても、「書き手」には私を傷つけることはできない、そう自負しているのです。
私は以前、エドガー・アラン・ポーの「息の喪失」という短篇を解釈して掲載したことがあります。『その他(1)』ページを参照していただければ結構であります。文学好きのあるクライアントから「どうしてああいう読み方ができるのですか」と問われたことがあります。それは私が迫害される人に同一視できるからです。私自身にそういう体験があるので、あの主人公の体験をそのように捉えたわけです。私は私自身の迫害体験や迫害空想を逐一書こうとは思わないのですが、私にそのような経験があるということは、そのテーマの箇所を読んでいただければ頷かれるのではないかと思います。
(123―6)書き込みは一つの「症状」である
さて、私にそういう体験があって、書き込みは古傷を蘇らせるものとして、私には体験されました。書き手について書いていた最初の頃は、私は自分の過去や空想を否定したい気持ちから、そして書き手に対して反撃したいという気持ちで綴っていたのです。私はこれを隠そうとはしません。かなり辛辣に書いた箇所もあるのではないかと思います。
今、こうして書くのは、私の個人的な過去や感情に基づくものではないのです。「書き手」が書き込むのを、私は一つの「症状」として捉え、その他の「症状」と同じように考えてみたいからです。そして、書き込むという行為が、「書き手」をしてどこに導くかを考えたいのです。
まず、それが「症状」であるということを示したいと思います。もしあなたが通りで「あいつはサイテーだ」などとぶつぶつ呟き続ける人を見かけたり、「あんな奴死んでしまえ」とわめき散らしている人を見かけたりしたら、あなたはどういう反応をするでしょうか。「怖い」と思われるかもしれません。それは自然な感情だと思います。できるだけ近づかないようにしようと警戒されるかもしれません。そして、こんな風に思うかもしれません。「あの人は狂っている」と。「書き手」が掲示板に書くということも、これと基本的には違わないものであります。
掲示板などに於ける、「書き手」による書き込みも、個々の書き手の「症状」であり、「病」の一つの表れとして捉えることが可能であり、私はむしろそのようなものとして捉えるべきであると考えているのです。
(123―7)無力であるという共通点
「あんな奴殺してしまえ」などと書き込む人のその行為は自分の無力さの表現なのかもしれません。
その人の自己があまりに無力で脆いからこそ、一つの感情がその人のすべてを支配してしまうのです。その感情に自分のすべてを委ねてしまう、もしくはより正確に言うならば、一つの感情がその人を支配してしまうので、その他の部分が無に帰してしまうのです。そして、それこそ自己放棄の一つの有り方なのかもしれないのです。
従って、書き手が本当に取り組まなければならない一つのことは、なぜその人はそこまで無力なままで生きなければならないのかということになるのです。
そして、自己疎外はその人をしてさらに無力な存在に貶めてしまうものです。なぜなら、共人間的な生き方をしていない人ほど無力感に襲われやすいからです。
書き手がしなければならないのは、人間のつながりから脱落することではなく、欲求不満や怒り、憎悪を掻き立てられても尚、人間の中で生きていくようになることなのです。私はそのように考えるのです。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)