<テーマ116> 怒りについての概説

 

(116―1)怒りは基本的な感情である

 人間にはいくつかの種類の感情があり、日常の生活場面において、私たちはいろいろな感情を体験します。当然、私たちは「怒り」という感情を体験します。この感情はたいへん厄介なものですが、人間の基本的な感情の一つとして捉えられてきました。人間にはこういう基本的と言える感情と、その基本的な感情に基づいてより複雑な感情を体験するのです。

怒りは人間にとって基本的な感情であり、乳幼児から怒りを体験することができるのです。カントは、新生児の泣き声は怒りに満ちていると捉え、人は怒りでもって人生を始めるというようなことを述べたそうです。確かに、母体内から外界へ追放された新生児の激しい鳴き声は、怒りであり、抗議のように聞こえるかもしれません。新生児でさえ、怒りの感情を体験していると仮定しても間違っているとは、私には思われないのです。実際、ダーウィンも生後数か月の乳児が顔を真っ赤にして怒りを露わにするさまを観察し、報告しています。

 基本的というのは、それが誰にでも見られ、国籍や文化、時代を超えて、乳児から老人に至るまで、すべての人に見られるというように捉えて頂ければけっこうです。そして、この基本的な感情は、しばしば人間以外の高等動物にも見られるものです。その表現の仕方は人間とは異なるかもしれませんが、動物にも「喜怒哀楽」のようなものが観察されるそうです。基本的とはそういう意味で、それらの感情は、人間を超えた、他の動物にも共通して見られる普遍的な感情ということになるかもしれません。

 

(116―2)怒りは本能ではない

 怒りは基本的な感情であり、私たちは生得的にそれを有しているものです。ただし、怒りを「本能」ということと混同してしまってはいけないと私は思います。フロイトはこれに関する限り、理論が飛躍してしまいました。

 フロイトは「死の本能」という理論を打ち出しました。人をして破壊や攻撃へと駆り立てる本能です。フロイトは世界大戦を見てきたので、人類には本能的にそのようなものが備わっていると考えてしまったのも無理はないかもしれません。フロイトの考えたこと自体は誤りとは思えないのですが、「本能」として捉えてしまった点で誤解を招いたものと私は捉えております。

 コンラート・ローレンツも同じように、動物の攻撃本能ということを論じているのですが、「本能」という部分に関して、エーリック・フロムは反論しております。やはり、これを「本能」と捉えることには、無理があるのです。

 フロイト以降も、正統的なフロイト学派の人には「死の本能」を認めている人もあるようです。しかし、フェアバーン以降の「対象関係論」学派の人たちは、これを本能とは認めず、反応であるという立場を採っています。私自身の立場はこれに近いものです。怒りは本能ではなく、反応であると私も捉えております。

 話を進める前に、怒りやそれに基づく攻撃ということが、なぜ本能であってはならないのかについて、私なりの見解を述べておきます。

もし、それらが本能であるとすれば、私たちは怒りを感じたり、相手を攻撃したりする時に、何の文脈もなく、理由もなしにそういうことができるはずです。ちょうど、私たちが一定時間を経過すると空腹を感じるように、私たちの中に穏やかさが欠けた時間に決まって怒りを体験しなければならないということになるのではないでしょうか。しかし、怒りを経験された方なら、経験的にこのような見解を否定されるのではないでしょうか。誰も一日の決まった時刻に怒りを体験するというような人はいないはずです。

つまり、怒りの感情が本能として備わっているのであれば、私たちは周囲の状況とはお構いなしで怒りに駆られることができるはずです。ところが、私の経験では、そのような例を知らないのです。怒りという感情は常に周囲の状況との関わりに於いて生じていることであり、状況なしには生じないものなのです。

さらに、次のことも補足しておきましょう。怒りの感情は周囲との状況との関わりにおいて生じるという見解を前提にしても、当然怒ってもいいような状況で、怒りを体験しなかったという場面も人は多々経験しているのではないでしょうか。例えばあなたが車を運転しているとします。交差点を通過しようとしたら、あなたが通過する直前で信号が赤に変わったとします。怒りが本能であるなら、こういう場面でいちいち人間は怒りを感じなければおかしいはずです。ところが、私たちは日常生活の中で、怒りを感じてもおかしくない状況で、怒りを感じていないことがけっこうあるものです。つまり、それが本能ではないから、私たちはそれをコントロールできているわけなのです。

 怒りが本能であるとするならば、それは外界の状況とは無関係に人間に体験されなくてはならないはずですが、私は経験的にそのようなことを知らないのです。また、怒りが本能であるなら、怒りに対して私たちはもっと無力でなければならないはずですが、実際には怒りを堪えたり、コントロールしたりすることが案外できるのです。これらの見解から、怒りの感情は本能とは見做せないのです。

 本能は学習されることなく遂行できる行為として現れるものです。鮭が産卵のために急流を遡るのは本能の一例だと言われています。鮭はそれをするのを学んだのではないのです。怒りは生得的な感情であるとは言えるのですが、本能ほど厳密に規定されているものではないと私は考えています。従って、怒りは後になって身に付けた部分が多いことになり、変えていくことができるはずなのです。

 

(116―3)怒りは何に対しての反応であるか

 私たちが体験する感情というものは、常に何かに対しての反応として生じているはずです。望ましいことに反応して、喜びの感情を体験しているものです。悲劇的なことに反応して、悲しいという感情が生じているものです。感情を本能と捉えてしまうと、外界の事柄を無視することになってしまうのです。怒りの感情もまた、外界の何かにたいする反応です。

 私はこれは断言してもいいと思うのですが、怒りは常に自分の欲求や望みが通らない状況で人間が体験する感情であるということです。それがどのような欲求であるかということはここでは取り上げないことにしますが、基本的にはそういうことであります。欲求の挫折と怒りとは一つのセットのようなものではないでしょうか。

 欲求が満たされないというのは、言葉を換えて言うと、自分の思い通りにならない状況、望んでいる通りに事が運ばないというような状況のことです。人が怒りを感じるのはそのような状況に置かれた時であると言えます。

 そして周囲の世界とか他人というのは、最も自分の思い通りにいかない対象です。従って、世界や人に関わることが多い人ほど、思い通りにいかないということを経験するだろうと私は思います。

 このように書くと、怒りは常に欲求不満反応であるという理屈になっていくかと思います。しかし、それが間違いであるとも私は捉えておりません。しかし、人がもっとも耐えられない欲求不満状況で、尚且つ、怒りの感情を頻発させる状況があるとすれば、それは何でしょうか。私の考えるところでは、「危機感」だと思います。自分の安全欲求が阻害される状況と述べてもいいかもしれません。この場合、人が怒りでもって反応してしまうのは、自分の何かが危機に瀕しているという状況だということです。人が体験する「危機感」と怒りの感情については、私は別項にて取り上げる予定をしております。

 

(116―4)感情は表出を求める

 内面に生じた感情は、その人をして感情の表出へと向かわせます。感情が生じ、その表出行為が続くわけです。従って、感情は人間を行動に駆り立てるのです。怒りの感情もまた、それを体験している人に、ある種の行動を駆り立てるのです。

そこで、このつながりを簡単に見ておくことにします。まず、欲求不満状況があり、それに対しての反応として怒りの感情が生じ、生じた怒りの感情を表出する行動が続くということです。欲求不満状況―怒りの感情―怒りの表出というつながりです。

 このつながりにおいて、もっとも「問題」が生じるのは、最後の「怒りの表出」という部分であります。その行為が「病的」であるとか「問題行動」であるとかみなされるのは、その「怒りの表出」という部分を評価しているのであって、欲求不満状況や怒りの感情そのものが「問題」とみなされることは少ないと私は捉えております。そこはしっかり押さえておきたいと思います。

 私たちは生きている限り欲求不満状況に必ず遭遇するものです。これを完全になくすことは不可能なことなのです。他者や社会から逃れて無人島で独りで暮らすとしても、無人島生活での欲求不満状況がやはりあるはずなのです。従って、人は欲求不満を生み出す状況からは完全に離れて生きていくことができないのです。

 それに続いて怒りの感情を人は体験します。怒りの感情ということもまた、人間の基本的な感情の一つであるとするならば、これを完全に人間から除去することは不可能であり、間違っていることでもあるはずです。よほど修行を積んだ、徳の高い人だったら怒りを体験しないのではないかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、決してそんなことはないのです。そういう人が徳が高いと見做されるのは、怒りを感じても、報復しないからなのです。徳の高い人であれ、その人が人間である限り、やはり怒りは体験されるのです。

こういうことから欲求不満状況から怒りの感情を体験することは、人間的な過程であると言えるのです。これを失くそうとすることは、その人をして自ら非人間化する試みでもあります。そして、先述のように、問題となるのは、怒りの感情体験から、怒りの表出行動への過程にあるのです。その中間にあるものが問題となるのです。怒りから表出行動の間に、「対処」とか「処理」という段階を設けた方が理解しやすいかもしれません。常にその部分が問題になってくるのです。

 

(116―5)感情の表出にはその人のスタイルがある

 怒りをどのような形で表出するかということは、人にはそれぞれ築き上げたその人のスタイルがあります。つまり、どんな場面であれ、どんな対象に対してであれ、その人が怒りの感情を表出するそのやり方には一貫性があるということです。

 従って、怒りを他人にぶつける時と自分自身にぶつける時とでは、同じようなやり方をしてしまうものです。例えば、相手に怒りをぶつける時に「お前はクズだ」と罵る人は、自分自身に怒りをぶつける時には「私はクズだ」と罵るだろうということです。他人を傷つける空想をする人は、同じように自分自身を傷つける空想をするものです。論理的に他人を責めようとする人は、自分を責める時にも論理的にやるでしょう(私にはその傾向があります)。これをパターンと表現してもよいのですが、私はその人の一つのスタイルであると捉えております。

 このスタイルは、生まれつき持っているものではなく、後々の経験において形成されてくるものです。学習されるものであると言ってもいいかもしれませんが、どのような言葉を用いようと、肝心な点はこのスタイルが後から身に着けたものであるということです。パターンという言葉を避けて、スタイルという言葉を敢えて使用するのは、それが後から身に付けたものであるということを強調したいからです。そして、それが生まれつきのものではなく、後から身に着けたものであるなら、このスタイルは変えていくことが可能であるはずなのです。そのことも強調しておきたいのです。

 ところで、この感情表出ということには、その人の身に付けたスタイルに則ってなされるということですが、これは怒り以外の感情でも同様です。ウイリアム・サローヤンの短篇に「笑い虫のサム」というのがあります。本当は泣いているのに笑ってしまうサムは、そのような感情表出スタイルをどこかで身に付けてしまったのです。

そして、怒りの感情表出にスタイルがあるということは、さらに詳しく述べるなら、怒りの処理の仕方にその人のスタイルがあるということでもあります。

 頻繁に表出されるスタイルは、その人の「性格」と見做されるものへとつながっていきます。仮に怒りっぽい性格の人がいるとしましょう。その人は、何かあると怒りを発散させるというスタイルを採っておられるわけです。そして、頻繁にそれをされる、つまり、その他のスタイルで対応しないがために、その人の性格傾向として定着してしまっているのです。

 従って、次のことは押さえておきたいのです。怒りっぽい性格の人というのは、何らかの事情でそのスタイルを身に付けざるを得なかった人であり、その人が生まれつき怒りっぽいということを意味するのではないということです。

 

(116―6)攻撃と憎悪

 ここで攻撃ということと憎悪ということにも触れておきたいと思います。感情表出の一つとして、攻撃ということがあると私は捉えております。人は怒りを体験し、怒りをもたらした欲求不満状況を生み出した相手や外界などを攻撃するわけです。怒りの表現の一つでが、「一つ」というように限定しているのは、必ずしも攻撃だけが唯一の表出手段ではないからです。

この攻撃が功を奏さなかったか、抑え込まれたか、あるいは攻撃が許されなかったかした場合、憎悪に発展するというように私は捉えております。憎悪とはその人の中で燻り続ける怒りであると私は考えております。燻り続けるのはそれの出口がどこにもないからです。私は単純にそのように捉えておりますが、個々の例においてはさらに他の要因も絡んでくるのです。

 憎悪という言葉には、怨恨や恨みという意味合いも私は含めて用いていますが、こういう恨みとか憎悪というものは、しばしば「長引く怒りである」というように定義されてきたのでした。でも、私は憎悪が怒りの延長線上にある感情とは考えられないのです。確かに最初は怒りの感情であったかもしれません。しかし、憎悪は既に怒りとは別の感情であると私は捉えているのです。憎悪はもはや人間にとって基本的な感情ではないのです。

 怒りや攻撃というのは動物にも見られるかもしれません。縄張りに侵入してきた同類に噛みつく動物もあるでしょう。この時、この動物に体験されている感情は怒りである、もしくは人間でいうところの怒りの感情と等価のものであると見做すことはできるでしょう。そして、噛みつくという行動は、その感情の表出として捉えることができるでしょう。しかし、いつまでも怨恨の情を抱き続ける動物の例を私は聞いたことがないのです。噛みつかれた方が、死ぬまで噛みついた相手を恨み続けたというような話を知らないのです。私が単に知らないだけなのか、動物にはそこまでできないのか、定かではないのですが。動物が相手を恨んだり、相手の代々続く子孫まで怨恨を残していったというような例はちょっと考えられないものです。

 このことから考えると、憎悪とか怨恨と言うのは、人間に特有の感情なのかもしれません。

 

(116―7)本項要約

 怒りに関して、私の見解を述べてきました。怒りは本能ではなく、反応であること、それは常に欲求不満状況に対しての反応であることを述べました。欲求不満状況から怒りの感情へ、そしてそれから表出行動への流れを追いました。問題視されるのは、その行動であり、状況や感情は極めて人間的なものであること、その行動にはその人が身に付けたスタイルがあるということを述べました。そして、この行動の一つに攻撃ということがあり、攻撃できない場合などでそれが憎悪へと発展するということであります。

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

 

 

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