<テーマ113> 退屈は人をダメにする
(113-1)ある「ひきこもり」体験者の一日
(113―2)退屈が空想を生む
(113―3)退屈という苦しみ
(113-4)退屈しのぎの一手段としての「ゲーム」
(113-5)マルテの虚無時間
(113―6)「健全な空想」
(113―7)本項の要点
(113―1)ある「ひきこもり」体験者の一日
朝、遅い時間に起きて、しばらくぼんやりして、眠たければそのまま二度寝して、眠たくなければ一応起きて、パソコンの電源を入れて、メールの確認をする。返事を書く必要のあるものがあれば返事を書き、なければそのままインターネットを、特に目的もなく見る。気がつくと夕方くらいになっている。そう言えば、起きてから何も食べていない。適当に台所にあるものを口にする。お腹が満たされると眠たくなるので、再びベッドにもぐりこみ、しばらく昼寝をする。夜はテレビをダラダラと見て過ごす。それで一日が終わる。
上に述べたのは、ある「ひきこもり」のクライアントが語った、彼の一日です。たまにこんな一日があるというくらいなら私も我慢できるのですが、このような日が毎日続くと語るのですから、聞いている私もやりきれないような気持ちに襲われたのを覚えています。私にはとても耐えられない毎日です。それは、何の予定もなく、今日一日を生きる何らの目的もなく、ただ「生存」しているだけのような日々なのです。
彼が自分の一日を描写した後で、私は「さぞかし退屈なことでしょう」と聞きますと、彼はその通りだと答えました。彼のこの生活において、彼を支配している感情はまさに「退屈」というものだったのです。そして、この「退屈」感は、明らかに、彼の生活を虚無にしており、彼の内面を貧弱にしていました。
本項は、この「退屈」という感情にまつわる事柄を取り上げることにします。「ひきこもり」体験者は、はっきりそうと語られないこともありますが、多かれ少なかれこの感情を体験されているものと私には思われるのです。
(113―2)退屈が空想を生む
先述のクライアントの例を続けましょう。彼が日々の生活で「退屈」を経験すればするほど、「空想」が彼の内面を占めていくようでした。
もちろん、あくまでもこのクライアントの場合はそうだったということをお断りしておきます。その彼の「空想」に於いては、彼は活動的であり、何でもできるような人間であることもあれば、非常に攻撃的で刺激に満ちたものもありました。肝心な点は、彼自身に空想癖があるとかいうことではなくて、毎日の「退屈」感が、こうした「空想」の発達に貢献しているということです。
そして、「空想」が刺激に満ちたものになればなるほど、現実は無味乾燥した無意味な世界として彼には思われるようでした。その無意味な世界に現実に生きている自分自身も無意味な存在として、彼には体験されているようでした。
この空想は、いわば現実ではない自分を生み出しているということです。言い換えれば、現実からかけ離れた自分を空想しているということです。私の経験では、「ひきこもり」の人の空想はしばしばそういう形を取ることが確認されるのです。
空想することそのものが悪いわけではありません。私も空想することがあります。例えば、クライアントとの次回の面接のことを空想することがあります。次回ではこんな風に展開していたらなあとか、こんな風に言えたらなあとかいうようなことを空想しているのです。その時の場面を思い浮かべているのです。このような空想は現実から隔たっているわけではありませんし、しばしば現実の指針や活動の方向性をもたらしてくれることもあります。
「ひきこもり」の人の空想はそのようなものではないということです。それは現実の彼からはあまりにかけ離れた彼を空想しているのであり、しばしば「犯罪的」な空想もあるのです。例えば、「機関銃で片っ端から人間を撃ち殺す」とか「幼女を滅茶苦茶にして犯す」とかいうような空想を彼らは語るのです。こういう空想は聞いていると、ちょっと怖くなってしまうようなものですが、彼が空想の中でそれをしている限り、現実にはしないことも多いものです。この空想が禁じられた時に、実現化してしまうのだろうと私は捉えております。従って、空想するかしないかではなく、この空想がより望ましいものに姿を変えていくことの方が肝心だということになるのです。
(113―3)「退屈」という苦しみ
さて、本項の主題である「退屈感」ということに話を戻します。
人の一生というのは生まれてから死ぬまでの時間のことであり、人が生まれた時に与えられるのはこの時間であります。この時間だけが、一人一人に公平に与えられているものと私は考えております。従って、生まれてから死ぬまでという与えられた時間をどのように使うかということが、その人の一生になるのです。退屈するということは、この与えられた時間を蕩尽することなのだと私は考えています。
「ひきこもり」の人に限らず、私たちは誰でも退屈には耐えられないものです。退屈を感じないために、人は様々な娯楽を生み出しているのです。ほとんど意味のないようなことであっても、何かをしているということは、退屈しているよりも救いになるのです。
人によっては、人生には娯楽や刺激が必要だという考えをされる方もおられるかと思います。それはその人の考えなので、私は否定しないのですが、私個人の考えとしては、それは間違っていると思うのです。私自身、毎日が充実していれば、それほど娯楽や刺激というものは必要ではないということを経験で知っています。娯楽や刺激を、人一倍求めるとするなら、その人は実は退屈の感情に苦しめられているということが窺われるのです。
時折、「ひきこもり」の人が事件を起こしたりします。その度に犯人の「心の闇」はどうなっているのかなどと論じられたりします。でも、私には犯人は単に人生に退屈していただけかもしれないと思われることもあります。
何もすることがないとか、すべき事柄がないというのは、退屈感を生み出すものであり、この退屈感はそれを体験している人に「虚無感」をもたらすものです。この「虚無感」は更に、「自分は必要とされない人間だ」とか「価値のない人間だ」という感情につながることもあります。とても苦しい感情です。これを避けるための一つの方法が、「気晴らし」であり「時間潰し」ということです。「空想」もまた一つの方法です。私はそのように捉えております。
人間は常に関わる対象を求めるものだと私は仮定しています。意識は対象を求めるという現象学や自我は対象希求的であるという対象関係論の前提などはその仮定の裏付けとなるのです。また、感覚遮断の実験でもそうでした。すべての感覚を遮断されると、心は幻覚や幻想を作り出し、それに関わろうとするのです。身体も同様だと思います。身体は活動の対象を求めるのではないかと私は考えています。
心は、関わるものが何もないというような状況では耐えられないということなのです。そのため、人は空想をし、気晴らしや時間潰しのような活動を求めてしまうのです。より退屈感や虚無感を経験している人ほど、よりそれらを求めてしまうということも言えるのではないかと思います。
(113―4)退屈しのぎの一手段としての「ゲーム」
私がお会いした「ひきこもり」の人たちは皆、多かれ少なかれ、退屈を経験しているようです。退屈を紛らす方法として、彼らが取り入れるのはインターネットとゲームです。
以前、私がとあるバーでお酒を飲んでいると、ある人が(その人とは顔見知りなのですが)、一生懸命に携帯電話で何かしているのであります。そして、少し会話をしては携帯を開いて何かチェックしているのです。時には、会話しながらそういうことをしているのです。そこで私が何をしているのかと尋ねますと、彼はゲームをしていると答えました。なんでも「お宝を奪い合う」ゲームをしているそうなのです。彼は自分のお宝が盗まれていないかをチェックしていたのでした。私に言わせると、彼の携帯の中のお宝は盗まれてはいませんでしたが、彼自身の何か大事なものは既に盗まれていたのでした。
こうなると、ゲームは暇つぶしではなく、生活の一部を占め始めているのです。「ひきこもり」の人の中には、生活の大半がゲームで占められているような人もあるようです。なんでも、ゲームの中には、最初から最後までやるのに二十時間とかかかるものもあるそうですし、終わりがないものもあるということです。つまり、一旦そのゲームを始めると、終わらせてくれないという要素があるようです。
時折、「ひきこもり」の人が、特定のゲームで達人のような技を習得していることがあります。テレビの番組でその熟練した技能を披露している人がありましたが、私は見ていて呆れかえったのを覚えております。
確かに、その技はすごくて、速い上に正確で、ゲームの内容がどれだけ難しくなっていっても、的確にクリアしていくさまはまさに神業のようでした。しかし、それがそんなに大事なことなのでしょうか。
その人も毎日が退屈だったに違いありません。退屈しのぎに始めたゲームが、いつの間にか彼の生活になり、彼の仕事になっていったのだろうと推測します。そうやって身につけた技術は、誰かの役に立っているわけでもなく、彼自身の人生に価値を与えるものでもないようでした。なぜなら、ゲームというのは常に新機種が登場するので、あるゲームに熟達しても、すぐにそれ以上のゲームが登場するからで、その技術はまたたく間に古いものになり、すたれていってしまうからです。
ひきこもり体験者にとっては、ネットゲームなんかはかなり重要なツールだと思います。延々とそれをやり続けることは、意識や心に対象を与えることになり、彼自身から目を背けることにも役に立つのです。自分に目を向けることに、時に、彼らは耐えられない思いがし、非常に抵抗を示されるのです。こうした彼の回避したい事柄に対しても、ゲームは彼を助けているということになるようです。
(113―5)マルテの虚無時間
ゲームの余談が長くなりましたが、退屈であること、虚無感や倦怠感の問題は、「ひきこもり」の人に限らず、現代人すべてにとっての問題でもあると私は考えています。もっともパスカルの「パンセ」などを読むと、退屈の問題は現代人に限ったことではないということはわかるのですが。ただ、現代人すべてにとって問題ではあるけれども、「ひきこもり」の人ではそれが特に大きな問題となっているように私は捉えております。
「マルテの手記」(リルケ)に、確か「私の生活は針のない時計の文字盤のようだ」といった表現があって(注・間違っているかもしれません)、それを読んだ時、私は主人公は一体どのような時間体験をしているのだろうと疑問を覚えたことがあります。
「ひきこもり」の人の時間もそのようなものとして体験されているのかもしれません。無限に虚無の時間が拡がり、そこでは時間が遅々として進まず、あたかも時間が止まってしまっているように体験されているのかもしれません。あるいは時間概念の存在しない世界に生きているのかもしれません。彼には決められた予定があるわけでもなく、それが朝なのか夜なのかも関係がないという生活を送っており、無為に生きているというような日々なのでありましょう。その毎日の中で、何かが培われるということはまずあり得ないことでしょう。そればかりか、彼の貴重なものが日を重ねるごとに失われていっているようにしか、私には思えないのです。退屈を紛らすために始めたゲームで達人になったとしても、それが人生に役立つということはなく、自信につながるということもありません。
毎日が虚無であるからこそ、空想を必要とするのだとしても、それは現実をさらに空虚にしていくだけです。また、日々の生活の中で経験する事柄が少ないために、彼に蓄積されていくものは乏しく、パーソナリティは貧困化していくようです。こうして、退屈が人間をダメにしていくのです。
(113―6)「健全な空想」
退屈感と空想、白昼夢などとは、とても相性がいいものだと思います。大抵の場合、退屈を体験している時に、空想が生まれるものです。空想そのものが悪いわけではありません。ただ、空想には「より健全なやり方」と「不健全で病的なやり方」があると私は捉えておりますので、最後にその点を述べておきましょう。
「健全な空想」はまず、それが空想であるということを、空想している本人が自覚しているということが挙げられます。つまり、このことは現実認識がしっかりできている上での空想ということです。
「健全な空想」は、空想から速やかに現実に戻ることが容易である、また、時間配分にして、その空想は一日のほんのわずかの時間しか占めないのです。これはつまり、その人が空想に支配されていないということを示すものです。自分自身のコントロール下において、空想をしているということです。
「健全な空想」は、その空想内容が現実のその人からかけ離れ過ぎていないということです。それはその人が現実に自己保持できているということを示すものです。
「健全な空想」は、破壊や暴力をほとんど含まない、と言うのは、その人が建設的に生きているからです。もし破壊を含むとすれば、それは建設のための破壊であり、産みのための破壊であるでしょう。それでも「健全な空想」つまり「健全な心を有している人の空想」は破壊的なものではないのです。同胞に対しての愛があり、生命に対しての関心が深いからです。
「健全な空想」は、その人の指針や計画、方向性に対して有益に働き、その空想からインスピレーションを得るものです。なぜなら、彼には望むべき目標や方向があるからです。
以上、私が個人的に考えるところのものでありますが、空想に関する私の見解であります。
そして、望ましいのは、この空想が昇華的に変容されていくことです。空想内容が文学作品となるなら、それは一つの昇華であります。
また、空想は思考へと姿を変えていくものでもあります。あることについての空想が、そのことへの思索となっていくこともあり、これもまた一つの昇華であります。空想は消失するのではなく、こうして姿を変えていくものです。
(113―7)本項の要点
「ひきこもり」体験者が日々の生活で体験している感情は「退屈」であること。この「退屈」への対処として、ゲームがあり、空想があるということ。
ゲームで熟達することは、それほど当人に有益に働かないだろうということ、並びに、空想が刺激的になればなるほど、現実が空虚になること。そうして「退屈」が人をダメにしていくことを述べました。
退屈感の問題は、本項でも触れましたが、ひきこもり体験者だけではなく、現代に生きる私たちすべての問題だと私は捉えています。
人生が退屈感情に支配されるのは、その人から生産性が奪われてしまっているからだと思います。私たちの生は、本来、何者かになっていき、何かを完成させようという動機に動かされていくものと私は捉えています。つまり、自己実現と生きがいの欲求に私たちの人生は基づいているものだと思います。
心という観点から見ると、退屈しているということは、心が躍動的ではないという状態を示していると思います。そして、私の個人的な経験からも次のことは言えるのですが、人が自分の心に気づき、触れていくことができるにつれて、心は活動的になっていくものなのです。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)