<テーマ109>ひきこもり~禁止と不可能性

 

(109―1)「ひきこもり」の就労

(109―2)二種の不可能性

(109―3)あらゆることが不可能になる

(109―4)不可能を巡る水掛け論

(109―5)「できない」をどう理解するか

(109―6)自己の縮小化

(109―7)何を援助するべきなのか

 

 

(109―1)「ひきこもり」の就労

 私がカウンセリングの場でお会いするのは、「ひきこもり」歴が十年以上というような「ベテラン」の人たちが多いということは、前項にも述べました。彼らとの経験に基づいて述べるので、私が「ひきこもり」に関して述べる事柄は少々厳しいものになってしまっているかもしれません。

「ベテラン」の人たちというのは、言わば、もう後がないという人たちです。彼らは初期の内はまだ「ひきこもり」が可能でしたし、許されてもおりました。しかし、当然、彼らを扶養する両親もそれだけ年を取るわけですので、彼らを養うことが困難になってくるのです。それで、今更ながら、「ひきこもり」の子供たちに「何とか働いてくれ」と親が頼んだりするのです。あるいは、両親が退職などで、これまでの生活を変えざるを得なくなったりしているのです。

 こうした親の事情は「ひきこもり」の人たちにとっては、たいへんな危機感となるように思います。それは「親」とか「家」とかいう基盤の上で「ひきこもり」が成り立っていることが多いからであります。

こうした基盤を失うような体験をしている可能性が「ベテラン」の人たちにはあるわけです。それで危機感に煽られるようにして、私のようなカウンセラーの門を叩いたりするわけです。あるいは、親が危機感から子供にアクションを起こさせようと働きかけたりするのです。

 では、このような人たちをどのように援助するかということですが、彼らはまず収入の道を確保しなければなりません。仕事をしていないので、収入がないわけです。これはいくつかの点で、生活上の不利益をもたらすものです。生活保護を受けることは可能かもしれませんが、その場合でも、必ず彼らには就労が要請されることになるはずであります。

「ベテラン」の人たちは、まずそれにとりかかる必要があるというのが私の考えです。何よりも、先に就労を目指すということです。

「ベテラン」を援助する際には、彼の内面的な事柄に取り掛かるよりもそちらの方が優先されなければならない場合がけっこうあるのです。つまり、最初に社会生活を目指すことを支持しなければならないと私は捉えており、内面的な事柄に目を向けるのはその後、もしくは同時進行でしていかなければならないことであると考えているのです。

 しかし、就労に関しても、やはり「できない」が邪魔をするのです。ただでさえ、彼らの職歴は非常に乏しいことが多いのです。「八年前に一週間だけバイトした」以外、何もしていない(何もしていないというのは、履歴書に書けるような活動をしていないという意味です)という人もありました。これはたいへんなハンディキャップとなるのです。

 彼らが、過去も現在も就労してこなかった背景には、やはり「できない」という信念が一役買っていただろうと思います。もちろん、その信念は根本の問題ではありませんし、問題のごく一部を形成しているに過ぎないものだと私は認識しています。

 

 

(109―2)二種の「不可能性」

 ある「ひきこもり」の「ベテラン」に、一度、「あなたのお話には『できない』という言葉がよく出てきますね」と指摘して、そこに注意を向けてもらったことがあります。すると彼は「できないものはできないでしょう」と答え、さらに、「先生だって、今からアイドル歌手になれますかって尋ねられたら、やっぱりできないって答えるでしょう」と、逆に私の方が言い返される始末でした。しかし、彼の思考はいささか軽薄なのです。

 なるほど、確かに彼の言う通りで、それは不可能なことです。私が今からアイドル歌手になるとすれば、まず年齢を20年は若返らせ、もっとイケメンに生まれている必要があります。これは誰がどう見ても、物理的に不可能なことです。

 しかし、ここでは「物理的に不可能」ということと「相対的に不可能」ということとを区別しておきたいと思います。両者は混同しない方がいいと私は思います。

例えば、アイドル歌手は「物理的に不可能」だとしても、これが「プロの歌手を目指す」ということであれば、話が違ってくるのです。私は歌が下手くそで、たいへん音痴なのです。そんな私がプロの歌手を目指すということは一見すると不可能なように思われてきます。しかし、もし、私が今から毎日歌のレッスンをやって、基礎からしっかり叩き込めば、半年後には多少歌が上手になっているでしょう。

さらに練習を毎日続けていれば、一年後にはもっと上手になっているでしょう。それでもまだプロの歌手のようには歌えないでしょうが、今現在の私よりかは、プロの歌手に近い歌唱をしているはずであります。つまり、私が上達すればするほど、相対的に「不可能」の度合いが下がるのです。十年後には、プロの歌手としてデビューしているかもしれませんし、中高年層のアイドルになっているかもしれません。

 今の私たちの生活は、江戸時代の人たちから見たら不可能なことばかりなのではないかと思います。ジュール・ベルヌの時代では、「80日間で世界を一周する」ということは不可能に近い事柄だったのです。今ではどうでしょう。80日間あれば、十分世界一周できるのではないでしょうか。道中、花嫁を手に入れるという課題を課せられても、インターネットで花嫁を募集すればいいわけなので、全然、不可能には見えないことと思います。

同じように、23世紀頃の人たちには、今の私たちから見て不可能なことが、彼らには当然のことになっていることでしょう。ひょっとすれば火星に人が住むようになっているかもしれません。

 つまり、「相対的に不可能」というのは、私たちが進歩すればそれだけ「不可能」の度合いが減少し、「可能」の度合いが相対的に高まるというものです。

「今からアイドル歌手になれますか」と私に言いかえした彼は「相対的に不可能」な事柄を「物理的に不可能」という事柄にすり替えてしまっているのです。彼自身は、そのような二種の不可能事を区別していませんでしたし、そのために、自分がそういうすり替えをしたということにも気づいておられないようでした。でも、この区別は案外大切なことであるように私は考えています。

 

 

(109―3)あらゆることが不可能になる

 上記の彼が、自身の事柄に関して、「~できない」という時、その「できない」の内容はすべて「相対的に不可能」な事柄に属しているものでした。彼の過ちは、それを「物理的に不可能」な事柄に還元してしまっているということです。彼のこの傾向のために、彼にとってはあらゆる事柄が不可能事になっていくのです。

 一例を挙げますと、彼はすぐに「自分では考えられない」ということを口にします。これは「物理的に不可能」な事柄ではないのです。彼が少しでも考えるようになったとすれば、相対的にこの不可能性が下がっていくはずなのです。

そもそも、考えられないと言っても、彼が知的に、あるいは思考能力において、障害があるわけではないのです。彼は考えることができるのです。ただ、自己に制限を加えて「不可能」な事柄として捉えてしまっているのです(注)。

 

(注)

 この男性が「考えられない」とか「分かりません」とか答える時、そこにはもう一つの要点がありました。それは、どうも彼は質問に対して、自分自身の答えではなく、「正しい答え」をしなければならないと捉えていたようでした。「正しい答え」というのは、質問者が気に入るような答えであり、質問者に承認されるような答えを意味するのでありますが、これもまた「ひきこもり」体験者の対人関係の特徴をよく表していると思います。

 

 

(109―4)不可能を巡る水掛け論

「ひきこもり」の人を援助しようとすれば、どうしても彼らの主張する「できない」の壁にぶつかるものだと私は思います。援助する人は、それがどのような立場の援助者であれ、遅かれ早かれ、ここに取り組まなければならなくなると思います。

「ベテラン」の「ひきこもり」の人の話を窺っていると(恐らく「ベテラン」ではなくても同様だと思いますが)、周囲の人が彼に何とかしようと援助の手を差し伸べてきた過去が確認できるのです。

 周囲の人(家族や友人、知人たち)は、彼のためを思って、彼に何かをするように示唆するのですが、彼は「それはできない」という形で答えてきたのです。「やってみては」「できません」の不毛のやり取りに終始し、水掛け論のようになるようです。これは援助しようとする周囲の人が疲労困憊して、根を上げてしまうという結末になることが多いように思います。周囲の人は、彼を助けようとして尽力するのですが、その内、消耗し、無力感に襲われ、彼を見放すか、逆ギレして彼を叱りつけるといった反応をしてしまうように思います。また、「ひきこもり」をしている当人からすると、周囲の人が「自分にできないことばかり押し付けてくる」というように体験していることもあるようです。この双方の不毛な問答、「できない」を巡る水掛け論は、彼らの関係にも暗い影を落とすことがあるように思われます。

 周囲の人や援助者は、いかにしてこのような不毛なやり取りから抜け出すべきかということも考えていかなければならないことだと思います。これを続けていくことは、双方に動きが取れなくなり、前に進むことも、動くことすらできないという状態に両者を縛り付けるものだと私は考えています。

 

 

(109―5)「できない」をどう理解するか

 ところで、彼らが「できない」を連発することに対して、「それは甘えているだけだ」とか「逃げているだけだ」と考える人もありますし、「やってみたら案外できるようなことでも、彼らは最初の一歩を踏み出そうとしない」と考える人もあります。それはそれで正しい一面があると私は思います。しかし、「ベテラン」の話を窺っていると、どうもそれだけでもないように思います。もう少し、この「できない」を考えてみる必要があります。

 まず、私が受ける印象として、彼らは「できない」と言うことで、非常にたくさんの事柄を自分自身に「禁止」しているということが窺われるのです。つまり、表現の上では「できない」という形を取っているのですが、どこか「してはいけない」という意味合いのものとして表現されているのです。

こうした自己に対する「禁止」というのは「神経症」的な人にも「うつ病」の人にも等しく見られる現象でありますが、彼らは特にそうした「禁止」事項が多いというのが、私の受ける印象であり、理解の一つなのです。

 例えば、「ひきこもり」のあるクライアントは、面接室で向き合っている私に「ここで話していいのですか」と尋ねるのです。私は「ええ、どうぞ。あなたはそのためにここに来たのでしょ」と答えるのです。私のこの答えが得られて初めて彼は少しだけ言葉を発することができました。その後も繰り返し「話していいですか」と私に許可を求めてくるのです。これは二回目も三回目の面接でも繰り返し現れました。私はその都度、話すよう促したのです。許可が得られなければ行動できないということは、その行動が彼には何らかの意味で「禁止」されていると理解できるものです。

 もちろん、その「禁止」を生み出している背景には、クライアントそれぞれ異なるものがあるでしょう。このクライアントの場合、話をするということが、あるいは会話の主導権を握るということが、何か悪いことをしているかのように体験されていたのではないかと思います。そのために、彼は私に逐一許可を求めなければならないのでした。そして、彼が許可を求めるのは、彼が罪悪感に襲われている時や、罪悪感を抱いてしまう事柄に関してであることも後には理解できました。彼が罪悪感に襲われる度に、私に確認を求め、許可を得ようとしていたのでした。

一つ付け加えておきますと、「僕は話をしてはいけないのではないだろうか」という、ここで彼が体験している「禁止」は、彼自身の内側で生じているものです。周囲の状況が彼をしてそうさせているのではありません。彼の中では、そうした「禁止」が自動的に働いているのであり、私が「禁止」しているのではないということを強調しておきます。つまり、この「禁止」は、彼が内面化している「禁止」なのです。

 ケースによってその意味するところは異なってくるとは言え、上記のような例では、「できない」は「するな」の意味合いを帯びているものです。従って、「ひきこもり」体験者が「~できない」を口にする時、そこに「禁止」としての意味をも汲み取る必要があると私は捉えております。

 もちろん、それとは違った意味合いを帯びることもあります。上記の理解は、あくまでも「できない」に関する一つの仮説にすぎないということであり、その理解が該当するケースもあれば、他の理解がより該当するというケースもあるということを強調しておきます。

 

 

(109―6)自己の縮小化

 上に述べたように、「ベテラン」の中で自動的に「できない」という「禁止」が生まれるのであれば、周囲の人がいくらアイデアを出しても、彼の中では同じものが繰り返し生じる結果になります。援助しようと思えば、これを変えていかなければならないということになります。

 その前に、「ベテラン」が自己に「禁止」や「制限」を加えていくことによって、どのようなことが生じているかを見てみましょう。一言で述べれば、それは「自己の縮小化」ということになるかと思います。

 つまり、彼の内面において、彼自身が、あるいは彼の生きる世界が縮小していくわけです。非常に狭い世界で、限られた範囲内で彼は生きざるを得なくなるのです。これが、結果的に、彼の内面と生活を貧困化させていくことにつながってしまうのです。

実は、「ひきこもり」のもっとも深刻な「問題」はこの点にあると私は捉えております。思考や感情、内面の生活、外的な活動、あるいは彼の持っている能力や才能など、それらが貧困になっていく生き方を送ってきてしまっているということなのです。「ひきこもり」が生じたきっかけは何であれ、その生活を長く続けてしまうことによって、彼は本来的に彼が有していたものよりも、ますます矮小してしまうのです。

 こうした心の貧困化をより示したベテランがおられました。彼は心的に非常に限られた世界で生きようとしていました。活動も限定されています。これらは制限の範疇に属する事柄ですが、ただ、その生の様式や活動の在り方が貧困なものになっているのです。無益な活動を機械的に延々と続けているのです。それで何かを達成したりする類の活動ではないのです。無限にある時間を少しでも埋めようとしてなされるための活動であり、そこではいかなる感情も生命感も彼にもたらさないのでした。

 こうした活動は、ミンコフスキーの言う「自閉的活動」や「病的幾何学主義」に近似していくのですが、それに関しては別の機会に述べようと思います。

 

 

(109―7)何を援助するべきなのか

「ひきこもり」の人は、非常にたくさんの「できない」を抱えているということを述べてきました。そして、その「できない」の中には、同じように多くの「してはいけない」「してはいけないのではないだろうか」という「禁止」も含まれているであろうということを述べてきました。

このことから言えることは、そういう「禁止」事項が多ければ多いほど、その人の心は自由を失っていくということです。非常に制限された狭い世界で生きることを余儀なくされてしまうのです。

「ひきこもり」の人の言う「できない」に取り組むことは、その彼らに内在化された「禁止」に取り組むということであり、それは彼らが自分が何かをすることを自分自身に許していくことなのです。そして、自己の生を拡充する方向へと踏み出すことを援助しなければならないのだと、私はそのように捉えております。

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

 

PAGE TOP