<テーマ107> 行動の制限~面接内での制限
(107―1)二種類の行動と行動の場面
カウンセリングの枠組みの最後の項目は、行動の制限ということであります。これはクライアントの行動ということでありますが、一部においては、同じことが私の側にも該当するものであります。
クライアントの行動に関して、それを便宜上、面接室内の行動と面接室外の行動というように、二回に分けて取り上げる予定でおります。本項では面接室内での、つまりカウンセリングの時間内でのクライアントの行動ということを取り上げます。
また、制限される行動、もしくは望ましくない行動を取り上げるということは、その一方で望ましい行動、推奨されるべき行動ということをも暗に含んでいます。この点についても述べる予定でおります。
(107―2)クライアントに保証されている自由
カウンセリング場面においては、クライアントにはできるだけの自由が与えられるものであります。その自由とは、語ることの自由であり、どのようなことを、どのように語るかということに関して、クライアントには自由が保証されているということであります。ここはしっかり押さえておきたいと思います。クライアントには語ることに関して自由があるのであり、この自由は好き勝手な行為をしても構わないという意味ではないのであります。
例えば、一人のクライアントがとても憎んでいる人のことを話しているとしましょう。「あいつを殺したいほど憎い」と言葉で表現することは、何も罪ではないのであります。推理小説を読むことが何も犯罪ではないのと同じことであります。個人が殺意幻想を語ろうと、実際の行為に移したりしない限り、その人は罪に問われないわけであります。
その際、彼が荒々しい語調で殺意を語ろうと、淡々と無表情で語ろうと、硬く拳をにぎって語ろうと、全身を硬直させて語ろうと、それは彼の自由なのであります。彼の表現スタイルは守られるものであります。しかし、彼がそこで立ち上がり、面接室内のものを壊したりとか、暴れたりとか、あるいは私に殴り掛かるとかいう行為を始めたとすると、それは厳しく禁じられるのであります。
このことはつまり、言語化と行動化の区別をつけるということであります。言語化に於いては自由が保証されているのですが、行動化の方は禁じられるということであります。
(107―3)「反治療的」な行動化
もし、殺意幻想を抱いている彼が、そこで面接室内で暴力を振るったとすれば、それは次のことを意味しているのであります。彼が自分の殺意幻想を自分の内に抱えることができなくて、また、それを適切な形に昇華することもできず、ある意味で幻想をそのまま実現化しているということであります。彼の内面で生じている事柄に対して、彼がそれらを内面にとどめることができないでいることの証なのであります。そして、このようなことは「反治療的」な行為なのであります。なぜなら、「治療」とは、内面の物は内面にとどめ、適切な形で表に出すことを目指すからであります。
なぜ、そのような行動化が「反治療的」なのかを、もう少し丁寧に見ていきますと、彼が抱えている自身の殺意幻想を何らかの形で表出することによって、彼はある種の満足は得るかもしれませんし、カタルシスのようなものも体験するかもしれません。しかし、そのような満足は極めてその場限りのものであり、そこから何かを彼が得られるとは期待できないのであります。それに、彼の「問題」は、彼の殺意幻想にあるのではなくて、そのような殺意幻想を生み出してしまっているものにあるはずなのであります。彼が行動化するということは、殺意幻想に束縛され、支配されてしまい、そしてその幻想を生み出してしまっているものに目を背けさせる結果になるのであります。従って、彼はそれを生み出しているものに関しては、いつまでも盲目なままでいることになるのです。この意味においても、彼のそうした行動化は「反治療的」な行為として定位されるのであります。
(107―4)クライアントはルールを守ってくれる
しかしながら、上に述べたような暴力的な事柄はこれまで一度たりとも、私は経験したことはありません。ここは話し合いの場であるということを私が随所で述べるからかもしれません。そして、これは何も難しいことではないのであります。
私が求めるのは、面接室内においては理性的に振舞って欲しいということなのであります。ほとんど大部分のクライアントはそれだけの理性を持っておられるものであります。よほど小さな子供にとってはこれが難しいだろうとは思いますが、私がお会いするクライアントは大部分が成人であります。一定年齢以上の精神的発達を遂げている人であれば、行動化することなく一時間の話し合いをすることは可能なのであります。私もそれを信じてクライアントとお会いしているのであります。
(107―5)身体的接触
これまでのことを簡潔に申し上げますと、面接室内においては、基本的に、暴力を振るったり暴れたりさえしなければいいということであります。面接中にクライアントは泣いても構わないし、拳を堅く握りしめて語ってもよいのであります。後ろを向いて話しても、床にじかに座ろうと構わないのであります。これらも一つの行動化であり、中にはそれらも禁止する臨床家もおられるかもしれませんが、私にはまだ許容できるものであります。
さて、暴力的な行為以外に、お互いに禁じていることは、身体的な接触であります。私はクライアントには触れませんし、私も触れられないようにしています。私が個人的に体を触れられるのが好きではないのであります。そのことも手伝ってか、私はこれを特に守っております。
継続して通われていたある女性クライアントでしたが、ある回の面接終了後、別れ際に「握手してください」と要求してきました。私は迷ったのであります。彼女の愛情飢餓感というものは前々から感じられていのでしたが、何となくそれはしてはいけないという注意信号が私の内にて働いたのであります(注1)。私は「最後の時にしましょう。それまではおあずけ」などと言って、ごまかしたのであります(注2)。
臨床家によっては、私とは別の考え方をされる場合もあるでしょう。例えば、一時的にでもあれ、この人の愛情飢餓感を満たさないとこの人が危ないと考え、クライアントの要求通りに握手に応じるかもしれません。ただ、私はその考えには賛成しかねるのであります。
私の考えるところでは、直接的に触れるのではなく、言葉や時間、空間を通して、間接的かつ象徴的にクライアントは触れてもらえているという体験をすることの方が大事だと捉えております。そしてクライアント自身がそのことを理解でき、その接触で満足できるようになることが、彼女の愛情飢餓感を本当の意味で克服できるものであります。
また、クライアントによっては、身体的な接触が退行を極端に促してしまうこともあり得ることなのであります。私の女性友達だった女性がボディケアやマッサージの仕事をしていて、彼女から客の話をいくらか聞いたことがあるのですが、彼女を困らせるような客というのは、何らかの形で極端な退行を示している人が多いようでした。退行するということは、客があたかも駄々っ子のように振る舞ったりするわけであります。それで彼女は困惑していたのでしたが、私の受けた印象では、身体的接触がその人の退行を促してしまったのだろうということであります。
クライアントが身体的な接触により退行をきたしたとしても、そのような人を抱えるだけの環境が整っていれば、まだクライアントは救われるものであります。ただ、私のようなやり方で実施している臨床家は、やはりそれができないことを認めないわけにはいきません。リスクを避けるためにも、身体的な接触は避けようと私は決めているのであります。
(107―6)言語化された感情は共有される
怒りや敵意を、行動で発散するのではなく、言語的に表現しなければならないのと同様に、面接室内では、愛情飢餓感も言語的に表現されなければならないのであります。強い愛情飢餓感を抱いている人が、「手を握って欲しい」とか「抱いて欲しい」と要求したり実行したりすれば、その人は返って拒絶を経験してしまう可能性があるのであります。しかし、その人が「淋しいんです」とか「触れて欲しいんです」「人肌が恋しいんです」などと、愛情を求めているという自身の感情を言葉で表現される限り、その感情は他者により受け入れてもらえて、共有してもらえるものなのであります。繰り返しますと、行動化によって表現されたものは拒絶に遭いやすいということであり、同じことでも言語化されたものは共有され得るということであります(注3)。
言葉を十分に駆使できない乳幼児や小さな児童においては、自身の感情や内面を言語的に表現することが困難であります。言語的に表現する代わりに、行動によってそれを表現しなければならないのであります。そのために、その行動はパターン化されやすいものであります。そうしてパターン化された傾向を一般的に「性格」と称しているのでありますが、これに取り組むためには、私の目指すところでは、その人に言語化への道を模索してもらわなければならないということであります。しかし、私たちは子供から大人へと成長していく段階で、このような作業をしてきているものであります。だから何も特別な作業ではないと私は捉えています。従って、行動化から言語化への橋渡しをしていく作業をカウンセリングにおいてはしていかなければならないということなのであります。
簡潔に述べますと、カウンセリング場面においては、行動化は禁止されますが、言語化は推奨されるということであります。もちろん、どのように言語化される必要があるか、どういう部分をもっと言語化しなければならないかという問題も生じるのですが、ここではこれ以上深く取り上げないことにします。いずれ別項にてそのような問題も考えてみたいと思っております。
(107―7)本項の要点
本項のまとめをしておきます。本項では、面接室内において制限される行動について述べてきました。クライアントには語ることに関しては自由を保証されていますが、いくつかの行動に関しては制限がなされます。特に、暴力的な行為や身体接触という二点について取り上げました(注4)。行動化は常に当人に拒絶を再体験させてしまうことになりかねず、行動に駆り立てるものを言語化する道を模索しなければならないということを述べてきました。カウンセリングとは、このような言語化への援助でもあると私は捉えております。
(107―8)注釈
(注1)
愛情飢餓感が強くなった場合、それが接触欲求として当人に体験されている場合もよく見られることであります。この接触欲求は、根源的には「抱っこされたい」というところに行き着くものであります。この根源的な欲求に関して、私はそれを直接的に満たしてあげることはできないのであります。従って、握手はいいけれど、抱くことは許されないという葛藤をお互いに生じさせる結果となるものであります。
(注2)
結局、このクライアントとは握手することもなくお別れすることができました。クライアントにとって、もはや私の握手が必要ではなくなったからであります。愛情飢餓感の克服としては、望ましい形だったと私は捉えております。
(注3)
言語化、行動化の両者をつなぐものとして、象徴化を挙げることもできます。象徴的に表現することもできるのであります。ただ、この象徴表現は、お互いに共通の象徴理解が得られていれば滞りなく通じるでしょうが、そうでない場合はしばしば誤解を生みだすものであります。
(注4)
「破壊」衝動と「性愛」衝動と言い換えてもいいかもしれません。この二つは言語的に表現することが、確かに、難しい領域であるかもしれません。それだけに行動化に移しやすい傾向を有しているかもしれません。問題となる行動には、常にその両者のどちらか、あるいは双方が関与しているものであります。そして、その行動が当人に不都合や不利益をもたらしている場合が多く、それだけに、それらは行動化されない方が望ましいのであります。行動化よりも言語化するということは、当人には困難を伴うものであります。なぜなら、そのような言語化の試みを当人がしてこなかったという背景があるからであり、言葉にできないからこそそのような行動化が生じているからであります。困難ではあるけれども、言語化への方向へ探索していくことの方が、より建設的であり、安全であり、当人にとって望ましいことであると私は捉えております。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)