<テーマ105> 「うつ病」の怒り
(105-1)「うつ病」の怒りの爆発を体験した家族
「うつ病」と診断された人に感情が蘇ってくると、時々、激しい怒りとしてそれが表出されることがあります。それにびっくりしたという話を最近してくれた女性があります。「うつ病」と診断されたのは、その方の夫だったのですが、ずっと沈み込んでいた夫が、ある日、些細なことをきっかけに爆発したと報告されたのでした。当然、彼女は驚いて、どうしてよいか分からなかったと述べております。
この「うつ病」と診断された夫が、感情を一気に爆発させたということは想像に難くないのであります。それまで感情が動いていなかった人に、いきなり感情が動き出したりすると、しばしば極端な形をとることがあるのであります(注1)。ただ、その感情の爆発は、彼女にはとても衝撃的だったようであります。それも理解できないことではありません。彼女には夫が豹変したように見えたのではないかと察します。しかし、「うつ病」の人にそのような怒りが見られるということは、しばしば回復の一過程でもありまして、望ましいことでもあると私は捉えております。望ましいこと「でもある」というのは、ケースによって異なるからであります。望ましいことでありながら、望ましくない結果に導いてしまうようなこともあるのであります。
(105-2)感情の爆発と自殺
この怒りの爆発の一つの結末が自殺となることもあります。「うつ病」においては回復期に自殺が見られるというのは、怒りが「自分自身」に向いているということであり、その人は怒りという感情体験ができるまで回復していると見ることができるのであります。感情体験が戻ってくるということは望ましいことではありますが、自殺という結末は望ましいものではありません。
望ましいことが生じた場合、それが望ましい形で行われるにこしたことはありません。
(105-3)自動車を大破させた夢を見た「うつ病」男性の例
こういう感情的な爆発が夢で見られたという例があります。クライアントは男性で、「うつ病」と診断された人でした。彼は回復していく過程で次のような夢を見ました。彼は仕事で営業に回ることが多いのですが、仕事の途中で会社の自動車をぶつけて破損させてしまったという夢でした。
営業で使う会社の自動車を、彼が大破させてしまったということに、私はこのクライアントの感情の爆発を感じたのであります。
この夢には続きがありまして、彼は会社の車を大破してしまって、どうしようと困惑したのであります。夢の中で、彼は自動車を修理するのでしたが、それがなぜかプラモデルの自動車に変わっていたのであります。
「プラモデルに何か思い出がありますか」と私が尋ねますと、彼は子供の頃は好きでよく作ったと語りました。「プラモデル作りは楽しかったですか」と私は更に尋ねました。彼は楽しかったと答えました。
さて、車を大破させたというところに、彼の感情の爆発を感じたのでしたが、その車が会社の車だったというところから、その感情は彼の会社、仕事ということと結びついているということが分かるのであります。そこに対して感情を爆発させて、「しまった!」と体験しているのであります。彼にとって、それをすることは禁じられていたのだということが理解できるのであります。
彼は大破させてしまった車を修理しようとするわけでありますが、そこで車がプラモデルの車に代わっているということに私は興味を覚えました。プラモデルは彼の子供時代の楽しい経験と結びついているのであります。この夢は、従って、会社に対して感情を爆発させてしまうと、取り返しのつかない事態に陥ってしまうことを表しているように思われました。それをすることは危険であると夢が教えてくれているのだと思ったのです。その代りに、彼はプラモデルを作っているのであります。つまり、危険なやり方を採る代りに、より安全な形で彼は感情体験を取り戻す必要があるのだと私は考えたのであります。
私が上記のような解釈を彼に伝えました。「うつ病」と診断された人の中には彼のように素直な人も多いのですが、それから彼は現実にプラモデルを作るようになったのであります。翌週、来られた時にそう報告されたのであります。
プラモデルを作っていると楽しいと彼は語りましたし、後々、彼は子供と一緒にプラモデルを作るようになっていったのであります。「楽しい」という感情が体験されていくほど、彼は「うつ病」から解放されていったように見えました。
もう一度、ポイントを押さえておくと、この男性は、夢の中で感情の爆発が起きてしまったのでしたが、それを現実にしてしまう前に、より安全な形で感情を取り戻していったのであります。
(105-4)自己懲罰をした男性例の引用
次のような悲惨な例もあります。これは私が直接体験したものではありません。書物からの引用であります。(『おのれに背くもの(下)』カール・メニンガー著 日本教分社より)
憂うつ症に陥った男性が入院しました。入院して回復していったのだろうと私は思います。ある時、彼の母親がやって来て、「息子のことは私が一番良く知っている」と言って、医師たちの反対を押し切って、彼を無理矢理退院させて家に連れ帰ったのでした。家に連れ戻されて数日後、夜中に彼は起き上がり、眠っている幼い我が子を見て、「この子がこの世の苦しみを体験するのは忍びない」(注2)と感じて、金槌で幼い我が子を殴り殺してしまったのでした。この男性は再び精神病院に入院したのでしたが、その後、作業の途中で自分の右手を機械に挟んでしまい、右手を失ったのでした(注3)。
彼の憂うつ症は、おそらく回復過程に入っていたのでしょう。母親は勝手に退院させてしまったのですが、医師たちは退院はまだ早いと認識していたのだと思います。そのように捉えると、「治癒」はしていないが、回復の途上にあるという段階に彼がいたのだと推測して間違いではないように私は思うのであります。恐らく、感情が動き始めていたのではないかと思いますが、その晩、彼の怒りが爆発してしまったのであります。しかし、その怒りは、彼の子供に向けられてしまったのであります。
この怒りは、本来は彼の母親に対して向けられるべきものだったはずであります。しかし、彼は最愛の子供にそれを向けてしまったのでした(注4)。
(105-5)「うつ病」の怒りはどこに向けられるのか
怒りにはそういう傾向がしばしば見られるのですが、「うつ病」と診断された人には特にこの傾向が見られると思います。この傾向というのは、愛する人や大切な対象に対して(一次対象、主要対象に対して)怒りが向けられてしまうという傾向のことであります。我が子を撲殺してしまった男性は、大切なはずの我が子にそれを向けてしまっているのであります。同じように、会社の自動車を大破させてしまった夢を見た男性も、会社ということが彼にとって大事な対象だったのだと察します。同様に、妻に怒りをぶつけてしまった「うつ病」者にとっては、妻が彼の一次対象だったのだと私は察します。そして自殺をしてしまう「うつ病」者も、その人にとっては自分自身が主要な、一次対象となっていると考えられるのであります(注5)。
(105-6)本項の要点
本項では、「うつ病」と診断された人の怒りの爆発に関して述べてきました。それは突発的に生じるように見えるので、周囲の人は驚いてしまうということですが、一方でそれは回復の過程にその人がいるのだということをも示すものであるということを述べました。そして、その怒りは、彼が愛している人や大切な対象に対して(一次対象、主要対象などと呼ばれることもある対象に対して)向けられるということを述べました(注6)。
冒頭に挙げた女性に、「うつ病」の回復過程でそのようなことが生じるかもしれないということが予め知らされていたなら良かったと私は思います。そして、言葉や夢でそれをしてくれた方が、自殺や殺人といった行為でそれをされるよりも、はるかに望ましいものであると私は考えております。
(105―6)注と補足
(注1)このような極端さのもう一つの例が「うつ病」と診断されていた人が「操状態」へ陥る時にも見られるものと私は捉えております。今まで動くこともできなかったような人が動き始めると、「操状態」のような過活動ぶりを見せることが、私の経験したクライアントからでも確認できるのであります。また、「うつ病」に限らず、今まで動いていなかった部分が動き始めた時には、極端な形を取って表出されることがあります。感情が動いていなかった人に感情が動き始めると、物事にやたらと感動したり、やたらと泣いたり、笑ったりしてしまうというようなことが生じます。いくつかそのような例も私はみてきました。
ある人はまったくと言っていいほど自己主張できませんでした。カウンセリングを体験していく中で、その人は徐々に自己主張をするようになるのですが、すぐに激しい形を取り始め、半ば攻撃的なくらいの自己主張をされるようになったのでした。抑えていたものが一気に噴き出したような感じであります。しかし、このような激しさは一時的なもので、ほどなくしてその人は適切な自己主張に落ち着いていったのであります。
このような極端な形を取って表出されると、本人や周囲の人は「悪化した」と捉えてしまいがちなのですが、必ずしもそうではないということであります。その人が、感情をコントロールできる度合いに応じて、そのような激しい表現は速やかに消失するものであるという印象を私は受けております。
(注2)「この子がこの世の苦しみを経験することが忍びない」という思考は「うつ病」に特徴的な思考だと思います。「うつ病」と診断された人が誰かを殺してしまったり、あるいは無理心中したりする時には、このような思考がその動機として見られるのであります。厭世観に彩られている思考であります。
もう少し、丁寧に述べるなら、「この世は苦しいことに満ちている。この世の苦しみを経験する私は不幸であり、生まれてくるべきではなかったのだ。この子も同じように苦しみを経験する。苦しみを経験するこの子は不幸な子であり、この子は生まれてくるべきではなかったのだ。生まれてきたこの子に罪はないけれど、生んだ私は罪深い人間だ。この子に対してできる償いは、この子がこの先、不幸を経験することがないようにしてあげることだ」といったような思考で満ちているのではないかと私は理解しております。厭世的な気分で世界を見てしまうがために、何事も厭世的な色彩を帯びてくるのであります。
(注3)我が子を殺したこの男性が、後に手を失うということ。我が子の命を奪った「この手」を処分するという意味合いがある行為である。これは<テーマ104>でも触れた通り、一つの自罰行為であり、こういう形でこの男性は自己懲罰をしているのである。ここでも罪意識と手という身体部位の関わりを見てとることができる。
(注4)最愛の子供というのは、私の推測でありますが、この男性は学校の先生であったということが記されていますので、子供、児童に対しての愛情を持っていた人であると仮定しています。
(注5)「うつ病」と診断された人が、その攻撃や怒りを向ける対象として、その人にとっての一次対象、主要対象が選ばれるということ。それは、かつて対象に注いでいたエネルギーが自身に戻ってくるというメカニズムと関連することであります(「悲哀とメランコリー」シグムント・フロイト著 参照)。このことは少々不謹慎な話ですが、「うつ病」の人は無差別殺人のようなことはしないであろうということが理解できるのであります。もし無差別殺人を犯した犯人が「うつ病」と診断されていたとすれば、そのような例があるとすればですが、それは診断の方が間違っていたのだと私は考えます。
(注6)<テーマ32>において、「うつ病」と診断された作家志望の女性の作品を取り上げました。この小説の主人公は最後に感情を爆発させるのであります。それも主人公が大切にしているはずであろうものに感情を爆発させていくのであります。この場面は意味深なものがあります。彼女自身はそのような感情の爆発を現実にはできないので、小説の主人公に託したのだという理解が成り立つのであります。現実にはそのような感情を爆発させるようなことができないので、小説の中でそれをしたのではないかということなのですが、これもまた、夢で車を大破させてしまった男性と同様、より安全な爆発のさせ方であると私は捉えております。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)