<テーマ102> 虐待の粘着性

 

(102―1)私がお会いする「被虐待者」

 親子関係について考えていく際に、子供への虐待という現象を無視するわけにはいきません。私は暴力が非常に怖いのです。ですから、できれば虐待やDVといった問題を避けたいと思ってしまうのです。でも、クライアントと会っていくためには、どうしてもこれらを避けるわけにはいかないのです(注1)。

 虐待の問題を論じるにあたって、私がお会いするのは過去において、つまりその人の子供時代において、親からの虐待を経験したという人です。今、現在において、虐待を受けているという人とお会いすることは、私の場合、少ないのです。それは虐待を受けている児童と会う機会がないためです。

今、現在において、虐待を受けているというクライアントというのは、私がそういう方お会いする場合、それは子供時代から大人になった現在までそれが続いているというような例です。

こうした私の仕事上の背景のために、私の虐待に関する考え方には若干の偏りがあるかもしれません。その点はご了解ください。

 本項では、虐待を虐待たらしめている事柄について論じていく予定をしております。

 

(102―2)虐待の構図

 いじめというものが同族集団内で生じることに比べて、虐待においてははっきりとした上下関係の中で生じるものです。親と子、教師と生徒、上司と部下、先輩と後輩、あるいは施設の職員と施設の利用者といった関係において生じるものであります。

立場的に上位の者が立場的に下位の物を虐待するというのが、基本的な構図です。この中でも、私がよく直面するのは親子間における虐待です。それも大抵は虐待を受けた側の人とお会いすることになります。

 虐待する側の人ともお会いしたことはありますが、そのような人はまず子供を虐待してしまうということで相談に来られるのではありません。別の事柄を訴えて相談に来られるのですが、話が進むうちにその人の虐待が見えてくるという例を私はいくつか経験しております(注2)。虐待してしまう側の人のこともいずれ考察していくつもりでおります。

 

(102―3)誰が「それ」を「虐待」であると決めるのか

冒頭に示したように、親子関係を見ていく際に、虐待の問題から目を逸らすわけにはいかないのです。たとえ当人が虐待のことを報告しなくとも、虐待の可能性を考慮にいれてお会いしなければならないというクライアントもおられます。

 この虐待ということですが、それを虐待と見做すかどうかということは、虐待を受ける側が決めることであります。まず、虐待をする側は、自分の行為を虐待とは言わないものです。多くの場合において、その行為は「躾」として報告されるのです。

 「躾」とか「教育」というのは、虐待問題にとっては、ある意味、とても便利で都合のいい言葉だと思う時が私にはあります。

 

(102―4)それは本当に「躾」か

 「躾」と言えば聞こえがいいのですが、実際に虐待の場面に遭遇すると、それは「躾」などと形容できるものではありません。虐待する側は、これは一見して分かるのですが、尋常じゃない状態でそれをするのです。その姿を目の前で現実に見たことがある人なら、それを「躾」などという理性的な行為であるとは見做せないものです。

 「躾」は、もしそれが本当に「躾」であるとするならば、子供がその行為をする度にそれを指摘して、子供に改めてもらうということだけで済むはずです。つまり、毎回、すぐ終わるものであるはずです。私はそう捉えております。子供がそれをした時に注意するだけで済むはずです。

ところが、虐待と言われるものは、もっと粘着的な性質を持つ行為であります。虐待が虐待である所以はこの粘着性にあると私は理解しております。

 

(102―5)粘着性

粘着的というのは、その行為がしつこく続くということです。長時間に渡って、それが行われるということです。

このしつこさは、虐待する側に起因するものです。虐待される側にとってみれば、その行為は終わりがなく、延々と続くように思われるものなのです。

 例えば、親子関係において、親が子供を虐待しているとしましょう。きっかけは何であっても構いません。子供が何かをしたとか、あるいは親の虫の居所が悪かったとか、どのような事柄であっても虐待を生じさせるきっかけになるのです。

子供が悪さをしたからとか、言うことを聞かなかったからとか、虐待する側は虐待の正当性を訴えるのですが、そのような理由というのはほとんど重要ではないのです。とにかく、何かをきっかけとして、虐待が始まるのです。

そして、一旦始まった虐待は一時間でも二時間でも、ひどい時には数日、数週間にも渡ってそれが続くのです。この執拗さ、粘着性、これが虐待の一つの特徴であると私は捉えております。

 

(102―6)虐待に接する

 この虐待の粘着性ということを考えることになったきっかけになる出来事がありました。私の実家の近所でこういうことがあったのです。

私は自分の部屋にいて、窓を開けていました。すると、ものすごく逆上した母親の怒鳴り声が聞こえてきたのです。相手が子供であるということは、母親の怒鳴り声の合間に子供の声や泣き声が聞こえることから分かりました。

 その時間に私が自分の部屋にいることは珍しかったので、私はその母親のことを初めて知ったのです。

私は翌日、私の母に尋ねてみました。母によると、それは同じ通りの家の人で、何度もそういう声が聞こえてくると言うのです。私は初めて耳にしたのですが、近所の人はそういう事実を知っているようです。

 さて、その夜のことですが、私はすぐに「これは虐待だな」と察したのです。こういう場合、すぐに警察に通報するべきなのですが、私はこの母子のやり取りをしばらく聴いてみることにしました。そして、どういうタイミングでこの虐待が終了するかを確認してみたくなったのです。

 母親の言葉から察すると、子供が何か危ないことをしてしまったようです。それを母親が叱責しているのです。時間としては30分くらい続いたでしょうか。

しかし、問題はこの時間ではないと思いました。子供が泣いても、謝っても、この母親が鎮まらないのです。虐待が粘着的な性質を帯びるのは、虐待する側の鎮静の困難さによるものだと言えるでしょう。

時折、終了したかと思われた瞬間が何度か訪れたのでしたが、蒸し返すのは母親の方でした。母親が蒸し返す度に、子供はこの場面に付き合わされるのです。その間、子供は決して解放されないのです。この辺りにも、私は虐待に特有の粘着的な性質を感じたのでした。

 先述のように時間は30分間くらいでした。しかし、この時間をあまりに客観的に捉えすぎるのは間違いの元です。30分間と言っても、大人が体験する時間と子供が体験する時間は異なるものです。子供の方が現実の時間を長く体験するものです(注3)。

母親はたったの30分という認識をしていたとしても、子供はそれを何時間もの時間として体験しているものです。ましてや、子供にとって苦しい状況だったわけですから、この子にとっては、この30分は永遠に続く時間のように体験されていたかもしれません(注4)。

 この30分の間に、子供は何度も泣き、何度も謝ったのですが、母親は決して許そうとしなかったのです。何のために母親が叱っているのかさえ、母親本人にはもはや関係がなくなっていたのではないかと思われるのです。

ともかく、こういう事態においては、この母親が行き着くところまで行き着くしかないのです。母親が行き着くところまで行き着いてくれない限り、子供は解放されないのです。

この拘束は子供にとっては相当辛い体験だろうと察します。母親の粘着性に子供は付き従わざるしかないのです。だから虐待される側は逃げることもできないで、無力に佇むしかないのです。

 

(102―7)虐待を経験した一女性の例

 子供時代に虐待を受けたと告白した女性クライアントは、このような体験をはっきりと述べておられます。

虐待するのは彼女の母親でした。この虐待は秘密裡に行われていて、父親や周囲の人には知られずにいたのでした。

 彼女は母親のことを「人間が変わる」と表現されました。第三者がいる時と、彼女と二人だけの時とでは、母親がまったく別人のようになるのだということです。

ある程度年齢を重ねると、母親がそれをする時は、それとなく雰囲気で分かるのだと彼女は言いました。そして、何かのきっかけで、それが始まるのです。このきっかけというのは、先述のように、どんなことであっても構わないのです。

 それが始まると、母親は逆上して怒鳴りつけ、彼女は何も言えなくなるのです。何も言わなかったら言わなかったで叱られ、何か言うように強要されるのです。そして何か言ったら言ったで、母親の攻撃の的にされてしまうのです。そして、そのうち、母親の拳が飛んでくるのです。

彼女は、そうした母親の一貫性のない態度に対して、無力なままに留まるしかありませんでした。黙れと言われれば黙るし、答えろと言われたら答える。拳が飛んできたら、よけることや身を守ることは許されず、そのまま顔面で拳を受け止めるのです。それが一番安全なやり方であると、彼女は知っていたのです。

母親とのこの継続的な関係から彼女が学んだことは、自分は弁解したり身を守ったり、あるいは逃げたりしてはいけないのだということでした。そして、母親に最後まで付き合わなければならないということでした。

むしろ、母親の言いなりになっていた方が、早くそれから解放されるということを彼女は知っていたのです。その際の時間ということは、彼女には関係がありませんでした。毎回、長時間続いていたかもしれないし、5分で終わっていたのかもしれませんが、客観的な時間は彼女には関係がなかったのです。測定可能な時間概念でこの行為を評価しても、何の意味もないのです。

それが長短いずれであれ、その時間は彼女自身として存在してはならないということを彼女が体験しているということに変わりがないのです。

 彼女はその時間を、じっと耐えるのです。母親のこの行為はいつも必ず終わることを彼女は知っているはずですが、それでも終わりを期待して耐えているという感じではなかったと語ります。

つまり、希望もなく、毎回、永遠にそれが続くように体験されていたのではないかと私は察します。そうだとすれば、時間概念というものが、虐待を受けている時の彼女には失われていたということが言えるのかもしれません。

 時間ということに話が逸れましたが、彼女もやはり母親の粘着性のことを語っていました。もちろん、粘着的などという言葉を彼女が用いたわけではありませんが、やはり母親が一つのことをしつこく蒸し返すのです。終わりが見えたかと思うと、母親が再び振り出しに戻すのです。そうして、それがいつ終わるかということは、いつも母親の気分次第だったのです。

 

(102―8)本項のまとめ

 親子関係の問題の一環として、今後とも「虐待」の問題は取り上げていく予定でおります。それが虐待であるかどうかは、虐待を受ける側が評価することであり、また、虐待に特有と思われる特徴は、行為の種類や時間の長短にあるのではなく、虐待する側の粘着性にあるということを述べました。そして、この粘着的ということがどういう現象のことを指しているのかということを述べてきました。なぜ、虐待する側にそのような粘着性が見られるのかということも今後考えていきたいと思います。

 

(102―9)注と補足

(注1)目の前に虐待を経験した人がいて、自分が受けた虐待を話しているとします。私はそれを聴き入っています。その人が打撃を受けた箇所に、私も痛みを感じることがあります。もちろん、その痛みというのは現実のものではないということは自覚しているのですが、聴いていて、「痛い」という体験を私はすることがあります。私が避けようとしてしまうのは、私に感じられているこの「痛み」なのです。「虐待問題」そのもの、あるいは虐待に関係している人たちそのものを避けているという意味ではありません。

 

(注2)例えば夫婦関係のことで相談に来られた女性がいました。話題の大半は彼女の夫のことです。しかし、子供が関係するエピソードにおいて、虐待を思わせるような節が感じられるのです。ただ、彼女は子供のことをはっきりとは話しませんでした。恐らく虐待の問題を孕んでいたのだろうとは思うのですが、この例では確証がないのです。しかし、後になって、そういうエピソードが面接の中で現れてくるということもあります。虐待する側の人とお会いする時というのは、このような場合です。

 

(注3)子供の方が大人よりも時間を長いものとして経験するということに関して、私たちは加齢とともに時間の過ぎるのが速く感じられるということを経験的に知っています。小学校一年生の時の夏休みは、私には永遠に続くほど長いものでした。その後、学年が上がるにつれて、同じ日数の夏休みがだんだん短く感じられていったのを覚えております。この現象が生じるのは、子供の方が脳の活動が活発だからであると読んだことがあります。同じ五分間であっても、子供の方がよりたくさんの情報を吸収、処理しているために、時間を長く感じるということです。要は、大人の五分と子供の五分とでは、質的にも、その体験としても、まったく異なるということです。

 

(注4)大人であっても、愉しいことをしている時間と苦痛なことをしている時間とでは、その感じられる時間の長さが異なります。あなたもそういう体験をされたことがあるかと思います。母親から叱られるということは、子供にとっては楽しい体験ではないはずです。そういう点から見ても、子供がその場をいかに永遠的なものとして体験しているかということが予測できるのです。

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

 

 

 

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