<テーマ96> 離婚~妻はどうなるのか 

 

 Aさんの事例をシリーズで追って行ったのでありますが、最後にAさんの妻はどうなるのかという点に触れておきたいと思います。

 カウンセリングを受けに来たのはAさんであり、彼の妻ではありませんでした。援助を求めてきたのはAさんであり、私はAさんに対してできることをしなければならないと考えます。従って、彼の妻はここでは枠外に置かれていたのであります。非常に冷酷な考えだと思われるかもしれませんが、援助を必要としている人に対してだけ援助をしていこうというのが私の考えであります。もし、彼の妻もカウンセリングを受けに来たとしたら、やはり私は同じように援助していこうとするでしょうし、この二人に対して援助を与えようと試みるでしょう。しかし、彼女は一度も姿を現しませんでした。Aさんの妻は常にAさんの話の背景において存在していたのみでした。姿を現さない人に対してはいかなる援助も施しようがないものであります。

 

 一組の夫婦が離婚するかどうかは当事者間で決めるべき事柄であると私は考えます。倫理的に望ましくないとかいう議論は、当事者以外の人たちの論理であります。そうでありますので、倫理的な観点というものは、離婚の危機を迎えている夫婦に対しては何の意味もないと私は考えております。離婚するかどうかは当事者間において決定される事柄であり、その後に起こる事柄についても当事者たちで責任を負わなければならないことであります。もし、離婚という選択が間違っていたということにいつか気づいたとしても、その責任は離婚した当事者たちにあるものであります。第三者はそこまで責任を負えないものであり、彼らが後悔しないような選択を推し進めようとしても、外部の人間にはそれ以上何もできないものであります。彼らがその後の人生で後悔しても、それは彼ら自身に還元されるものであります。

 他の場合でもそうですが、第三者(それは友人であれ、専門家であれ)ができることは、彼らに対しての提案だけであります。彼らに代わって決定することはできないことであり、彼らが選択するべき事柄をこちらで決めるということはできないことであります。また、彼らの下した決断が望ましくないように思えたとしても、周囲の人はそれを止めさせることはできないのであります。「それは望ましくないと私は思う」というように、一個人の意見として彼らに提示するか、「もう少し考える時間を取ってみればどうか」といった別の提案ができるだけなのであります。そして、彼らの下した決断によってもたらされた事柄は、彼ら自身が負っていかなければならないものであります。彼らの人生上の出来事であるので、それを他者が肩代わりしてやることなどできないものなのであります。

 

 Aさんの妻は私を恨むかもしれません。カウンセラーなどという人種は「ひどい別れさせ屋」だと認識されるようになったかもしれません。離婚はカウンセラーが唆したものだと主張したがるかもしれません。彼女がどのように考えようとも、彼女は決してカウンセリングの場には顔を出しませんでした。あるいは、夫に対しての自分の役割をカウンセラーが乗っ取って行ったというように感じておられたかもしれません。どうして自分の助けを求めず、部外者のカウンセラーなどという人間に助けを乞うのかと、Aさんともども恨んでいるかもしれません。

 Aさんの妻はどうなるでしょう。私の個人的な見解では、この離婚を機に(と言うのは、離婚するということは彼らの間ですでに決定されていたからであります)、彼女自身もまた自己を振り返ってみられることが望ましいと私は考えております。

 Aさんの夫婦は、Aさんが助けが必要な人であり、妻がそれを助けてあげられるという関係で成り立っていたものと私は見做していました。Aさんに援助をしたいというのは、妻の抱えている何かの表れであります。Aさんが援助の必要な人である限り、彼女の何かが維持されていたのだと私は捉えております。もしそうだとすれば、Aさんが哀れな存在ではなくなった時、彼女は自分自身が維持できないような感覚に襲われたのではないかと思います。彼女は常に被援助者を必要とする人だったのかもしれません。しかし、それは彼の妻の側が抱えているテーマであり、彼女自身がそれに気づいて乗り越えていかなければならないことであると私は思います。

 この離婚を機に、彼女は自分自身のために動き始めるでしょうか。私はそうは思わないのであります。彼らの子供は、Aさんではなく、妻が引き取ることになっていました。この子は、Aさんに代わって、彼女の被援助者になっていくでしょう。つまり、「この子は父親のいない可哀そうな子だ」と言って、子供に対して過大なほどの援助を与えていくでしょう。それは単にかつてのAさんが占めていたポジションを子供が占めることになるだけであります。Aさんがいなくなっても、Aさんに代わる存在がいるわけですから、それだけに彼女の危機感は小さかったのではないかと思います。もし、Aさん夫婦に子供がいなくて、それでAさんが離婚しようとしていたとしたら、恐らく、彼女はカウンセリングの場に顔を出していたことでしょう。なぜなら、この場合の方が彼女の危機感情を高めるからであります。

 もし、Aさんの占めていた位置が子供に置き換わっただけで済むのであれば、彼女はそれほどの危機感情を抱かないと思います。「夫には私が必要だ」ということが「この子には私が必要だ」に代わるだけであります。そして、この仮説に基づいて考えていくと、子供が哀れな存在である限り、この母子関係は一見良好なものになるでしょう。彼女は子供をいつまでも援助が必要な子供のままにしておくかもしれません。きっとその可能性の方が高いでしょう。しかし、子供が母親の援助を拒むようになっていく場合もあり得るでしょう。そうなった時に、彼女は改めて自分自身の抱えているテーマに向き合わされることになるかもしれません。

 従って、Aさんはこの離婚を機に、かつての自分を取り戻そうと動き始めたのに対して、彼の妻は子供をAさんの代わりとして、これまでの生き方をそのまま維持していくのだろうと私は捉えたのでありました。そして、子供をAさんの代わりとして、彼女の「補助自我」としていく限りにおいて、彼女は喪失するものもなく、以前と変わらない役割を取り続けるであろうということが予測されるということでした。子供が母親から離れようとするとき(これは可能性としては低いと思います)、あるいは、子供が何らかの精神的な問題を顕在化させたとき(こちらの方が可能性が高いように思います)、それを彼女は自分自身の問題として向き合うか(これは可能性が低いと思っています)、それは子供の問題だと見做す(こちらの方が可能性が高いと捉えております)か、どちらかの選択を迫られることでしょう。

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

 

 

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