<テーマ68> 「一生懸命」
「お前は一生懸命仕事をしているか」 上司が厳しく問いただします。
「はい、一生懸命しています」 部下はそう答えるしかありません。
「一生懸命という字を書いてみろ」 上司の命令です。部下は書きます。
「どういう意味だ」 上司が書かれた文字を見て問います。部下は答えられません。
見かねた上司は「一生懸命とは、『一生、命を懸ける』と書くんだ」と言ったと言います。
この部下は私のクライアントであります。クライアントに再現してもらったやりとりであります。私から見ると、この上司の言葉は、どこかのヤクザ映画からでもセリフを借りてきたのだろうと思います。あまりオリジナリティのある言葉ではないように思います。
さて、取り上げたいのは、「一生懸命」という言葉の意味であります。この上司は、「一生、命を懸けることだ」と言います。これで納得される方もおられるかもしれませんが、私はどこか違和感を覚えるのであります。何と言いましょうか、意味が重複しているように私には思えてならないのであります。
その前にお断りしておかなければならないのは、これは私の個人的な見解に過ぎないということであります。言語学的にどう解釈されているのか、語源的にどのようにして生まれてきた言葉なのかといったことをきちんと調べもせずに述べているのであります。その点をご了承下さい。
先述した「意味が重複している」ということですが、これは例えば「頭痛が痛い」というような表現のことであります。「頭痛」という言葉の中に「痛い」が含まれているので、「痛い」の部分が重複していることになります。「罪悪感を感じる」とか「悲しいと感じた」といった表現にも意味が重複しています。「罪悪感」や「悲しい」という言葉の中に「感じ」が含まれているわけであります。「感じ」の部分を二度繰り返して述べているようなものであります。一つの文章の中に、同じ意味を表す言葉が二つ含まれているのであります。
「一生命を懸ける」と言った場合、「一生」と「命」とが意味的に重複しているように私には感じられるのであります。「一生を懸ける」の中に「命を懸ける」が含まれており、「命を懸ける」の中に「一生を懸ける」がやはり同じように含まれているように私には聞こえるのであります。
なぜ、このような重複が生じてしまうのかと言いますと、「一生懸命」の「命」の部分を「生命」の意味として解釈しているからではないかと思います。この「生命」という言葉は「一生」という言葉と非常に類似した概念の言葉であります。そのために意味が重複しているように響いてしまうのでしょう。あくまでも私の個人的な理解であります。
もう一度、「一生懸命」という言葉に注目してみます。「一生、命を懸ける」という上司の解釈では、「一生」はあくまでも期間を示すだけの言葉になってしまいます。しかし、「一生」は「懸」にかかっているのではないでしょうか。「命」が「懸」にかかっているのではないように私は思います。つまり「一生」という部分を単独で、それだけ独立した部分と見做すのは正しくないのではないではないかと私は思うのであります。従って、「一生を懸ける」という意味合いになるかと私は思います。
「一生懸命」の最初の三文字を「一生を懸ける」という意味に捉えるならば、「命」はむしろそれの目的語のような意味合いになるかと思います。つまり「命」に対して「一生を懸ける」というような構造になるのではないかと思うのであります。「一生を懸ける」対象が「命」になるはずで、これが「一生」と同義であっては都合が悪いのであります。
私はこう考えています。「一生懸命」の「命」は、「生命」のことではなく、「使命」のことであると。自分の使命としているところのものに一生を懸けるということではないかと私は捉えております。従って、「一生懸命」という言葉は、特定の行為や姿勢に見られるのではなく、もっとその人のアイデンティティに関わりのある言葉ではないかと思います。
もう一度、冒頭のやり取りを振り返ってみましょう。上司がまず、「お前は一生懸命仕事しているか」と問うわけであります。部下であるクライアントは「はい、一生懸命しています」と答えます。もし、彼が自分の使命を果たそうとしている限り、彼の言葉に嘘はないでしょう。そして、上司の問いかけに素直に答えている限りにおいて、彼は部下としての使命を果たしていると見ることができるのではないかと思います。
しかし、上司は「(それなら)一生懸命という字を書いてみろ」と彼に迫ります。これは彼の言葉に対して、上司が純粋に信用していないということを意味します。つまり、部下の「はい、一生懸命働いています」という言葉を覆そうとしているわけであります。上司は次に「字を書いてみろ」と文脈を変えることで、部下の言葉に対する返答を回避しています。そこで、次のような疑問を私は提示したいのです。部下の言葉を信用し、部下の言葉に真摯に向き合うというのは、上司の使命ではないだろうかということであります。従って、この場合、「一生懸命」でないのは、むしろ上司の方であると、私は考えるのですが、いかがなものでしょうか。
さらに「一生懸命」という字を部下に書かせた上司は、それが「どういう意味だ」と言って、迫ります。部下は答えられません。上司は自分の定義を部下に伝えています。部下が答えられずにいるということに関して、上司は無視しているのであります。この時の部下の沈黙は、上司に対して計り知れないほどのメッセージを送っていたのですが、上司はそれを掴み損ねています。恐らく、掴み取ろうともしていなかったのでしょう。なぜなら、上司は自分の定義を伝えることだけを目的としていたでしょうから、その目的から外れた事柄に関しては、まったく注意が行き届いていなかっただろうと推測できるのであります。
この上司は、部下とコミュニケーションを取ろうとしていないということが明白であります。部下は一方的に「一生懸命に働かない人間」であるとみなされ、部下の言葉に耳を傾けるよりも、「一生懸命」の定義(それもその上司が考えている定義)を部下に押し付けることしかしていないようであります。
私は彼に「上司は何が言いたかったんでしょうね」と尋ねると、「さあ、分かりません」という答えが返ってきました。正直な答えだと思います。上司は彼を回避し続けていたのでありますから、彼が上司の言葉を理解できないのは当然だと思います。
ここに書いていることは、あくまで私の個人的な見解でありますので、その点は繰り返し強調しておきます。私の見解はともかくとしても、この上司と部下と、どちらがより「一生懸命」なのかをあなたなりに考えてみられてもよろしいかと思います。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)