<テーマ90> アイデンティティについて~自身が一致される
アイデンティティということを考えていく際に、その動詞形であるidentifyという単語に注目しました。それは、「二つの物を照合し、両者が一致し、同一であるということが分かる」というニュアンスを有しているということを述べてきました。
そのことを、例えば、写真に写っている人物と目の前にいる人物を照合して同一人物であると認識することであり、目の前に現れた人が変わり果てたとは言え、記憶の中にあるその人の姿と同一人物であると認識できるという例を挙げて述べてきました。Identifyにはそのような意味合いがあるということであります。
では、個人のアイデンティティという場合、一体、何と何が同一ないし一致しているのでしょうか。本項ではそれに関して、私の考えているところのものを述べてみようと思います。
こういうことを考えている時に、私はふと昔読んだ記事を思い出しました。それはある出版社の編集長のこれまでの生涯に関する記事でした。彼は出版社に入るまでに、様々な職を転々としてきたと言います。出版社に入社したのも偶然だったように記憶しています。しかし、彼は編集の仕事をしているうちに、ふと思い出したことがあると述べるのであります。それは彼の子供時代の記憶でした。彼は当時から、例えばお気に入りの曲をテープに編集したりすることが好きだったと言うのであります。そういうことをするのが元々好きだったのだということを思い出されたのであります。この瞬間、彼は自分自身をidentifyしたのだと私は思います。
それはつまり、子供時代の彼(あるいは彼がしていたこと)と、今現在の彼(あるいは彼のしていること)とが、彼の中で一致したということであります。この一致が彼のアイデンティティを形成していくものだと私は思います。
この時、照合されているのは過去の自分と現在の自分であります。これが一致し、同一であると実感される時、その人の中で自分の芯のようなものが確立されるのであります。私の個人的な経験も述べましょう。
高校生の頃、私は翻訳家になりたかったのであります。英米には素晴らしい作家がたくさんいるのですが、その各々の作家の全作が訳されているわけではなく、代表的な作品だけしか日本語で読めないということが非常に残念だと思っていました。日本語に訳されていない作品でもきっと素晴らしい作品があるはずだと信じていました。それらはもっと翻訳されなければならないと思い、そのために英語の勉強に励んできました。ところが、大学に入って、英語に対しての興味を失い、紆余曲折を経て心理学に行き着いたのであります。
心理学、精神分析学の勉強は(これは他の学問でもそうでありますが)、その半分は専門の言葉を覚えることであります。エス、超自我、防衛機制、転移、抵抗、あるいは刺激、反応、学習、トークン、シェマ、フィードバック、などといった言葉を覚え、それを使いこなせるということであります。これは英単語を覚えることと何一つ異なる行為ではありませんでした。今でも私はそれをしているのであります。
今、私はカウンセラーとしてクライアントと会うという日々を送っています。クライアントの話を聴いて、「あなたのおっしゃっていることはこういうことでしょうか」などと応答したりします。この時、私はかつて翻訳家を目指していた頃の私と一致している感覚を覚えるのであります。
また、私が小学校4年生頃、私はシャーロック・ホームズの物語にハマりました。パイプに残された歯型から、そのパイプの持ち主がどんな人間であるかを鮮やかに記述するホームズに、私は痺れるほど感動しました。シャーロック・ホームズに憧れ、ホームズのようになりたいと私は願っていたのであります。今、クライアントの話をいろいろ伺って、そこから推測(推理)を働かして、「あなたのおっしゃっていることはこういうことになりませんか」などと言って、私の解釈を伝える。その解釈をクライアントが目を見晴らして、驚きをもって受け止めることもあります。「どうして、そういうことが分かるのですか」とびっくりされるクライアントもおられました。「簡単な推理だよ、ワトソン君」と言いたくなるのを堪えて、「あなたのような人を何人も見てきているからですよ」などと私は答えるのであります。この時、私は小学校4年生の頃の私、シャーロック・ホームズに憧れていた私と一致する感覚を覚えるのであります。
過去の私と現在の私との間に一致する感覚、それがアイデンティティなのだと私は思います。そして、このような感覚が得られる時、人は驚きをもってその感覚を体験すると同時に、どこか嬉しいような懐かしいような感覚をも体験しているのではないかと、私は自分の体験からもそう思うのであります。そして、この感覚が得られる時、その人の中で何かがつながるような、一本芯が通ったような感じを受けるものだと私は思います。
過去の私と今の私との間に一致しているものがあるということは、そのような感覚が得られるということは、私に一貫性がもたらされるのであります。私の中に、一本の道が通じるような体験を私はするのであります。
アイデンティティがはっきりしない、不鮮明、不明瞭であるなどと専門的には表現されることがあるのですが、それはその人の中でこの一貫した感覚がないということになるかと思います。これまで生きてきた各々の年代が、彼の中ではバラバラになっていて、つながりが見いだせないでいるという状態と言えるのではないかと思います。
さて、このように見ていきますと、前項の冒頭で示した「熱い酔っ払い」たちの口論がなんと意味のないことかと思えてきます。「お前のアイデンティティは何だ!」というのは、この質問自体が答えられない類のものなのであります。アイデンティティとは「何」という形で、いわばそれだけを取り出して提示できるようなものではないということであります。むしろ、アイデンティティとは「個人の中で個人的に体験されている感覚」なのであります。私はそう考えております。そして、アイデンティティとは、ただ確立されていくだけではなく、発見されて、体験されていくものであると私は捉えております。
「私は日本人である」というのは、確かに私のアイデンティティの一つであります。しかし、私はこのアイデンティティを発見したわけではありません。例えば、もし私がアメリカで市民権を得て、アメリカで生活することになったとします。そうなると私は日本で生まれ育ったけれども、今ではアメリカの一市民であります。「私は日本人である」というアイデンティティよりも、「私はアメリカの一市民である」というアイデンティティを獲得していくかもしれません。しかし、私が久しぶりに日本食を食べた時、きっと私はかつての私と同一の何かを感覚的に体験するでしょう。その時、初めて「私は日本人である」ということが、本当の意味で私自身にidentifyされることになるのでしょう。その時、私は日本に住んでいたかつての自分と、アメリカで暮らしている今の自分とが時間的につながっていくような体験をするかもしれません。その時、私は以前の自分と一貫した自分を体験するでしょう。アイデンティティとは、そういうものなのかもしれないと、私は思うのであります。
本項の要点として、アイデンティティとは、その人における一貫性であるということになるかと思います。バラバラだった自分自身がつながるという感覚であると思います。その一貫性がどのような形の一貫性であれ、どのようなつながり方をしたとしても、この感覚が「アイデンティティ」なのだと、私は考えます。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)