<テーマ88> 受容ということ
前項で、「語りなおし」ていくと同時に、クライアントが自己を「聴きなおす」ということを述べました。そうして、語られた事柄が再びクライアントに吸収されるのだということでありました。しかし、その前に、聴き手である臨床家によって、その語りは吸収されているのであります。この「吸収」とは、広く捉えれば「受容」ということであり、「受け入れる」ということであります。ます。以後、「受容」あるいは「受け入れる」という言葉を用いることにします。
多くの人は、自分に関して、自分でも受け入れることができる側面と、自分でも受け入れることができない側面とがあると思います。これをお読みになっているあなたにもそれがあるだろうと思います。当然、私にもありましたし、現在でも否定したくなる側面を持ち合わしてもおります。
そこで次のような実験をしてみて欲しいのであります。しなくても結構なのですが、ここで読むのを中断して、その実験をしてみた方が、後の話が理解しやすくなるかと思います。
実験とはこのようなものであります。まず、あなた自身を振り返ってみて、自分で受け入れることができる部分をいくつか挙げてください。自分の中で好きな所であるとか、長所と感じている所のものを書いてみられればいいでしょう。次に同じようにして、今度は自分でも受け入れ難い部分を挙げて下さい。自分の嫌いな部分や否定したいもの、あるいは短所とかいったものをいくつか書き出してみてください。誰もそれを見ないので、どうか正直に書き出してみてください。また、どちらもどのような事柄であってもかまいません。性格的なことであろうと、外見的なことであろうと、身体的なものであろうと何でも構いません。ただ、たくさん挙げる必要もありませんが、複数個挙げるようにしてください。
これができたら、あなたの目の前には二つのリストが完成しているはずであります。好きな部分と嫌いな部分というリストになっているはずであります。次にそのリストの一つ一つに関して、その項目に関して思い出すことのできるエピソードをいくつか挙げてください。
これができると、あなたの目の前には二つのリストがあり、そのリストの一つ一つの項目にいくつかのエピソードが揃っていることになります。今度はそのエピソードに注目していただきたいのです。その各エピソードにおいて、他者はどのような関わりをしているでしょうか、他者はどのような役割を果たしているでしょうか。
この実験にはさらに続きがあるのですが、一旦、ここまでにしておきましょう。
さて、この実験の目的は、人が自己受容しているところのものと、他者がそれを受容するということとの関係を見るということであります。あなたが自己受容できる部分(自分の長所や好きな所)というのは、他者もまたそれを受け入れてくれたり、承認、賞賛してくれたりしたというエピソードが見られたのではないかと思います。逆に、自己受容できない部分(自分の短所や嫌いな所)というのは、他者によっても拒絶され、否定され、処罰を受けたといったエピソードが見られたのではないかと思います。ある事柄が自己受容されることと、それが他者から受容されることとの間には密接な関係があると私は思います。このちょっとした実験でそれが了解できればと望んでおります。
もし、あなたが女性で、「わたしの長所はわたしが美人なことである」(わたしは自分が美人であることを受け入れている)というように答えられたとしたら、それにまつわるエピソードとして、「あなたは綺麗ね」とか「あなたは美人で羨ましい」などと言われたといった体験を思い出されるのではないかと思います。
また、「わたしの短所はわたしが美人であることである」(わたしは自分が美人であることが受け入れられない)と答えられたとしたら、それにまつわるエピソードとして、「美人のあなたにはこんな悩みないわよね」と仲間外れにされたりとか、「美人は得よね」などと皮肉を言われた経験を思い浮かべられたのではないかと思います。前者はあなたの容貌がそのまま他者から受け入れられていると言えますし、後者はあなたの容貌が否定されているというように言えるかと思います。
実験をされた方の個々のエピソードに私が踏み込んでいくわけにもいきませんので、話を前に進めることにします。ここで肝心な点は、各々の内容ではなくて、その生じている順序であります。先に他者の言葉があったはずであります。もともと、人間には自己受容も自己否定もなかった存在であると私は考えております。そのようなものを有しない存在として生まれてくるものだと思います。そして、自分の何かを誰かが受容するということが先に生じるものであります。誰かによって受容されたものを、次に自分自身が受容していくのだと思います。その反対の場合においても、この順番は変わらないものだと思います。先に誰かがそれを否定しているのであります。それから続いて、自分自身がそれを否定していくのであります。この順番が逆になるということ(つまり先に自己受容があって、それを他者が受容する)は、私には考えられないのであります。
カウンセリングを継続していくうちに、クライアントは徐々に今現在の自分や、過去のそうするしかなかった自分というものを自己受容していくのであります。人が自分自身を自己受容していくということは、とても大きなテーマでありますので、ここでは物凄く大雑把に述べているのであります。その点は了承していただきたく思います。何よりも、私たちが自己受容する時、必ず他者を必要とするものだと私は考えております。
私たちは、これはカウンセリングという見地を除外したとしても、終局において、自分自身になっていかなければならないものであると私は思います。その自分自身が自己において受容できるということが、生きることのテーマであると私は考えております。目先の問題解決というのは、私にとっては、それほど重要なこととは思えないのであります。
人が自分自身になるということ、偽りのない自分自身を体験するということ、その自分自身を受け入れ、その自分自身で生きていくということは、言葉で言うほど簡単なものではありません。大部分の人がそれができないでいるのであります。私自身でさえ、自分でもよくわかるのですが、それに程遠いことをしてしまっている自分に気づくこともあります。私たちは自己受容することはおろか、自分自身に向き合うことさえできないでいるものだと思います。
パスカルという人がいました。この人は気圧の研究で有名でして、気圧の単位であるヘクト・パスカルには彼の名前が付されているほどであります。パスカルは科学者であると同時に、一方で思想家でもありました。パスカルには「パンセ」という有名な哲学書があります(正確に述べると、「パンセ」はパスカルが書いたものではなく、後世の人がまとめたものでありますが)。「パンセ」において、パスカルは繰り返し、人が自分自身に向き合うことの困難さを述べております。
私が理解しているところでは、パスカルは次のようなことを述べているのであります。人々は本当に自分自身に向き合うことをせず、社交のお喋りに興じたり、ギャンブルに耽ったりするというのであります。そして(これがパスカルの思想の面白い所でもありますが)、戦争でさえ、人々が自分自身と向き合わないことに利用されていると言うのであります。確かに、自分自身と向き合うよりかは、他者と競争している方が、はるかに楽な生き方であると、私は思います。
パスカルは17世紀のフランスの人でした。しかし、17世紀のフランスの人たちと、21世紀の日本人にどれほどの差があることでしょうか。私たちは、少なくとも17世紀の人たちより、何一つとして進歩しているわけではないのだと私は思います。むしろ、現代の私たちの方が自分自身と向き合わないためのツールに囲まれているように私は感じております。
私たちは自分自身と向き合うことは難しいし、怖いものであります。しかも、それなくては私たちは自分自身になれないと思います。この作業を、クライアントは私との関係を通して、一方、私はクライアントとの関係を通して、お互いに達成していくことが、私の望んでいるところのものなのであります。
(文責:寺戸順司ー高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)