<テーマ74> 失錯行為(3)~自己破壊的な失錯 

 

(74―1)無意識的な抵抗感

(74―2)自己破壊的な傾向

(74―3)被害のある失錯

(74―4)重大な局面で失錯してしまう

 

 

(74―1)無意識的な抵抗感

 失錯行為には意味があり、例えば「恋人があなたの部屋に遊びに来ていて、何か忘れ物をして帰ったら、チャンスだと思いなさい」ということです。そうした微笑ましくなるような失錯行為もあれば、もっと深刻な事態をもたらす失錯行為もあります。本項では後者を取り上げることになります。

 失錯行為というのは私たちの誰もが経験あることなので、だからそのテーマを扱ったフロイトの本もよく売れたのだろうと思います。

私たちにとっても、それは身近な経験であります。度忘れしたり、言い間違えたり、読み間違えたり、聞き間違えたりといったことを経験したことがないというような人はまず存在しないだろうと思います。それらは私たちが日常的に経験する事柄なのであり、誰にも覚えがある経験なのです。

 いろんな例を私は見聞してきました。ある人の名前がどうしても出てこないとか、約束を忘れてしまったりとか、忘れ物をしてしまったりとかいったことは、自分自身においても生じますし、私の周囲の人においても生じます。日常生活でごく普通に見かけるものです。

 また、いくつか例を挙げましょう。

出勤時に阪急電車に乗ろうとしてJRのカードを改札に通してしまった人が、別の時には降りるべき駅を乗り越してしまったといった例もあります。

ある目的地へ向かっている途中で道に迷ってしまって、その辺りをグルグル回って探してみたけれど、どうしても見つからず、人に尋ねてみて、その目的地が実はつい目と鼻の先だったことが分かったというような例もあります。

 こういった例は、その人の無意識的な願望が関与しているということが理解できるのです。

最初のカードを間違えた人は、出勤することをどこかで拒む気持ちがあったと考えることができるのです。

二例目の目的地の目と鼻の先でグルグル回ったという人は、目的地へ到着することを無意識的には拒んでいたと理解できる、つまり本当は行きたくないのだなということが理解できるのです。

もちろん、意識的にそういうことをしているのではないのです。無意識的にそうしてしまっているのです。それを意識化できていれば彼らはこのようなミスはしなかったことでしょう。

繰り返しになりますが、そういう人に対して「あなたは本当はそこに行きたくなかったのです」と言ってみても、却って反感を買うだけなので、そういうことをしてしまわないように私たちは気をつけなければなりません。

むしろ、何がその人をして、そのような抵抗を引き起こしているかを理解する必要が私たちに生じるのです。「あなたは無意識的に出勤を拒否しています」と言うのではなく、「この人は出勤すること拒否したい気持ちがあるようだ。何が彼をしてそういう気持ちにさせているのだろう」と考えることの方がはるかに建設的で望ましいというわけであります。

 

(74―2)自己破壊的な傾向

 さて、失錯行為には今まで述べてきたようなものだけではなく、もっと深刻なものもあります。その無意識的な願望が自己破壊的な願望である場合には、失錯行為はとても笑って済ませられるようなものではなくなってしまうのです。

 ある高校の教師をされている男性が語ってくれました。毎年、彼は入学試験を採点するのですけれど、ほとんど満点に近い点数を獲得していながら、受験番号や名前を書き忘れる受験生が毎年何人かいると言うのであります。つまり、優秀な成績で合格できているのに、不合格になってしまう人たちがいるのだと彼は述べました。

 こういう受験生に対して、私たちは「彼らは本番で緊張していたのだろう」とか、あるいは「本番のプレッシャーに弱い人だろう」というふうに理解して済ましてしまうことが多いのではないかと思います。

確かにそれは一つの理解の仕方であり、正しい一面もあるでしょう。ただ、それは表面的な理解でしかないように私には思われるのです。というのは、彼らの人生を振り返って眺めてみることができれば、過去において、彼らが本番や強いプレッシャーの下において成功した例を見出すことができるからです。

言い換えると、彼らが本番やプレッシャーに弱いのだという理解に立てば、彼らがそのような状況下では常に失敗しているということが観察されなければならないということです。実際には常に失敗しているという人がいるわけではないし、本番やプレッシャーの影響下で上手くやったというエピソードが見つかるはずなのです。

ところで、もし、彼らが何かに対して無意識的に抵抗しているのだとしたらどうでしょう。そういう観点から理解してみることもできると思います。同様な失錯行為を以下にいくつか挙げることにします。

 

(74―3)被害のある失錯

 次にあげるのは私が昔アルバイトしていたお店での出来事であります。

その店で、新たな試みとして、新しい事業に手を伸ばそうと店長は考えました。そして、先着何名かのお客さんに景品を渡そうと店長は計画しました。

その景品を業者に発注する時、例えば三万円分の品物を取り寄せようと、店長は伝票に三万円と金額を記入したのです。しかし、後日店に届いた景品は三十万円相当の分量でした。店長は伝票に三万円と書いたつもりでしたが、「0」が一つ多かったのです。店にとっては損失でありましたが、その後、その新しい事業も頓挫してしまったのでした。

もう一つ例を挙げます。

 私が高槻で開業してまずやったことは、行きつけの店を確保して、とにかく地元のことを知ろうということでした。近くのバーをそういう店として私は選びました。

そのバーは夫婦で経営されていましたが、若い頃から必死に働いて、自分たちの店のオープンにようやくこぎつけたのだと話してくれました。

それはそれで良かったのですが、オープンしてすぐ、ご主人が病気に罹り、入院することになってしまったのでした。そのため、店はできたものの、オープンしてすぐに一時休業しなければならなくなったと言うのです。

私が通うことにした頃には順調にいっていたようですが、やはりというか、その後しばらくして、その店は閉店してしまったのでした。

 私が見聞した例はたかがしれているので、上記のような失錯行為をもっと知りたいと思われる方はヴァイツゼッカー「病因論研究」(講談社学術文庫)を読まれることをお勧めします。どうも絶版になっているようですが、古本屋さんなどで探されると見つかるかもしれません。同書には、人生の大きな転換期に病気に罹ってしまう人の例が豊富に載せられています。そして身体の病気とその人の人生とがいかに関連しているかということを示唆してくれるとても優れた一冊です。

 

(74―4)重大な局面で失錯してしまう

また、病気に罹るということではなくても、成功して、上り詰めていった人がわずかの失敗で転落してしまったというような人のことは新聞などで頻繁に見かけるものです。

それまで順調にやってきた人が、どうしてこのタイミングで、しかも普段のその人からは考えられないような失敗をしてしまうのかと、そういう人の話を見聞したことはないでしょうか。

あるいは、途中までは順調にやってきていたのに、土壇場で失敗してしまうというような人も私たちはよく見かけるのではないでしょうか。

また、例を挙げます。

この人たちはけっこう面白いなと感じていたお笑い芸人さんがいたのですが、彼らはしばしば大事な部分で噛んでしまったりするのでした。それでも、知名度は徐々に上がってきていました。中堅くらいまでは上り詰めていったのですが、彼らはやはりメジャーにはなりませんでした。紆余曲折を経た挙句、解散してしまい片方は引退したということを聞いたことがあります。

本項に挙げた人たちは、言うなれば、成功しそうな時に失錯行為をしてしまっているのですあるいは、失錯行為さえしなければ上手くいっていたであろうというような人たちであります。

彼らのことを、失敗する願望が無意識的にあるのだと言ってしまうと、それは間違っているとは思いませんが、首をかしげたくなる人も多いのではないかと思います。失敗したいと願っているような人をイメージすることが難しいからです。

むしろ、成功することが彼らの中では禁じられているというように理解する方が適切なのです。成功してしまうということに恐れがあり、それに抵抗したくなっていると考えることもできるのであります。

要は、成功するということが彼らの中ではタブーになっているということです。しかも、自分がそういうタブーを抱えてしまっているということに、彼ら自身気づいていないのです。

 もう一度、どういう局面で失錯行為が生じていたかを見てみましょう。上に挙げた人たちは、彼らの人生において重大な局面に面した時に失敗をしているのです。入学試験で、念願の自分たちの店をオープンした時に、新規事業を始める時に、肝心のオチを言って笑いを取る場面でそういうことが起きているのです。

そして、その失錯行為はその人の後々の人生に影響を及ぼしているのです。明らかにその時だけの失敗では終わっていないのです。

 成功することがその人の中でタブーになっているということに関しては、それは失錯行為の範疇から外れていきますので、「自殺と自傷」ページにおいてこのような人たちのことを再度取り上げたいと思います。興味のある方はそちらをご覧ください。

 ここで考えておきたいことは、その人の失錯行為の中に、その人の人生に対する構えが現れているということです。その構えは当人においては無意識なのです。その場合、何よりも自分自身のそのような構えに気づくということが大切なのであり、失錯行為がそれに気づくための手段であってもいいのです。そのためにも失錯行為を過小評価して見過ごさないようにするということも大事ではないかと、私は考えております。

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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