<テーマ38> 「うつ病」と休養

 

 ある人が「うつ病」という診断を貰いますと、その人はまず休養を取るように医師から勧められます。

 それは休養を取るということが大切であり、休養をしっかり取った方が予後が良いということなどが、これまでのデータからもはっきりしているからです。

 もし、あなたが「うつ病」という診断を貰ったとすれば、やはり私もあなたには少し休養して欲しいと願うのです。

 

 しかしながら、いくら休養が必要であると言っても、なかなか休養が取れないと訴える方もたくさんおられます。

 休養を取ろうと思えば取れるのに、敢えて休養しようとしないという方もお見受けします。

 このような場合、その人は休むということを知らないのだとお考えになられる方々もいらっしゃるかと思いますが、それは半分しか物事を見ていないように私は感じます。

「うつ病」と診断される人の中には、休むことなく働いてきたという人も少なくありません。休ませてもらえないという環境に置かれている人も稀ならずおられます。

 そのような人たちは休むことを知らないのだと言われれば頷けないこともないように感じますが、私はそれだけではないと考えております。

 確かに、「うつ病」と診断されても、身体が重いとかいう体験はされるにしても、身体的に、器官的に障害があるというわけではないので、身体は大丈夫なのになぜ休まないといけないのだと考えた方もおられました。

 後に述べるように、ここで言う休養とは、身体的なものではなく、むしろ精神的な休養であることなのですが、精神的に休むということに困難を感じられているようでもあるのでした。

 

 「うつ病」と診断される人たちというのは、確かに仕事熱心であり、几帳面であり、生真面目であるという人が多いように思います。

 この仕事熱心さというのは、役割との同一化によってもたらされるものです。つまり、通常の仕事熱心さとは、また少し違うのです。

 私たちは自己の上に役割というものを築いています。そこには私自身と私の役割との間には常に距離があるということなのです。

 例えば、私は職業上の役割を持って仕事をします。その役割は私の一部ではありますが、私自身ではないのです。

 「うつ病」と診断される人の抱える困難の一つが、それを自分自身にしてしまわなければならないということなのです。それは性格的にそうしてしまうという場合もあれば、外的な環境のためにそれを強いられてしまうという場合もあります。いずれにしても、役割がそのまま自分自身になってしまうという状況が見られるのです。

 そのような人が仕事を休むということは、つまり役割から距離を取らなければならないということは、自分自身を喪失してしまいそうな体験となることでしょう。

従って、彼らが休めないと訴える時、それは彼自身の存在に関わるような体験をされているのではないかと私は思うことがあります。

 

 休むということに抵抗感を覚えるという人もおられます。この抵抗感について述べておくことにします。

 「うつ病」とは、これまでできていたことが、徐々にできなくなっていく「病気」だという観点を提出しました。この徐々にできなくなっていくというのは、それを体験している当人にとってはとても恐ろしいことではないかと察します。

 「うつ病」と診断される人が抵抗したくなるのは、このできなくなっていく自分に対してではないかと、私は考えています。

 つまり、これまでできていたことができなくなっていって、これ以上できなくなることを恐れるので、少しでも残された活動性にしがみつきたくなるのではないだろうかということなのです。ここで休養を取るということは、残された活動性を放棄するかのように体験されるのかもしれません。

 この残された活動性へのしがみつきが、当人をして休養を取らせることを困難にしてしまっているのではないかと私は思うのです。

 余談ですが、「うつ病」の人の中にはタバコをよく吸われる方もよくお見受けします。

 実際、私の面接室で、面接時間の大部分をタバコを吸って過ごされた「うつ病」の人もおられました。

 それを見ていると、タバコを吸うということだけがその人に残されたわずかの活動性であるかのように思われてきて、それにしがみつきたいような気持だったのではないかと思います。

 つまり、タバコすら吸えなってしまうということが恐ろしかったのかもしれません。そして、まだタバコを吸うだけの活動性が残されているということを確認したくなっておられたのかもしれません。

 

 休養ということに話を戻します。

 この恐れというのは、つまり、今ここで休んでしまうと、今後永久に活動ができなくなってしまうのではないかという感情なのです。

 もちろん、この恐れは非現実的なものであります。でも、「うつ病」と診断された人の中にはそれを現実のこと、将来確実に起きる事柄のように恐れておられることもあるのです。

 それは非現実的な恐れであるにもかかわらず、当人にとっては、現実味を帯びて迫ってくるように体験されているのだと思います。

 その人に休養を取って欲しいと願えば、まず、何よりもこの恐れが緩和される必要があると私は考えています。そうでない限り、その人には休養なんてあり得ないということになるのではないかと思うのです。

 

 また、「うつ病」と診断されて、その人には休養が必要だということが当人にも周囲の人にも理解されていて、周囲の人たちもそれに協力してくれる場合も多いのですが、それが却ってクライアントを苦しめていたということもあり得ます。

 以下、そのような例を提示したいと思います。

 その人は女性で、専業主婦でしたが、「うつ病」と診断され、やはり、徐々にいろんな事ができなくなっていたのです。

 夫や子供たちは彼女に協力的でした。彼女が医者から休養を取るように忠告されると、彼らは彼女が落ち着いて、安心して休めるように、何かと手配したのでした。

 家族は、まず彼女が受け持っていた家事をみんなで分担するということから始めました。それは彼女が安心して休めるようにという配慮からなされたものでした。

 彼女は、夫や子供たちが家事をしている姿を、布団の中から眺めています。

 この時、最初はとても申し訳ないような気持ちで眺めていたと彼女は話してくれました。

 しかしながら、彼女の「うつ病」の「治療」が長引いていって、そのうち夫や子供たちが家事に慣れてくるようになったのでした。この時期、彼女は穏やかではいられない思いを体験しておられたようです。

 この気持ちは、いわば「もはやわたしがいなくても家族はやっていけるのだ」というものです。

 かつて自分がしていた仕事を、夫と子供たちがこなしているのです。自分を抜きにして彼らがそれをしているのを彼女は見てきているわけなのです。

 彼女は自分はもう家族には必要ではなくなったのだと感じたそうです。自分が不必要な存在になってしまったと感じるようになったのです。

 自分が不要になったという恐れ、喪失感のために、彼女は落ち着いて休んではいられなくなったのです。

 彼女は少しでも自分の価値を取り戻すべく、かつてしていたように家事をしようと起き上がるのです。でも、家族は彼女に「休め、休め」と言って、彼女を布団に押し戻すのでした。

 そうして家族が「休め」と言えば言うほど、彼女はますます自分が不要なのだという感情に襲われるようになったのでした。

 布団に押し戻されても、彼女はとても休んでいられませんでした。心の中では、不安と焦燥感に苛まれ、穏やかではいられませんでした。

 彼女の「うつ病」が長引いた背景には、こうした環境もあっただろうと私は思います。

 もちろん、彼女の家族たちは、決して悪意があったわけではないのです。彼らは、医師の「とにかく休養させるように」という忠告を、とても忠実に守っておられただけなのです。

 でも、結果的に、家族のその親切と協力が、彼女に対して裏目に出てしまったのであります。

 

 この事例の女性のような事態を避けるために、周囲の人はどのようなことを心がけなければならないのでしょうか。彼女の場合、家庭での彼女の役割、ポジションがあったわけですが、家族がそれを奪ってしまった(ように彼女には感じられている)のであります。戻ることができる以前のポジションを彼女に提示できていれば良かったかもしれません。

 また、とにかく休養を取るようにという医者の忠告を素直に実践していたのでしたが、一体何のために休養が必要かということが、家族にも彼女自身にも明確にされていなかったのだと思います。「うつ病」の人は、今は活動ができないのでありますが、休養すればいずれ活動性が回復するものであります。つまり、近い将来、その人が動けるようになるために、今、休んでおこうという観点が重要なのであります。そのような将来の視点を持っておくことも必要だったかと思います。

 

 さて、「うつ病」と休養ということに関して、休養にまつわる問題をいくつか述べてきましたが、休養ということがいかに大切であり、同時にいかに難しいかということを認識しておく必要があると、私は個人的に考えております。休養を取ることが有効であると同時に、その人が復帰する場所を用意しておくことも必要であります。そして、将来の復帰のために、今は休んでおくという視点を当事者も周囲の人も持っておくことが大切であると考えております。

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

 

 

 

 

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