<テーマ37> カウンセリングと場所

 

 これまで時間ということに関して述べてきました。本項では場所ということに話題を移したいと思います。

 場所というのは、カウンセリングを実施する場所のことでありまして、要するに面接室のことであります。私の場合、クライアントの方から私の面接室まで足を運んでもらうことになります。

 これも時間の所で述べましたが、同じように「守り」という意味が場所に関してもあるのであります。時間が「守り」となるように、空間もまたクライアントにとって「守り」となるものであります。

 そして、面接室に来てもらうということは、クライアントに彼の日常の生活場面から離れてもらうことを意味しています。生活空間から離れたところで、クライアントは日常を振り返ることになるのであります。

 クライアントによっては、面接場面に日常のものを持ち込もうとする人もあります。例えば親に同席してもらう(この場合、たいていは親の方がついて来るのですが)人もあれば、家族全員で面接室に入ろうとする人たちもあります。以前は、それでもやっていたのですが、それでは私はうまく対応できないということに気づきました。今では、クライアントと一対一で会うことにしています。

 

 私がクライアントの生活空間に入り込みたくないのと同様、クライアントにも私の生活空間に入り込んできて欲しくありません。それはお互いに守る必要があると考えております。従って、臨床家によっては、自宅の一室を面接室にされている方もおられますが、私はそれをしたくないのであります。クライアントの自宅を訪問するというカウンセラーもありますが、それも同じように、私はしたくないのであります。

 面接室から出れば、クライアントはクライアントでいる必要はありません。同じように、私も面接室の外ではカウンセラーになるつもりはありません。恐らく、私には「プロ意識」というものが全く欠如しているのでしょう。面接室にいて、尚且つ、クライアントと対面している時だけ、私はカウンセラーであり、それ以外の場所においては、私はただの一個人に戻りたいのであります。

 余談ですが、私の友人たちで、私がカウンセラーであるということを知っている人はほとんどいません。昔は、飲み友達なんかには正直に言っていたのですが、私がカウンセラーだと知ると、途端に彼らは「相談事」を持ちかけてくるのであります。「相談事」と言っても、大抵は「あいつはどういう性格タイプなんだ」とか「うちの親戚はこれこれこんな状態で精神病だろうか」といった事柄ばかりであります。見知らぬ人のことを「相談」されるのにうんざりして、私は自分がカウンセラーであることを一切、友人知人には言わないことにしているのであります。カウンセリングを受けるつもりはないけど、身近にカウンセラーがいたら、それは利用しようという人たちに私は嫌気がさしたのでした。そういう経験があるために、私はカウンセリングを実施する場所というものを強く意識するようになったのであります。

 

 また、場所に関して、私にはいくつかのエピソードがあります。

 私が二十代前半の頃、とある喫茶店でコーヒーを飲んでいますと、隣の席に座った男女がありました。二人とも年齢は若かった方ですが、男性の方が女性よりもやや年上のようでした。聞くともなしに彼らの会話を聞いていると、どうもカウンセリングのようなことをしているようだと分かったのであります。女性の方がクライアントで、男性がカウンセラーでした。周囲にはお客さんが大勢いて、賑やかでした。私はこんな場所で内面のことを語らされる女性が気の毒に思いました。誰に聞かれているかも分からない(実際、私はしっかり聞いていました)状況で、彼女は自身のことを話さなければならなかったのであります。

 また、同じく私が二十代前半で、大学生だった頃に、自己啓発のことをしている人と知り合いました。その人はカウンセラーではありませんでしたが、自己啓発の一環としてカウンセリング業務もしているから、よかったら受けてみませんかと私は勧められたのであります。当時、私はすでにクライアントを経験していたし、カウンセリングや心理学の勉強をしていましたので、興味本位で受けてみることにしました。受けてみてびっくりしたのは、それはビルの一室で、会議室のような部屋でした。そこに机と椅子をずらりと並べて、すでに何組ものカウンセラー―クライアントコンビが一斉にカウンセリングをしていたのです。椅子を勧められて、私が腰かけていると、二十代後半くらいの若い男性が座りました。この人が私のカウンセラーだということなのです。彼は当然のことながら、私に話をさせようとします。しかし、そんな騒がしい場所で、私は気持ちも落ち着かず、話す気にはなれませんでした。彼の言葉もほとんど聞こえない状態でした。聞こえないというのは、騒々しかったからではなくて、私が周囲のクライアントたちに気を取られていたからであります。隣ではどんなことを話しているのだろうとか、隅っこのテーブルではどんな話し合いがなされているのだろうかとかいうことが気になって仕方がなかったのです。奥の方で涙ながらに語っているクライアントがいたりすると、思わず目を奪われて、一体何が起きているのだろうと詮索してしまう始末でした。私にとって、このカウンセリングは意味がありませんでした。

 同業のカウンセラーで訪問カウンセリングをしている方がおります。その人の話を聞いていて、どうしてクライアントに面接室まで来てもらわないのですかと尋ねたことがあります。クライアントがひきこもっているから無理だというのがその返事でした。そこでその人はひきこもっているクライアントの部屋で面接しているのだそうです。ひきこもりの人にとって、自分の部屋がどういう場所であるかということをもう少し考えた方がいいのではないかと、私はその同業者に対して思いました。

 また、高槻で開業して駆け出しだった頃、とある内科医から「カウンセリングを引き受けてほしい」と依頼されました。内科疾患と「心の病」とは密接な関係がありまして、だから「心療内科」なる科が登場しているわけであります。この内科医は、内科疾患だけでなく、患者の心にもケアの手を差し伸べたいと考えられていたのだろうと思います。私は彼のクリニックを訪れ、ここでカウンセリングをしてほしいという部屋に案内されました。私は一目見て、ここではカウンセリングができないと感じました。二階建てのクリニックで、一回は診察や治療の場に充てられていました。二階は広いスペースになっていて、あまりにも広すぎるのであります。そこに机と椅子を置いてカウンセリングをしてほしいとその内科医は言っているわけであります。しかも、二階とは言え、一階とは大した仕切りもなく、吹き抜け状態であり、二階部分も仕切りがないのであります。よく、空間を広く見せるために、壁や仕切りを極力排除した部屋というものがありますが、それをイメージしていただければ理解していただけるかと思います。

 

 私の考えるところでは、カウンセリングを実施する場所というのは、とても大事なことであり、ナイーブな問題を孕んでいるものであります。臨床家は自分(たち)の面接室を持つべきだと思うのであります。それがどんな部屋であっても構わないのです。私の面接室のように乱雑であっても構わないのであります。クライアントが「守り」を経験できればそれでいいのであります。

 そして、場所に関しては、臨床家はもっと注意を払う必要があると、私はこれまでの経験から考えるのであります。上記の四例はすべて、場所に関して無頓着すぎるのであります。私たちは、場所を通して、クライアントを「守って」いることになるのでありまして、そのことはもう少し考えていなければならないことだと、私は個人的に考えております。

 クライアントにとって、カウンセリングが個別化されるためには、臨床家はクライアントと会う場所を確保しなければならないし、そこにおいてのみ、カウンセリング関係を築かなければならないと私は考えております。

 

 最後に、本項の要点を繰り返しておきます。

 カウンセリングを実施する場所もまた、クライアントに「守り」を提供するものであること。個人的にはお互いの生活空間に入り込まないことを心がけたいこと。カウンセリングはそれを実施する場所においてのみ行われることが望ましいということ。以上が、場所に関する私の考えであります。

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

 

 

 

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