<テーマ32>「うつ」と気分・感情

 

 「うつ病」というのは一つの「病気」であります。「病気」であるから、そこには何かしらの損なわれた部分があるはずであります。

 では、「うつ病」においては、一体その人の何が損なわれてしまうのかということを、私なりの見解も交えて述べていきたいと思います。
 最初に断っておかなければならないことは、「うつ病」という人がいるのではなく、「うつ病」と診断された人がいるというであります。これは「うつ病」以外の「心の病」についても同じことが言えるのでありますが、この点の区別をしておくことは重要なことであると思います。私が「うつ病の人」と記述する場合、それは「うつ病と診断された人」のことを指すものだと理解していただきたいのであります。それがどのような「病気」であれ、その「病気」はその人の一部分であり、その人の全体を指すものではないということを特に強調しておきたいと思います。

 話を戻しまして、「うつ病」と診断された人は、そのように診断されない人と比べて、何が損なわれてしまうのでしょうか。損なわれた部分があるからこそ、それが「病気」として認識されているはずであります。
 まず、「うつ病」というのは、気分の障害であると考えられています。それはその通りだと私も思います。でも、決して気分だけが損なわれているのではないと思います。私の見解では、他に大きく損なわれているのは、その人の行動であり、アイデンティティであり、感情であります。本項ではその中の感情ということに 焦点を当てていくことにします。
 その前に、気分と感情とは何が違うのかということについて私の見解を述べておきます。これを写真で例えれば、感情とは色彩のことであり、気分とはトーンのことであるというように私は捉えております。色彩とは色のことでありまして、それは「赤」もあれば「青」もありますし、同じ「赤」であっても「濃い赤」もあれば「淡い赤」もあるわけであります。トーンというのは、その写真全体の明暗や濃淡のことであります。トーンは、個々の色彩に関係なく、その写真全体を支配するものであります。感情は表現することもできます(つまり、それは「赤色だ」とか「青みがかかっている」 とかいうように表現できる)が、気分はそのようには表現することができないものであります。気分を表現しようとすると、それは雰囲気や感じとしてしか表現 できない(「暗い」とか「寂しい感じ」とかいうような)ものではないかと思います。
 私はそのような見解を持っておりますが、取り敢えずここでは気分と感情というものは、別個のものであるという点を押さえておくことにします。

 一般に「うつ病」と言う時、それは気分の方の障害であるとみなされるのであります。ですが、私は「うつ病」においては気分と同じように感情も損なわれていると捉えております。実際、そうなのであります。この点が「うつ症状」「うつ状態」の人たちと大きく異なるのではないかと私は捉えております。「うつ症状」 「うつ状態」にある人たちは、気分は確かに憂うつで沈み込んでいるのですが、感情の方はしっかり生きており、感情表現ができ、私たちはその表現された感情に対して共感したり、理解することがまだできるのであります。
 「うつ病」においては感情の方も大きく損なわれていて、しばしばそれは失われているのです。

 そんなはずはないと言う方もおられるかもしれません。「うつ病」と診断された人が「悲しい」と頻繁に口にする時、その人は「悲しい」という感情を体験しているのではないかと反論される方もおられることでしょう。確かにそれは感情ではあります。ただし、「うつ病の人」が「悲しい」という時、何に対して「悲しんで」いるのでしょうか。ここに普通、私たちが「悲しい」という言葉で表現する体験と「うつ病」と診断された人が「悲しい」と言うときの体験にズレがあるのです。「うつ病」と診断された人が「悲しい」と述べる時、しばしば悲しむべき対象を伴っていなかったり、悲しみをもたらすような体験をはっきりとは有していないということが多いのであります。
 何かはっきりした対象がないにもかかわらず、「うつ病の人」は「悲しい」と表現するわけであります。私もやってしまったことがあるのですが、それに対して「一体、何が悲しいのですか?」などと問うことは「うつ病の人」にはまったく意味がないわけなのであります。

 前述のように、それは悲しいことがあって、あるいは悲しいことを思い出して、「悲しい」と言っているわけではないからであります。悲しむべき対象が存在しないのに、その対象は何かと問われてしまうことは、「うつ病の人」をけっこう追い詰めるのではないかと思います。私自身も反省するところが多いのですが、「うつ病の人」の周囲の人もこの点は注意する必要があると私は考えております。
 「うつ病の人」が口にする「悲しい」という言葉に関しては、項を改めて考えていくことにします。ここではとにかく、「うつ病」というものが、気分だけでなく、感情にも大きく影響することを理解していただければと思います。感情を喪失していたりすることもよく見られることでありますが、仮に喪失していなくても、「うつ病の人」の感情体験はそうでない人の感情体験とは異なっているということを知っておくことが大切かと思います。

 感情が喪失されているがために、「うつ病」と診断された人は他者に共感したり、感情移入したり、何かに感動したりということが極端になくなっていくのであります。このこともまた「うつ病」と診断された人には特徴的なことではないかと私は捉えております。同じように、この部分は「うつ症状」「うつ状態」の人ではそれほど損なわれていないのであります。
 ここで私は 一人の「うつ病」と診断された女性を思い出します。この人は作家を志願していて、応募した自作の小説が入選したこともあるくらいの人でした。それが「うつ 病」になってからは、作品が書けなくなってしまったのであります。それでも何とかして書こうとされていました。この気持はとても大事だと思ったので、私は出来上がった作品を読ませて欲しいと頼みました。ある時、彼女は新作の短編小説を持ってきてくれました。
 彼女は実力のある人なので、文章もしっかりしているし、ストーリーの組み立て方も上手だなと作品を読んで感じました。誤字、脱字が少なからず見られるのは、注意が集中できない状態で執筆したのだから仕方がないことではありました。それでも、なかなか読みごたえのある作品ではありました。
 ただ、どうしても主人公に共感することが今一つできないでいるのでした。何度読み返してみても、私のその印象は変わりませんでした。小説の主人公は激しい怒りを抱えながら生きており、その怒りを抑圧しようと苦闘していました。物語の最後でその怒りは激しく噴き出してしまうのです。物語は上手に組み立てられているのに、私はどうしてもこの主人公に感情移入することも、同一視することもできないまま読み終わってしまったのでした。主人公の怒りは私に触れるものがなく、主人公が怒りを噴き出して爆発してしまっても、どこか他人事のようで、身近に感じられないのでした。

 もう少し細かく述べると、私が読んだ時、主人公は作者の計算とおりに動いている人形といったイメージがあって、生きた人間という感じがしなかったのであります。おそらく、作者である彼女自身も、この主人公に共感していくことが困難だったのではないかと思います。

 また、感情が喪失ないしは損なわれているために、当然嬉しいとか楽しいといった感情が見られなくなるのはもちろんのこと、好きとか嫌いとか、美味しいとか心地よいといったような感情体験もしなくなっていくのであります。「うつ病」とはそういうものでもあるのです。

 ただ、気分が落ち込み、塞ぎこむというだけのものではないのであります。そして活き活きした感情が損なわれているがために、生命感がどうしても乏しくなっ てしまうのであります。

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

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