<テーマ55> 臨床家への批判(3)~「クライアントのせいにしている」

 

(55―1)「クライアントのせいにしている」とはどういう類の批判であるか

 掲示板を見ていって、これもよく目にした文言なのですが、臨床家との間で「書き手」に何かが生じたときに、「臨床家はそれをクライアントのせいにしている」という批判であります。

 この批判は、「それは本当は臨床家が悪いはずなのに、私のせいにしている、私の問題に還元されてしまった」という意味合いを含んでいるように、私は受け取りました。「本当は臨床家が悪いのだ」ということを暗に秘めているように聞こえるのです。

 さらに、これは「それは本当は私の問題ではなく、臨床家の問題なのだ」という主張につながっていくかのように私には思われるのです。臨床家の方に問題があるという批判になるということです。

 確かに、臨床家も一人の人間であり、彼なりの苦悩や問題を抱えていることでしょう。誰に対しても、常に成功するとは限らず、間違ったことや失敗をしてしまうこともあるでしょう。

 私などはいくつも覚えがあるくらいです。私も多くの問題を抱え、それらに取り組みながら日々を生きる一人の人間にしか過ぎません。私は私の抱えているものや背負っているものに取り組む。同じように「書き手」も自分の抱えているものに取り組まれればよろしかろうと私は思うのです。そこには本来、何一つ対立するものなどないのです。

 しかし、そうは言うものの、私はここでは、やはり、クライアントの、そして「書き手」の「問題」の方を取り上げることになるでしょう。私は私で自己を内省して生きることにしておりますが、この場においてはそれを取上げないということを、明言しておきます。従って、「そういうお前はどないやねん」という類の反論は受け付けません。

 

(55―2)迫害を体験している可能性

 さて、「臨床家はクライアントのせいにしている」と「書き手」が体験する時、一体、双方の間でどのようなことが生じているのでしょうか。もちろん、これに関する手掛かりは皆無です。「書き手」は自分自身のことを書き込まないからです。

 だから推測を重ねていくしかないのですが、私が一番に思いつくのは、「書き手」が臨床家の言葉に対して、それを迫害的に体験しているということでした。この「書き手」は迫害される立場に自己を同一視してしまう傾向があるのかもしれません。

 言い換えれば、臨床家の言葉、解釈、介入を、いわば、一種の攻撃として体験されているのではないかということです。そして、「書き手」にとって敏感に反応してしまう領域に関しての事柄が、その時には話し合われていたのではないかと、私は察します。

 個々の面接状況が分からないので、一概にどういうことが生じたかということを述べることができないのです。でも、一つの可能性として、そういう場面だったということも考えられるのです。

 

(55―3)つけるべき区別

 既に二項にわたって、私が「臨床家への批判」と題して述べてきた事柄があります。もし、「書き手」がそれを読めば、やはり同じように私もまた「この人はクライアントのせいにしている」と映っているのかもしれません。

 だから、ここにはっきり述べておくことが必要だと感じています。

 私はいくつかの掲示板に目を通していって、そこにある私に対しての書き込みや他の臨床家に対しての批判の言葉を読んでいき、それについて私が考えていることを述べているに過ぎないのです。

 もう少し詳しく言うと、私が遭遇した現象を記述して、それに対して私が感じたことや考えたこと、推察したことを述べており、それが「書き手」にとっての理解の助けになればいいと願っているということです。従って、ここには特定の誰かを攻撃しようとか、責任転換しようという意図はまったくないのです。そういう意図をもって成された文章はないのです。この区別はつける必要があるのです。臨床家は何かを説明しているのか、現象を記述しているのか、自分の考えを述べているだけなのか、それとも迫害する意図で言っているのか、と言った区別です。もし、臨床家が責任転嫁して、「書き手」を迫害しているなら、誰が見てもそうとわかる証拠があるはずです。

 ここでも、もし、あなたが私の書いた文章を読んで、「自分が攻撃されている」とかいう体験をされているとすれば、私の文章の拙さのせいもあるでしょうが、それは私の意図しているところのものではないということを再確認していただきたいのです。

 私も記述には気を付けるようにしています。でも、それと同じくらい、なぜ私の言葉、文章をそこまで「迫害的」に受け取らなければならないのかということを考えてみることも重要なことだと私は思います。

 言い換えれば、私の問題は私に還元して私が取り組む、あなたの問題はあなたに在るものとしてあなたが取り組めばいいということです。そこにはお互いの間で対立し合うものなど存在しないし、お互いに批判し合う必要もないのです。

 

(55―4)私たちは現実を多少なりとも歪める

 ここで一つだけ注意を促しておきたいのです。

 それは、私たちは現実を現実のままには見ていないということです。私たちは誰もが現実をそのまま見ているのではなく、各々が自分の目を通して見ているのです。いわば、その人の持つフィルターを通して、現実を見ているということです。ですから、そこには多かれ少なかれ現実を歪曲してしまうという現象が生じるのです。

「心の病」という現象の一つの特徴として、この歪曲が非常に大きくなるということが知られています。

 現実に対しての歪曲が大きくなるということは、その人の中では現実よりも、「妄想」や「思い込み」の占める度合いが大きくなるということです。例えば、自分に対して悪意のない人の中に悪意を見出したり、攻撃的な意味合いのない他者の言動に攻撃を体験してしまったり、そもそも暴力のなかった関係や場面に暴力を持ち込んだりしてしまうのです。

 こういう現象は人間にとってとても不幸なことであると私は考えます。そして、カウンセリングのような作業を通してクライアントが達成していく洞察の多くは、周囲の人は自分に対してそれほど敵意を向けていたのではなかったという事実であったりもするのです。

 従って、「書き手」が「臨床家はクライアントのせいにしている」と書き込む時、一つの可能性として、「書き手」が本来そこになかった「悪」を見てしまっているのかもしれないのです。もちろん、一つの可能性ということを特に強調しておきます。私はその臨床家の肩を持っているわけでもなく、「書き手」が間違っているということを言っているのではないということ、そこで生じていることの可能性を述べているということを併せて述べておきます。

 

(注)本項長文につき二回に分載します。

 

寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

PAGE TOP