<テーマ54> 臨床家への批判(2)~「臨床家はプライドが高い」
(54―1)はじめに
次に、掲示板でよく書き込まれていた文句は、「臨床家はプライドが高い」というものでした。
「臨床家」とここでは書いておりますが、実際の書き込みでは、どこかの病院の医師であるとか、特定のカウンセラーが名指しされていたりとかしています。
いずれにしても、「書き手」は、そういう臨床家が「プライドが高い」と書いているのです。正確に述べるなら、「臨床家はプライドが高い」と言って、その臨床家を批判、または酷評しているのです。
本項では、この「臨床家はプライドが高い」という表現について考察してみます・
(54―2)プライドの高さは批判の対象にはならない
「相手がプライドが高い」という非難の言葉に出会う度に、私は微笑まずにはいられないのです。と言うのは、ずっと昔のことですが、私自身、ある人を批判する時に同じような言葉を用いた経験があるからです。だから、このような言葉を使用してしまう時の気持ちとか、状況、状態といったものが、何となく分かるような気がするのです。
でも、話をそちらに進める前に、まずこの非難の言葉を、そのまま言葉通りに受け取ってみようと思います。
つまり、その臨床家が、「書き手」の言う通りに、実際にプライドが高い人だという状況を考えてみます。
私の見解では、ある人のプライドが高いからと言って、そのことを非難の対象にすることはできないということです。多くは見当違いの非難であると私は理解しています。
なぜ見当違いであるのかを述べましょう。非難する人は、相手のその「プライドの高さ」から何かを蒙ったはずなのです。その人が非難したいのは、相手に現れた行為にあるはずなのです。その行為によって、その人は傷ついたりとか、被害を被ったと体験されているはずなのです。その人はそれに対して反応していることが多いからです。
もしそのような事情があるのであれば、その人が相手の「プライドが高い」ということを攻撃するのは的外れであるということになるのです。
ところで、精神科医にしろ、カウンセラーにしろ、あるいは福祉職の人にしろ、人を援助する仕事に従事している人は、プライドが高いくらいでちょうどいいのです。もちろん、それが「健全な自己愛から発するプライド」であればという条件が付きますが。
なぜ、プライドが高いくらいが望ましいと言うのかと言いますと、クライアントは、臨床家のそういう姿から多くを学ぶことになるからです。
(54―3)相手の「高い」は自分の「低い」
「プライドが高い」と言って、相手を批判する時、そこには二つの可能性があると、私は考えています。
その一つをまず述べます。
まず、述べなければならないことは、「あいつはプライドが高い」という批判の言葉は、精神的に未熟な人が、より成熟している人を批判する時の常套句であるということです。私は自分の体験からもそう言えるのです。
私が誰かを「プライドが高い」と言って批判するとしましょう。その時、相手に「プライドの高い」何かを見ていると同時に、その一方で、私の方に「低い何か」が感じ取られているものです。
つまり、相手の「高い」ものを見てしまうということは、自分の中にあるより「低い」ものを見せつけられてしまうような体験となるのです。
ところが、人はこういうことをしてしまいがちなのですが、そういう時に、自分の方が「低い」と言って嘆いたりするのではなく、相手の方が「高い」と言って、相手を責めるということをしてしまうのです。
「高い」相手の方が悪いのだと考えることで、自分の「低い」ものは見なくても済むのです。それだけ、その人にとって、自分の中の「低い」ものは受け入れ難くなっているのでしょう。
(54―4)他人は自分と同じ水準で接しない
私たちは、誰かと話し合ったりする場面において、相手は自分と同じ水準で物を見ているとは限らないという可能性を肝に銘じておくことは必要なことだと思います。その観点は、人間関係において、とても有益な観点であります。
人間関係のズレとは、相手が自分と同じものを、同じ水準で、同じように見ているという誤解から生まれることが多いものです。自他の区別がつくほど、こういう誤解は減少していくものなのです。
対峙している相手が自分と同じ水準ではないということは、相手の方が高い水準にいることもあれば、低い水準から物を言っていることもあり得るわけです。
相手と融合的な関係を築いてしまう人は、このような差を見せつけられてしまうことは、とても苦しい体験となるのではないかと思います。でも、何らかの「高低差」は、人間関係には必ず付随してくるものです。私たちはそれを受け入れる必要もあるのです。
後で私の体験例に基づいて、このことは再度取り上げることにします。
(54―5)適切な言葉で表現できないような体験
話を進める前に、もう一つの可能性について書いておきましょう。
もう一つの可能性は、先ほどの物よりはるかに漠然としたものです。それは次のような可能性です。
「臨床家はプライドが高い」と言って「書き手」が批判する時、そういう言葉でしか表現できないような何かを「書き手」が体験しているという可能性です。
言い換えると、「書き手」は何かを体験したのだけれど、それを言葉にしようと思えば、「臨床家はプライドが高い」という表現になってしまうということです。
その場合、「書き手」は自分の体験している事柄をうまく掴むことができていなかったのだと思います。自分の体験がどういうものであるかを把握できなくて、そのためにそれを言葉で表現しようと思うとうまくいかないし、敢えて言葉で表現しようと思えば、そのような言い回しになってしまうということです。
従って、こちらの可能性について考察していくためには、「書き手」が「臨床家はプライドが高い」と感じた時、どういうことがその場で起きており、「書き手」がどんな種類の体験をしたのかということを知らなければならないのです。そうでなければ、私には何一つ言えないのです。
「書き手」がそういうこともきちんと書き込んでくれれば、もう少し、考察することもできたのですが、生憎、そういうことを「書き手」はしません。そこで、私は私自身の体験を手掛かりにして、これを考察していくことにします。
(54―6)例を通して考察してみる
私が子供だった頃、当時の私から見て、とても「プライドの高い」大人がいました。その人との関係で、私は何度も悔しい思いを体験したものです。
どういうことを私が体験したかと言いますと、一言で言えば、私の言うことがこの人には通じないということでした。私が何を言っても、すべて跳ね返されるような思いを私は繰り返し体験したものです。
それも、何と言うのか、上から目線で跳ね返されるような感じを受けていたので、当時の私はその人のことを「プライドが高い」奴だと批判していたように思います。
だから、私の場合はですが、「プライドが高い」と言って相手を批判することになった体験とは、相手に話が通じない、自分のことが分かって貰えない、何を言っても言い返されてしまうといった体験と結びついているのです。
私は「この分からず屋め!」と思い、何度も悔しい思いをしたものでした。もしかすると、「書き手」の中にもこのような体験を臨床家との間でしてしまった人があるのかもしれません。
大人になって分かってきたことは、単に彼は私と同じ精神水準で物を言っていたのではないということでした。このことが見えてくると、私は彼がむしろ大人として立派な態度をしていたのかもしれないと思うようになったのです。
私がそのことが理解できるまで随分時間がかかったものです。当時、私はこの大人を私の延長上の存在として体験していたのでした。だから、彼が私と同じでないということが、私には耐えられなかったのです。
このことをもっと単純な例で喩えてみましょう。もし、ある子供が大人にケンカをふっかけてきて、大人がその子供と同じレベルでケンカするとすれば、その大人はその子供と同じ水準で対応しているということになります。
もしかすると、子供の側からすれば、そういう対応をしてくれる大人の方が自分に応えてくれていると体験するかもしれません。でも、現在の私の考えでは、それでは子供が成長できないだろうということです。
大人はやはり大人の水準で応じるでしょう。そこにおいては常に子供の側との間に、溝が生み出されることになるでしょう。その溝を指して、子供は「相手はプライドが高い」という言葉で表現してしまうのかもしれません。
こういう溝を体験することは、その子供には辛いことかもしれません。なぜなら、この溝は、相手が自分とは異なるということを、決定的にその子供に見せつけるからです。相手は自分と同じ水準や目線で応じているのではないということを、嫌というほど思い知らされるのです。言い換えれば、相手が自分とは違う他人であるということを、体験してしまうのです。
こういう体験をしてしまう時、子供は相当な傷つきを体験するものです。相手が自分の思っていた人とは違っていたということを知ることになるからです。
でも、そのような体験をすることは、その子供が自他の区別をつけていく上では欠かせない体験であり、時に必要な傷つきともなるものです。
「書き手」は掲示板にそれ以上のことを書かないので、何も確かなことは言えないのですが、恐らく、臨床家との間でそのような体験をされた「書き手」もおられるのではないかと、私は推測します。もし、そうであるとすれば、「書き手」にとっては苦しい体験をしたかもしれないけれど、一方では貴重な何かを体験していた可能性もあり得るのです。もちろん、それは貴重な体験を含んでいたということは、ずっと後になってから理解できるようになる場合もあり得ますが、一生理解できない場合もあり得ることでしょう。
(54―7)「目線」と「精神水準」
カウンセラーはクライアントの目線で物事を見ようとします。私もそうするように努めています。
しかしながら、それはクライアントと同じ精神水準になるということを意味するのではないのです。ですから、クライアントはどこかで、自分とは違うものを臨床家の中に見出してしまうかもしれません。
私はそれがまったく悪いことであるとは考えません。それを契機に、クライアントに自他の区別がついてくることが多いからです。
自他の区別がつくということは、そのクライアントが個を確立していくこと、つまり自分自身になっていくことに踏み出し始めることにつながるのです。
つまり、「臨床家はプライドが高い」と言って批判することよりも、自分と臨床家とは違った人間であるということを知っていき、その事実を受け入れていくことの方が肝心であると私は考えるのです。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)