<テーマ52>掲示板の書き込みと「書き手」(2)

 

(52―1)多くの人が書き込みを経験している

 私に対しての書き込みを読んでいくうちに、私の周りの人たちも私と同じような書き込みを経験されているだろうかと、ふと、思い至りました

 なぜ、そう思ったかということを述べておきます。私は私に対する書き込みを読んでいて、なぜか周囲の人に申し訳ないような気分を味わいました。それはとても惨めな気分です。そう思うと、私の周囲の人たち、仲良くしてくれる友達や、好きになってくれている女性や、あるいは大切な身内の人たちが、こういう被害に遭っているとしたら、なんだかとても耐えられないような思いに駆られたのです。

 変な話に聞こえるかもしれませんが、こういう悲惨な思いをするのは私だけで十分だと思い、何というのか、自分がこういう体験をしたから、周りの人たちを守ろうという気持ちになったのです。

 そして、知り合いなどに会った時に、私はそれとなく確認してみたのです。

 すると、尋ねた人の多くがそういう書き込みを経験されていたのです。それは、私と同じように個人的に書き込まれていたという例もあれば、その人が経営しいる店や所属してる企業や団体が書き込まれていたという例も含まれています。

 いずれにしろ、私が予想していた以上に、そういう経験をされている人がいたということです。私にとっては驚愕でした。

 私の知り合いには個人事業主が多くて、その人たちに尋ねたわけなのです。そのこともこういう結果に関係しているかもしれません。それでも、多くの人が書き込まれているという事実に変わりはありません。

 私の女性友達も、彼女が以前に勤めていた勤務先で、そういう経験をしていると話してくれました。もちろん、彼女個人が攻撃されたのではなく、その企業が書き込まれたということなので、少し安心しました。

 私の行きつけの飲食店のマスターも、彼の以前の店でそういう書き込みを体験したと言います。彼は、非常に立腹して、堂々と面と向かって言えばいいのにと、思い出すと今でも不快感に襲われるようでした。

 驚いたことに、レストランを経営していた私の兄までが、そういう書き込みを経験していたというのです。私は知らなかったのですが、母の話によると、兄が相当落ち込んだということです。

 

(52―2)書き込まれた人は何と述べているか

 書き込まれた人たちがどのような体験をして、どのようなことを述べているかを次にみてみましょう。

 私の女性友達は「わたしもそうやって書き込まれたけれど、根も葉もないことが書いてあった」と述べました。私に対しての、彼女なりの慰めや励ましだったかもしれません。

 他の人たちは、「ああいうのは無視するにかぎりますよ」とか「気にしない方がいいですよ」と言ってくれます。それが正しいのでしょう。でも、私はそこに人間の抱える憎悪が渦巻いているからこそ、無視する気にもなれないのです。

 忠告の中で、もっとも有益だったのは、「ああいうものは真剣に読んではダメだすよ」というものでした。私のアルバイト先の友人が言ってくれた言葉でした。気になったことには熱中してしまう私の傾向を知っているから、彼はそのように言ってくれたのかもしれません。

 この彼には申し訳ないのですが、私は彼の忠告を無視して、いろんな掲示板を真剣に読んだのです。幾分、私もそれで感染されたようです。

 いずれにしても、そのように言ってくれる友人たちの存在はありがたいものだと思いました。

 

(52―3)書き込まれた人は「書き手」が誰であるか分かっている

 書き込みを経験した人たちに対して、実はもう一つ、私は質問していることがあります。それは「それを書き込んだのが誰であるか、分かっているのではないですか」という質問です。

 私が質問した人の大半は、「分かっている」とか「心当たりがある」と答えたのです。

 誰が書き込んだのか特定できておりながら、確たる証拠に欠けているために、推測の域を出ないのであり、中にはそれがもどかしく感じられている人もありました。書いた相手は分かっているのに、こちらは手出しできないということで苦い思いをされた人もありました。

 私に対して書き込んだ「書き手」も、誰がそれを書いたのか、私はある程度特定できているのです。でも、確かな証拠がないために、いくら特定できていると言っても、推測の域に留まってしまうのです。

 一つ種を明かしましょう。私が「書き手」を特定するのに、五つほどの着眼点がありまして、それを順番にやっていけば、自ずと特定できるのです。

 例えば、その一つとして、書き込みの内容を読んで、その書き込みを分類するのです。それが私に対しての攻撃か、書き手の怒りの表現なのか、嘆きなのか、後悔なのか、私に対しての「価値下げ」であるのかといったように分類してみるのです。

 仮に、それが私に対しての「価値下げ」だったとします。そして、どういう人がそういう「価値下げ」を特にしやすいかというようなことは、臨床的なデータとして知られていますので、そういうデータを参照して、この書き手はそのような病理を抱えている人である可能性が高いというように限定できるのです。

 これだけでもずいぶん限定できるのです。そして、あと残りの四つの項目も順次当てはめてみれば、候補者がさらに消去されていき、該当する人物がかなり特定されていくのです。

 そんなことができるのかと疑問に思われる方のために、次の例を考えてみて下さい。ある「書き手」(書き手Aとしましょう)は、「あいつはサイテーだ、死ね」などと書き込みます。一方、書き手Bは「あいつは糞野郎だ、腐って死んでしまえ」と書き込んでいます。この書き込み内容から、AとBはまったく違ったタイプの人間像が浮かんでくるのです。あまりにも明白なので説明しなくてもいいくらいです。

 でも、必要な人のために説明しておきましょう。まず、Aはより幼児性を強く残している人物である可能性が高いと言えます。「サイテー」とか「死ね」とかいう罵り文句は、子供に一般的に見られるものです。子供はそういう風にしか表現できないからなのです。一方、Bの方は「糞」とか「腐って」とかいう言葉から、よりネクロフィラスな傾向が強い人物だという可能性が高くなるのです。このような人は「糞」とか「腐敗」に関する言葉を、そういう傾向を有しない人よりも頻繁に用いるものなのです。そういう言葉に親和性があると言ってもいいかもしれません。

 そういう所から、AとBはまるで違った傾向を有する人物像が浮かんでくるのです。

 それでも、先述しているように、厳然たる証拠がないがために、限りなく特定できたとしても、それは推測の域、可能性の域を出ないのです。

 

(52―4)「書き手」は恨みを買う

 ここで大事なことは、書き込まれた側からすれば、誰がそれを書き込んだのかがよく分かっているという点です。

「書き手」はもちろん匿名で書いているのですが、それにも関わらず、書き込まれた側には誰がそれを書いたのか自明である、いわば筒抜けなのです。

「書き手」がそういうところまで気にしているかどうか私にはわかりません。匿名で書けば身を隠せると安易に思っているのかもしれません。それは、黙っていれば分からないという、けっこう幼児的な思考であるように私は考えています

 しかも、他の友人たちもそうだったのですが、書き込まれた側は「書き手」のことをよく覚えているものです。そして、「書き手」はしばしば「書き込まれ手」から恨まれるのです。

 実際、「書き手」はそういう形で恨みを買うものではないかという印象を私は受けるのです。ある飲食店のマスターの述べる「書き手」はまさにそういう人でした。その「書き手」は他に行くことのできる店がなかったのです。どの店でも嫌がられていたのです。恐らく、そういう書き込みをしていることがどの店の人たちにも分かっていたからだと、私は想像するのです。

 匿名で書けばバレないと信じているのか、あるいは、自分だけは何を言っても許されると思い込んでいるのか、私には分かりません。しかし、相手の恨みを一身に引き受ける覚悟で書き込んでいるという「書き手」は、まず存在しないのではないかという印象を私は受けます。

 それだけの覚悟をしているのなら、匿名で書くことはないでしょう。堂々と本名を公表することでしょう。

 

(52―5)恨み合う関係の始まり

 確かに、掲示板なるものは、誰が何を書いてもいいという、そういうようなルールがあるようです。

 もし、「書き手」が自分だけは恨まれないとか、人を攻撃しても構わないとか、攻撃しても自分だけは許されるとか、そういう観念を抱いているとすれば、私はその人たちはかなり「歪んだ自己愛」を有していると思うのです。

 一応、そういう内容の書き込みを禁止している掲示板もあるようですが、もともとルールを守ることができるような人が書いているわけでもないでしょうから、そういうルールは有って無いようなものです。

「書き手」が書き込むのを禁じる法律などもありません。だから、私は「書き手」に書いてはいけないと言う筋合いがないのです。

「書き手」には書き込む自由と権利がありますし、それは認められなければならないでしょう。ちょうど、私が自分のサイトで、自分の考えや体験を自由に制限なく表現することが許されているように、彼らにもそこは保証されなくてはならないでしょう。

 でも、私に対しての書き込みを私が発見した場合、やはり私は誰がそれを書いたのか特定してしまうでしょう。私は性格的にそういうことを調べずにはいられない人間なのです。

 もし、「書き手」が特定できた場合、私から恨みを買うことになるかもしれないということは覚えておいて欲しいのです。これは、私に対してだけでなく、他の人たちに対して書き込む時にも同じことが言えるのです。

 恨まれる覚悟で書き込まれるなら、それはそれでよろしいでしょう。私にはそれを制止する手段はありません。「書き手」自身で、書き込むか否か、書き込みたい気持ちを抑制するか否かを決定しなければならないことです。

 その後で、「書き手」が恨まれたとしても、もはや私には関係のないことです。場合によっては、一生恨まれることになるかもしれません。私が尋ねた人たち、つまり書き込まれた側の人たちの話を聴いていると、その書き込みがすでに何年も前の出来事であったとしても、そのことをよく覚えているものだということが分かるのです。

 そう、書き込まれる側は「書き手」のことを覚えているものです。おそらく、「書き手」が書き込まれる側の何かを掻き乱すのでしょう。それで一層、「書き手」のことが書き込まれる側に印象づけられるのです。

 だから、推測の域を出ないとは言え、書き込まれた側の推測はかなり正しいものだと私は捉えています。

「書き手」が書き込まれた側との間で何を体験したかは、個々の「書き手」によって異なるでしょう。「書き手」もまた相手を恨んでいることが多いでしょう。そして書き込まれた側も「書き手」を恨みたい気持ちになる。そうして、ここに恨み合いの関係が開始されてしまうのです。不毛な関係が始まるのです。

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

 

 

 

 

 

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