<テーマ48> 親離れ・子離れ
(48―1)オオカミの親子
ある種のオオカミ(キツネだったかもしれません)の話です。その親オオカミは子オオカミが一定の段階に成長するまで、親子一緒に生活するそうです。「その時」が来ると、親オオカミは、突然、子オオカミに噛みつくそうです。つまり、そうして子オオカミに親離れをさせるということなのです。
面白いことに、親から噛みつかれて無理やり親離れさせられた子オオカミも、やがては親になり、自分の子供を持つようになります。子オオカミがある年齢に達すると、このオオカミは、かつて自分がされたのとまったく同じことを自分の子オオカミに対してするのです。つまり、かつて我が身をもって体験したように、我が子に噛みつくのであす。私が面白いと感じたのは、自分が噛みつかれた時の年齢と、我が子に噛みついた時の子オオカミの年齢とがほぼ一致しているということです。親オオカミには子オオカミにその時が来たというのが分かるのかもしれません。
なぜ、オオカミにこういうことができるのかということは、当時の説明では、遺伝的にそうプログラムされているのだろうということでした。そう説明する以外にないようでした。ずいぶん昔に聞いた話なので、今ではもっと解明が進んでいるのかもしれませんが、動物にはそのような遺伝的プログラムが備わっているのだろうと私は思います。
(48―2)ヤドカリの例
もう一つ、例を挙げたいと思います。これも私はテレビで見たのでしたが、それはある種のヤドカリでした。そのヤドカリは子供たちを母親の胎内で育てるのです。子供たちは母親の胎内で、母親の体を食べて成長するのです。子供たちが成長すると、子供たちは母親の体を突き破って、外の世界へと出ていくのです。そして、食べつくされた母親の抜け殻だけがそこに残るのです。
なぜ、このヤドカリはこのような子育てをするのか、なぜ子供たちは母親の体を食べるという行動がとれるのかということは、やはり遺伝的にプログラムされているとしか説明しようがないのだろうと私は思います。
(48―3)遺伝的プログラムは葛藤を生まない
このような例を挙げたのは、動物や昆虫の世界では、親離れ・子離れ、あるいは世代交代ということがとてもスムーズに行われるものだという印象が私にはあるからであります。そして、動物たちになぜそういうことがスムーズにできるのかということを、私たちは本当には理解できていないのです。ただ、動物にはそのようなことが遺伝的にプログラムされているという説明で納得しているに過ぎないのです。
親離れ・子離れのプロセス、ないしは世代交代のプロセスが遺伝的にプログラムされているということは、動物たちにはそれらに関して、何ら葛藤を経験しないということを意味しています。親オオカミは我が子に噛みつくことに罪悪感を持たないわけです。「私は親からあの時噛みつかれて痛い思いをしたから、自分の子供にだけは同じことをしないでおこう」などと考えないということです。母親の身体を食べつくす子ヤドカリは、母ヤドカリのことを哀れに思うこともないのです。また、生きた母親と母子関係が築けないことを嘆いたりもしないのです。ただ、そうすることが遺伝的に決定づけられているという理由だけで、そういう行為をしているだけということになるのです。
(48―4)人間には世代交代の遺伝プログラムがない
幸か不幸か、人間にはこのような遺伝的プログラムが備わっていないのです。もしかすると多少の遺伝的な傾向は受け継いでいるかもしれませんし、遺伝的に規定されている部分もあるかもしれません。しかし、人間は、上記のオオカミやヤドカリのようにはできないことだけは確かです。少なくとも彼らのようなプログラムを人間は遺伝的に有していないわけです。
遺伝的要因の多少は一旦置いておくとしまして、ここで押さえておきたいことは、親離れ・子離れ、世代交代のプロセスを円滑に進めていくようなプログラムを私たちは遺伝的に受け継いでいないということです。遺伝的にプログラムされていないからこそ、私たちはそのプロセスにおいて、並々ならない葛藤と苦悩を経験してしまうのです。もし、遺伝的にプログラムされていれば、何の躊躇も葛藤もなく、ごく自然にそういうことができるわけでありますし、それが自明な事柄になるはずです。遺伝的に規定されていないからこそ、私たちは親離れ・子離れで苦悩しなければならないのであります。
一方、この遺伝プログラムが欠如しているということの利点もあります。遺伝的に決定されていないおかげで、私たちは親世代とは違った行為を試行錯誤できるのです。親世代のことをそのまま繰り返したりはしないのです。そのおかげで、人類は親世代とは違った文化・社会を築き、発展させていくことができたのであろうと私は考えるのです。
だから世代交代に関する遺伝的プログラムが欠如しているということが、かならずしも不幸なわけではないのです。そういう利点も含めて考える必要があるテーマだと私は思うのです。でも、ここではその利点ではなく、不利な点を考察していくことになります。
(48-5)親離れ・子離れは内面において規定される
何かが遺伝的にプログラムされているということは、主体はそれを自然に遂行することができるということを表しています。意識的に試みなくても、時期が来れば、それが自然に主体に生じてくるということを意味します。
前述のように、動物に関しては世代交代が非常にスムーズに行われます。これは遺伝的にそうプログラムされているからだと説明されるのです。それは、動物がある時期になればそれをするということが既に決定されているということです。しかも、自然とそれを遂行するようになり、そこに葛藤や苦悩が生じないということであります。
人間は世代交代に関する遺伝的プログラムを有していない、少なくとも動物が有しているようには有していないと、本項で私たちは考えてきました。私たちにそのようなプログラムが備わっていないということは、そのために私たちはそれを自然に遂行することができないということを意味します。そのために、世代交代に関しては、その時期が来れば自然にそれを成し遂げられるということにはならないということになるのです。従って、親離れ。子離れのプロセス、その他、世代交代のプロセスを、私たちは意識的に、いくつもの困難を克服しながら、繰り返し葛藤と苦悩を経験して、そして時間をかけてでも成し遂げていかなければならなくなるのです。遺伝的プログラムが備わっていないばかりに、私たちはそのような宿命を負っているのです。
そういう宿命を背負っているが故に、人類は制度を設けることでその欠如を補足しよとしてきた歴史、文化があります。つまり、親離れ。子離れ、世代交代を遂行する遺伝的プログラムが欠如しているので、それを補うような制度を外側に設定しなければならなかったのです。元服式とか成人式、あるいは定年退職といった制度もそうでしょう。そして、こうした制度とか儀式は、その名称や形式は異なっていても、どの国の文化においても、どの民族の文化においても存在しているのです。
従って、親離れ・子離れの遂行は、国や文化、人種を超えて、人類に共通の課題だったのではないかと私は思うのです。
しかしながら、こうした外側の制度がどこまで有効なのかということはいささか不明であります。20歳になって、一応は成人して、成人式にも出たけれど、それだけで大人になったとは言えないわけであります。親離れ・子離れということは、一人一人の個人において、もっと内面的で、心に関する領域ではないだろうかと私は考えるのです。
つまり、外側の制度を通じて、儀式的に達成されるものではなく、親離れ・子離れは個人の内面で達成される類のものではないかということです。本来の儀式(イニシエーション)では、そういう内面の達成をもっと促進するものだったのですが、現在では儀式の意義が喪失している(これは現代人が心の深層の集合的な部分との接点を失っているからである)ので、一層、内面的に、意識的に達成していかなければならないのでしょう。
いずれにしても、ここで強調してきたいことは、親離れ・子離れというのは内的な現象であるということであります。その親子が親離れ。子離れを達成しているかどうかということは、双方の内面にて規定されていることであり、外側の何かで決定されるものではないのです。子供が家出をして、独り立ちしたとしても、必ずしも親離れを達成しているとは言えない場合もあるのです。
(48-6)今後の展開
親子関係の問題のほとんどに、何らかの形であれ、親離れ・子離れの問題が関わっていると見ることは、何も極端な考え方ではないと私には思われるのです。親子関係においては、いかに結びつくかよりも、いかに離れていくかということの方がはるかに問題が複雑で、大きいものです。今後、親離れ・子離れのテーマに関して、以下のようなことを取り上げたいと思います。
まず、親離れ・子離れと言いますが、一体、どちらが先にそれを実行するのかという問題があります。親の方が先に離れるのか、子供の方が先に離れるのかという問題です。
次に、親離れ・子離れができないという時、それをできなくさせているものは何なのかという問題があります。
そして、親離れ・子離れがうまくできた場合、つまり成功した場合、その親子関係はどのようなものになっているのかという問題を論じたいと思います。
最後に、「反抗期」の問題があります。通常は青年期頃に現れることが多いのですが、成人期初期に達成する人も少なくありません。年齢の高低に関わらず、親離れ・子離れにおいて必ず通過しなければならない関門として「反抗期」があるものでして、これは無視して通ることができないのです。
親離れ・子離れの観点で見れば、個人の人生や生活の至るところにそれが顔をのぞかせるものです。職業の選択、配偶者の選択だけでなく、その人の趣味、生活様式、死に対する考え方にまで、親子関係の何かが持ち込まれていることが分かるのです。
また、象徴的な「親殺し」の現象についても述べなくてはなりません。これは象徴的に遂行しなければならないことであり、現実に「親殺し」をしてしまう人もあるだけに、私にはとても大きな問題だと思われているのです。そこに、象徴化作用する能力とか、象徴を活用する力の衰退を私は感じるのです。
こうしたテーマを順次述べていく予定でおります。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)