<テーマ46> 「ひきこもり」と「シゾイド問題」

 

(46―1)「ひきこもり」は抽象語である

(46―2)「シゾイド問題」とは

(46―3)「ひきこもり」はその他の領域の問題を併せ持つ

(46―4)「ひきこもり」期間について

(46―5)今後の展望

 

 

(46―1)「ひきこもり」は抽象語である

 「ひきこもり」と「シゾイド問題」というテーマを掲げましたが、まずこの二つの言葉について説明する必要があるかと思います。

 「ひきこもり」というと、その言葉からして部屋に閉じこもって一歩も外に出ない人というようなイメージを持たれるかもしれません。確かにそのような人もおられるのですが、「ひきこもり」にもさまざまなレベルや種類があるものです。これを一語で括るのは少々無理があるようにも思います。この点を最初に押さえておくことにします。

ちなみに、レベルというのはいわゆる「病態水準」のことです。「軽い神経症」レベルのものから、「重い精神病」レベルのものまであるということなのです。個人的にはあまり「病態水準」やレベルといった言葉は使用したくないのですが、それだけ幅のある現象なのだというくらいで捉えていただければけっこうです。従って、同じ「ひきこもり」であっても、そのレベルにおいて、それぞれ違った様相を呈するということになるのです。

また、各々の「ひきこもり」の人には、その人なりの背景や状況があります。そのために「ひきこもり」という範疇には、実に様々な種類や様相の人たちが含まれているということにもなるのです。そうした相違を度外視して「ひきこもり」という一語で括ってしまっているということ、そこにもまた無理があるということを強調しておきます。

 それでも便宜上「ひきこもり」という言葉を使用します。それは言葉の表現が煩雑になるのを防ぐ目的でそうするのであって、「ひきこもり」という何かの「一単位」であるかのようには捉えてほしくないというのが私の願うところなのです。

 

 

(46―2)「シゾイド問題」とは

 もう一つの「シゾイド問題」という、あまり聞き慣れない言葉に関してですが、この言葉を、私はイギリスの精神分析学者ハリー・ガントリップの著書から借りることにします。「シゾイド問題」とは、対人関係においてひきこもってしまうということを主症状とする人たちが抱える問題のことであります。そのようなものとして捉えていただければけっこうです。つまり、その人は人間関係を築くこともできれば、人の中に入っていくこともできるのですが、情緒的に他者とつながることに困難を覚える人たちであります。

 「ひきこもり」から「シゾイド問題」をここで区別している理由は、「シゾイド問題」を抱える人というのは、一見して「ひきこもり」には見えないためであります。彼らは「ひきこもり」という言葉からイメージされる人たちとは異なっているように見えるのです。しかし、そこには「ひきこもり」を抱える人たちと共通する問題を抱えていることも少なくありません。そのため、「ひきこもり」と「シゾイド問題」とは、このページでは一括りにしていますが、その中で区別をつけ、各々について述べていこうと試みているわけであります。

 繰り返しておきますが、「シゾイド問題」を抱える人というのは、人との関係の場に入ることはできるのです。そのため、一見すると「ひきこもり」に見えないということもあるのです。時には社交的に見えることもあるでしょう。でも、その人はいかなるパーソナルな関係をも避け、対人場面において、自己を閉ざしているのです。もしくは、ある種のタイプのパーソナリティや役割を演じているという在り方をしている場合も少なくないのです。こうした人たちの抱える問題を「シゾイド問題」という名称で呼ぶことにします。

 今後、展開していければいいと思うのですが、「ひきこもり」は心理的には外向的な人が多いという印象を受けています。「シゾイド問題」はより内向的であるという印象が私にはあるのです。誤解を招く表現だと思いますが、内的な自己に関しての囚われは、「ひきこもり」を呈する人よりも、「シゾイド問題」を呈する人の方が強いと感じています。

 そういう意味では、「ひきこもり」は自分自身への関与がより少ないように見えるのです。もっとも、これは表面的な事柄であり、内的にはそうでないこともあるでしょう。しかし、「シゾイド問題」に関しては、自分自身への関与がかなり高いのです。

 この自分自身への関与は、もう少し丁寧に述べれば、自己の中のある部分との関与が高いというように言えるかと思います。本項では詳述しませんが、今後、こうした事柄も叙述できればと思います。

 

 

(46―3)「ひきこもり」はその他の領域の問題を併せ持つ

 また、「ひきこもり」の人たちの多くは「学校恐怖症」(不登校)や「対人恐怖症」(社会不安性障害などという曖昧な言葉で表現されているもの)の問題を経験していることが多く、「自己の同一性拡散」や「性倒錯」などの傾向を抱えている人もおられます。

つまり「ひきこもり」というのは、単一の症候を示す言葉ではないということです。それは様々な領域にまたがる問題でありますので、「ひきこもり」を考えていくということは、そうした他の領域についても考えていくことになるのです。こういう事情があるために、今後、幅広い視野で論じていくことになるかと思います。

 

 

(46―4)「ひきこもり」期間について

 さて、「ひきこもり」「シゾイド問題」ということですが、これは家から一歩も出ず、社会生活や対人関係から退いてしまっているというような人から、対人関係において孤立してしまうといった人まで私は含めていますので、取り上げる対象の範囲が広いということを述べました。一般にイメージされる「ひきこもり」よりも、広い範囲の人たちを含めて考えていくつもりでおります。その点は心に留めておいていただきたいのです。

 次に、「ひきこもり」の期間について一つ述べておこうと思います。一般的には、ひきこもった状態が半年以上だと「ひきこもり」として認識されるようです。しかし、その「ひきこもり」がいつ始まったのかということは厳密には確定できないことが多いものであり、そのような期間はある程度の目安というように捉えた方がいいのではないかと私は考えております。

 なぜ、開始時点が確定できないのかと言うと、彼らはある日突然「ひきこもり」を始めたりするわけではないからです。最初にその萌芽が感じられ、徐々に「ひきこもり」へと収束していくことになったという例がほとんどだからです。さらに言うと、その萌芽の前段階のものがすでに起きていたりすることも多く、一体、どの時点をその開始とみなすかはすごく難しい問題だと思うのです。

 こういうことを述べるのには一つの理由があります。例えば、12歳の時に「ひきこもり」を始めたという人があるとしましょう。そうすると、その人は12歳以降のことしか問題として取り上げなくなる傾向が強まるように私には感じられるからなのです。そうして、人生のより早期の時期が、その人の体験枠から切り離されているというような例も見られるのです。そうした傾向を少しでも軽減したいという思いでいるのです。

 矛盾を感じられないように、次のことは述べておきたいと思います。「ひきこもり」の正確な開始時点は特定できないけれど、ある程度の目安としての「ひきこもり」期間というのは述べることが可能だとは思います。大体何歳ころに始まったとかいうことは言えるのです。「ひきこもり」歴とはそのような意味合いで捉えることが望ましいと考えています。

そして、これは私の個人的な用語ですが、「ひきこもり」歴二年未満を「ひきこもり」の初段階にある人、あるいは「ひきこもり」の「初心者」と呼んでいまして、一方、「ひきこもり」歴十年以上というような人を「ベテラン」の「ひきこもり」と呼んでいます。

 これは一つの状態を長い年月続けていくことの困難さに対して、ある種の尊敬をこめてそう呼ぶのです。十年、二十年もそれを続けていくと、どんな分野であれ「ベテラン」と呼ばれる資格が生じるのではないかと思うからです。

私がお会いするのは(と言っても、「ひきこもり」の人はあまり私に会いに来ることは少ないのですが)、主に「ベテラン」の人たちです。中には、二十年以上「ひきこもっている」という人とお会いすることもあります。「ひきこもり」を主訴として私のところへ来談された方のうち、概算ですが、8割以上は「ベテラン」の範疇に入る方々でした。それだけ、そういう人とお会いする機会が多かったのです。

従って、私が「ひきこもり」に関して得たこと、体験したこと、学んだことというのは、すべて「ベテラン」の人たちとの関わりにおいて獲得したものですので、もしかすると、私の考えや述べることには偏りがあるかもしれません。その点は予めご了承いただきたく思います。

また、「初心者」の「ひきこもり」については、私はほとんど知らないので、「初心者」の方々に役立つようなことは何一つ言えないかもしれません。その点もご容赦ください。

 

 

(46―5)今後の展望

 私は個人的には「ひきこもり」に関して楽観的であると感じています。人生の途上において、1年、2年の「ひきこもり」期間があったとしても、それがそんなに大問題になるとは考えていません。確かに、その期間においては、その人の生のあらゆることが停滞してしまうとしても、それは後の生において取り返していくことができるだろうと信じているのです。もっとも、その期間において、その人がどういうことをするかということの方が、「ひきこもり」期間よりも重要な観点ではありますが。

 今後、「ひきこもり」に関して様々なテーマで論じていく予定でおります。

 一人一人の「ベテラン」には、その人なりの背景や環境があるのですが、共通して見られることもあります。それは「~できない」という言葉であり「自分はまだそのレベルに達していない」という言葉であります。それらがどういうことなのかを考えてみたいと思います。

 また、「ベテラン」の人たちは、これをどう表現していいのか私は迷うのですが、独特の「ズレ」、それも社会との「ズレの感覚」のようなものがありまして、それに関しても述べたいと思います。

 「ベテラン」にも「初心者」にも共通するものとして、「ひきこもり」の人たちが利用する(依存していると言うべきかもしれません)ツールというものがあります。それに関しても述べるつもりでおります。

 家族の人から、「ベテラン」の人が「うつ病」ではないかと問われることもあります。「うつ病」では活動が制限されてしまう、それも本人の意志を裏切って制限されてしまうものです。「ひきこもり」においては、少なくとも、そのような形での活動の制限は見られないものです。むしろ活動の種類が「うつ病」の人たちのそれと異なっていると述べる方が適格かもしれません。そういう「ひきこもり」の人の活動ということにも焦点を当てて論じてみたいと思います。

 「ひきこもり」という問題に関して、最も重要だと私が考えるのは、彼らの「自己」であります。より正確に述べるなら、彼らの「自己愛」に関する事柄です。それは非常に傷つきやすい「自己愛」であり、わずかの傷つきであっても、彼らの「自己」全体が大きく揺さぶられてしまうのです。これが彼らをして周囲との適応をつまずかせてきた要因であると私は理解しています。この点が、「シゾイド問題」を抱えている人とかなり共通しているように私は捉えております。

 この傷つきやすさ、周囲の影響の蒙りやすさということを、「心の緩衝地帯」という観点からも述べることができればと考えています。

 また、「ひきこもり」と記憶の問題もあります。それは時間に関係してくるテーマでもあり、彼らの性格にもかかわってくる事柄であります。そのため、これを述べることには困難が伴うのでが、少し先取りして申しますと、彼らは非常に記憶力が良いという印象を私はよく受けます。かなり過去の些細な事柄でさえ、それが過去になることなく、鮮明に記憶に留まり続けているという「ベテラン」の人ともお会いしたことがあります。

ある出来事、それも周囲の人からすれば取るに足らないような些細な出来事であっても、あるいは周囲の人からすれば記憶にすら残らないような些細な出来事であっても、彼はそれを過去のことにできず、水に流すこともできずに抱え続けるのです。十年以上昔の出来事を、あたかも昨日体験したかのように話すのです。十年前に経験した苦しみを、今でもそれと同じ苦しみを、その当時に経験したままの在り方で、繰り返し体験しているかのようなのです。そして、それを決して忘れないのです。こうした体験の固着性、粘着性という性質についても、私の考えるところのものを述べることができればと考えています。

 どれだけのことを私が述べることができるか、定かではありませんが、上記のようなテーマを含めて、できるだけ私が体験したことを中心にして述べていく予定であります。

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

 

 

 

 

PAGE TOP