<テーマ15>自殺について
(15-1)自殺問題の幅広さ
(15-2)自殺問題は多方面からのアプローチが可能である
(15-3)「自殺」という生き方
(15-4)「私はなぜ自殺しないか」
(15-5)本項終わりに
(15-1)自殺問題の幅広さ
カミュによると、自殺とは人生が生きるに値するかどうかの問題であり、哲学はそれに取り組むものでなければならないということです。私もその見解に賛成します。
自殺とは、自らの生命を断つ行為のことです。厳密に定義するのは控えて、自分自身を死に至らしめる行為という程度に留めておきます。
また、ここで言う自殺には、自殺に成功してしまった人だけでなく、未遂に終わったという人、自殺企図を有したことがある人、自殺観念に襲われるという人まで含めています。
また、自殺は自殺者だけの問題ではなく、自殺者の周辺に位置する人たちをも含めて考えなければならない問題であると私は認識しています。
自殺の周辺には「類自殺行為」と呼べる現象があります。自傷行為、慢性的な自己破壊傾向などがここに含まれ、こうした領域も一緒に考えていかなければならないことだと私は考えています。
自殺は「うつ病」との関連で問題になることが多いのですが、自殺の問題は「うつ病」だけに限らないのです。もちろん、「うつ病」を度外視するつもりはありませんが、自殺はもっと他の問題領域においても生じるのです。
要するに、自殺に関するテーマは非常に幅広い領域に渡るものであることを認識してもらいたく思うのです。決して、自殺を、あたかも、単一のテーマであるかのようには捉えてほしくはないのです。
(15-2)自殺問題は多方面からのアプローチが可能である。
日本では1998年に年間自殺者数が初めて3万人を超えました。それから12年連続で自殺者数が3万人を超えました。最近、3万人を下回ってはきたのですが、それでも1998年以前の数字に比べると、まだまだ高い数字を維持しているのです。
この3万人という自殺者数は、どう言っていいか迷うのですが、いわゆる自殺成功者の数を表しています。従って、未遂者は含まれていないことになりますし、類自殺者に関してはまったく示されていない数字なのです。つまり、自殺の問題はこの「3万人」だけの問題ではなくて、もっと膨大な数の人がこの問題に直面しているということになるわけです。
正直に申し上げますが、私もまた自殺の問題についてはこれまでに直面してきた一人であります。私はたまたま自殺をしなかった、あるいは自殺に成功しなかっただけであり、自殺した人と私との間にそれほどの差があるとは、自分では思わないのです。自殺者の問題は私の問題でもあると、そんなふうにも思うのです。
では、自殺の問題をどう考えるかということですが、経済的、政治的、あるいは医学的にこれを取り扱ってはいけないと私は考えています。
ある記事で、年間3万人の自殺者は何兆円かの経済損失をもたらすというのを読んだことがあります。どういう計算なのかは分かりませんが、この数字にどんな意味があるのかも私には分からないのです。もし、自殺の問題を経済的な観点から捉えれば、そこには損失しか見出さなくなってしまうように私は思うのです。そして、この損失を生み出さないために自殺を防止しようという発想になってしまうと私は思うのです。
政治的にも自殺の問題は取り組まれています。政府の発した「自殺対策」というものは、国がその問題に取り組み始めたということに関しては評価できるのですが、どこか的外れな部分も多いように私には思われるのです。
自殺の問題を医学的に取り扱うということに関しては、必要な処置もあるとは言え、すべてを医学的に考えない方がいいと私は考えています。カミュの言うようにそれは哲学が取り組まなければならない問題であると私も思うからです。つまり、自殺を医学的に扱うとなると、医学の領域に属さない部分が医学化されてしまうわけであり、これはかつて「反精神医学」が主張したところと重なるのです。私の見解では、自殺の問題を医学的に取り扱った時点で、自殺者の生は軽視されてしまうと思うのです。
他にも社会学、宗教学、生物学などからのアプローチも可能であり、栄養学や衛生学から論じることもできるでしょう。自殺の問題はさまざまな方面から考えることができるのです。
確かにどの方面のアプローチも有益な部分を含んでいるので、総合的に考えるのが望ましいことであるとは思うのです。ただ、私は政治や経済に関しては疎いので、あくまでも心理学的、哲学的方面からの考察をしていくことになります。
従って、多方面からのアプローチが可能な問題領域に対して、私が本サイトで述べることは、あくまでも私が専門としている方面からのものであり、その方面しか取り扱っていないという点をご了承願いたく思います。
(15-3)「自殺」という生き方
誤解を招く表現かもしれませんが、私は「自殺」の問題は「自殺という生き方」の問題として考えていこうと思うのです。「うつ病」は一つの生き方であると私は考えていますが、同様に、自殺もまた一つの生き方を示していると考えているのです。従って、個人が自殺問題から解放されるということは、その人の「自殺という生き方」が変わることに他ならないのであると理解しています。
自殺の問題を「自殺という生き方の問題」と捉えなおすことは、次のような人たちを含めることが可能になります。もし、自殺の問題だけに注目してしまうとすれば、自殺に近いところにいながらとにかく自殺さえしなかったという人が除外されてしまうのです。臨床経験を積むと分かるのですが、自殺も自傷も縁がないという人でありながら、自殺に非常に近い位置で生きているという人もおられるのです。そのような人たちが見放されないようにしたいと私は思うのです。「自殺という生き方」という観点を採用すると、その人たちを取り上げることが可能になるのです。
では「自殺という生き方」とはどういうことかと問いたくなるかと思います。でも、これは一言で説明することが難しいのです。ある人は、自殺を試みたことはなかったけれど、常に絶望的な雰囲気の中で生きていますし、人一倍失望を経験する生き方をされてきた人もあります。希望を持つということが、どういうことか分からないまま生きてしまっている人もあれば、機械的に周囲に順応するだけの生を送っているという人もあります。彼らは決して自殺を試みたわけではないけれど、自殺に近い位置にいる人たちだと私は捉えています。彼らの生き方は「自殺という生き方」を表しているのと私は考えるのです。
自殺に近い位置にあるということは、その一線を越えると自殺者になる可能性があるということであります。実際、あるクライアントは自殺を試みかけた時のことを私に語ってくれました。その瞬間を迎えると、一線を越えることはなんら難しいことではないようだったと。つまり、生と自殺の境界線を越えることは人が考えているほど難しいことではないということを彼はおっしゃったのです。私もそう思います。簡単にそこが乗り越えられてしまうのです。だから自殺が成功してしまうのです。
(15-4)「私はなぜ自殺しないか」
もし、あなたが自殺の問題について考えようとなされているのであれば、申し訳ありませんが私は次のことをお伝えしなければなりません。自殺に関しての理論は人の数だけあって、どれか一つが正しいということはないということをです。
人はなぜ自殺するのかという問いは、自殺者に聞いてみなければ分からないことであります。死んでしまった人はそれに答えてくれません。そこで生還した人たち、つまり自殺未遂者たちから情報を得てこの分野の研究が進展してきたのでした。そういう研究が自殺分野ではなされていましたが、それは取りも直さず、自殺(未遂)者を私たちから区別した上で成り立っている研究なのです。自殺(未遂)者を自分たちとは切り離して、対象化し、その上で成立しているのです。
もちろんそうした研究が無意味だとは申しません。そこから重要な知見も得られています。しかし、私たちがある問題を考える際には、その問題が自分たちの問題でもあるという視点も必要だと思います。自殺する人の問題は自殺しない私たちと同じ問題であるという視点であります。そうなると、私たちは次のように自分に問うことになります。「どうして私たちは自殺しないでいられるのだろうか?」と。
「人はなぜ自殺するのか」の問いは、今では「私はなぜ自殺しないのか」の問いに変換するわけであり、この問題を考える人それぞれがその答えを自らの内から導き出さなければならなくなります。そして、それこそがもっとも重要な解答なのだと思います。だからあなたはあなたの解答をあなた自身の内側から導き出すことが必要であり、私は私自身からそれを導き出そうとするのです。どれが正しいかという客観的評価はここには存在しません。
「私はなぜ自殺しないのか」の問いは、さらに突き詰めると、「私はなぜ今日も死なずに生きているのか」という問いになっていくでしょう。私が今日生きているという事実に直面して、私の今日の生をあらしめてくれるところのものに直面するのです。私にはそれを上手く言い表すことができないのですが、端的に言えば、「ただ生きているから今日を生きるだけだ」ということになるかと思います。今日が与えられているから、ただ、その今日を生きようとしているだけであって、私が今日生きているということの意味や価値は本来的にはまったくないのです。生が与えられる、だから生を送るという、ただそれだけの理由なのです。私はそのように考えています。
しかし、私が存在し、その存在が与えられているが故に存在するだけだと私が言うとすれば、それはあくまでも存在の次元での解答ということになります。私たちは存在します。サルトルの言うように実存が本質に先立つようにして現実存在しています。でも、私たちは存在以上の何かを求めてはいけないのでしょうか。もし、ただ存在するだけであるとすれば、それはモノの在り方でしかなくて、やがて、私たちは自分がモノに堕してしまうことに耐えられなくなるのではないでしょうか。
私は存在するが故に存在を維持しているだけであるけれど、モノに堕してしまうことには抵抗感があります。ここには自殺という生き方から明らかに異なる要素が見られるのです。自殺するということは、自分をモノ(死体)にしてしまうという行為であると考えれば、私が存在以上の何かを求めている時、私は自殺という生き方から離れていくことになります。
私は、単に私が「ある」という以上の存在を目指している、あるいは存在以上の何か(意味とか価値など)を求めているとすれば、私は今日、それを少しでも得ないといけなくなります。常に得られたり実感できるわけではないということは認めるとしても、それらが今日という日にまったく得ることも、体験することも、触れることもできなかったとすれば、私は今日生きたとは言えなくなるのです。ただ、今日も私は存在したというだけしか言えなくなると思うのです。
従って、私は単なる存在以上の何者かになるために、今日を生きなければならないのであって、私が今日自殺することなく生きているのは、私が何者かになるために、あるいは、自分が何者であるかを自ら証明するためであると、私にはそんなふうに思われているのです。
もし、私がモノのように存在だけしたという今日を送ったとすれば、今日、私は生きながらにして死んでいたと言ってもいいでしょう。もしくは、生きているのか死んでいるのか、分からない一日を送ったということになるでしょう。現実にそういう人とお会いすることもあるのですが、そんなふうにしか生きられないという人がどれだけいることでしょう。それは生き方として自殺と等しいと私は考えております。
(15-5)本項終わりに
とりとめもなく綴ってきましたが、少しだけ要点を押さえておきます。
自殺の問題は、自殺から取り組んではいけなくて、常に生の方面から考えなければならないことであると私は考えています。だから、人はなぜ自殺するのかという問いに私は答えることができませんし、そのような問いはまるで無意味だと私は考えています。
自殺の問題は常に生の問題と関わっているので、適切な問いは「なぜ私は自殺しないのか」に至ると思います。そして、この問いは、政治や経済、医学の方面からは決して考えることができないものなのです。と言うのは、それらはどうしても「自殺」の方向から問題を見てしまうからなのです。
本項では述べきれませんでしたが、「私はなぜ自殺をしないのか」という問いは、さらに突き詰めていくと、「私は何のために生きているのか」という問いに、さらには「私に生を続けさせているものは何か」といった問いにつながると私は考えています。つまり、「生きがい」という問題領域につながっていくのだと思います。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)