<T008-2ボツ原稿集怒り・敵意憎悪(2) 

 

 

<本ページのコンテンツ> 

<1>how toではない 

<2>感情と情念 

<3>怒り 

<4>怒りは基本感情の一つである 

 

 

<1>how toではない 

 本書はいわゆる「ハウ・トゥー」物ではありません。従って、どうすれば怒らなくて済むかとか、こうやって憎悪を解消しますとかいう話は一切出てこないでしょう。私たちがいかにして、憎悪を建設的なものに置き換えていくか、いくつかの提言や示唆がなされるだけでしょう。 

 何よりも、本書で目指したいことは、私たちが抱え、体験している怒りとか、敵意、憎悪といった現象がどういうものであるかを少しでも深く理解したいということです。その一理解を、私の個人的な体験や思想に基づく理解を提示してみたいということです。その上で、本書が読まれる方々の自己理解に資するところがあれば、それで本望であります。 

 もし、「ハウ・トゥー」を求められるのであれば、どうか他の書物に当たっていただければ結構です。私はその手の本を書こうなどとは思いません。 

 私も過去にはいくつかの「ハウ・トゥー」物を試したことがありますが、どうしても成功しませんでした。それはなぜかと言いますと、その方法は結局のところ、その著者のものであり、自分のものではないからなのです。そこに記されている通りにやってみたところで、私の場合はですが、自分のものになっていかなかったのです。 

 そして、もう一つの理由、恐らくこちらの方がより大きな理由なのですが、それは、読者が著者のやり方に従ってしまうという構図にあります。方法を提示する側とその方法に従う側に明確に分かれてしまうのです。 

 本書は怒りや憎悪に関してのものです。「ハウ・トゥー」の形にしてしまうと、私が上から方法を伝授する側となり、読む側はそれに支配される立場に立たされてしまうことになるのではないかと、私は考えるのです。そして、被支配感情は新たな敵意や憎悪を生み出す可能性があると思うのです。 

 ここには矛盾があるのです。怒りや憎悪に関して「ハウ・トゥー」を教えようとすれば、絶対に「ハウ・トゥー」の形にしてはいけないという矛盾なのです。 

 

<2>感情と情念 

 ここでは感情を二つに分けて考えることにします。一つは感情、もう一つは情念という言葉を用いましょう。 

 怒りは感情であり、憎悪は情念に含まれるものとします。 

 感情と情念の違いは場面性にあります。感情はその場における反応です。情念はその場から離れたところで抱かれる感情であり、引き続きとどまり続ける感情と述べることができます。 

 感情は常に外側の状況に対しての反応であり得るので、感情とは世界と自己とをつなぐ役割があるとみなすことができます。 

 感情を喪失している人と出会うこともありますが、事実、そのような人は自分と世界との結びつきを失っており、世界を喪失しているのです。うつ病やアパシーの人と接しているとこのことはよく理解できるのです。 

 感情は常に何かに対しての反応でありますので、そこには対象があります。怒りについて言えば、それは何か、あるいは誰かの何かに対しての怒りなのです。 

 しかし、対象があるというだけでは感情は生起しません。そこには感情体験をする自己が不可欠です。 

 従って、感情を体験するには、その感情をもたらす対象とその感情を体験する自己とが揃っていなければならないということになります。 

 そのどちらかが欠けても感情は成立しないのです。怒りの対象がなければ、人は怒ることはないということは理解に難くないでしょう。一方、感情を体験する自己がないという人も怒りを体験することがないのです。 

 まったく自己がないという人を私は見たことがないのですが、非常に自己が希薄であったり、曖昧であるというような人とお会いすることがあります。そのような人の内面に占める感情は虚無感なのです。生き生きとした感情体験を持つことができないのです。 

 怒りは感情であり、これは基本的な感情の一つです。それには対象があります。その対象が広がる場合、それは敵意となると私は理解しています。例えば、中学1年生の時の担任の先生に怒りを感じたとします。対象はあくまでもその先生一人です。それが中学校の教師全員に広がったり、「先生」と呼ばれる職業の人全般に広がったとしたら、それは敵意とみなしていいでしょう。漠然とした「先生」に対しての敵意ということであり、これは偏見や差別へと発展することも起こり得るでしょう。 

 一方、怒りの感情が自己に広がる場合、それは憎悪になると私は捉えています。憎悪は必ずしもその場で発露されるものではないのですが、その人の自己に広く浸透して、その人を支配するのです。その人の言動には常に憎悪が通奏低音のように見え隠れするのです。憎悪が自己を支配しているとすれば、その人は憎悪を通して世界と関わることになってしまうのです。 

 感情(怒り)は常に表に現れるものです。情念(憎悪)は表には現れず、その人の内面にあるもので、その人の言動の背後に潜んでいるものであります。そして、怒りを花火だとすれば、憎悪はくすぶり続ける炎のようなものなのです。 

 

<3>怒り 

 本書で取り上げる現象は人間の怒りという感情です。怒りの感情がどういうものであるか、読者の一人一人に思い当たる節がるかと思います。それだけ、怒りの感情は日常、私たちが経験するものなのです。 

 その他の感情と比べて、怒りの感情が厄介なのは、それはとても激しく不快で、時に自分を見失わせ、他者との関係にひびが生じたり、その感情の処理に失敗するからではないでしょうか。 

 怒りの感情はしばしば良くないものとして体験され、忌避される傾向が強い場合もあります。でも、これは身近で重要なテーマでありますので、丁寧に考察していく必要があると私は考えます。 

 恐らく、読んでいて気持ちのいいものにはならないでしょう。テーマそのものが不快感を催すものだからです。怒りは敵意へと発展し、それがさらには憎悪へと進んでいくというのが私の見解です。 

 怒りにはその怒りをもたらした対象があるのです。敵意や憎悪にもやはり対象があるのです。もし、その対象がとてもはっきりしているようであれば、対処は比較的容易であります。 

 ところが、カウンセリングの現場で認識されるのは、怒りの対象は実にさまざまであり、且つ不鮮明な場合も多いということです。その怒りは外の世界に対しての場合もあれば、自分自身に対しての場合もあります。他者の場合もあれば、物が対象になっている場合もあります。何に対して、どういうことに対して怒りを経験するかということは、とても一概に言えるものではないと思うのです。 

 また、怒りの対象がはっきりしていないこともあります。漠然としたイライラに悩まされているとか、何でもないような事柄に過剰に爆発してしまうとか、そうした例は恐らく、当人にも怒りの対象が見えてなく、その怒りの本質的な部分が見えていないためなのです。 

 

<4>怒りは基本感情の一つである 

 私たちは誰もが感情を有しています。感情を体験します。怒りは感情の一つであり、それも基本的な感情の一つなのです。 

 基本的というのは、それが大人から幼児にまで見られ、人種や文化の違いに関係なくすべての人に見られるという意味で捉えていただいたら結構です。 

 生まれたばかりの赤ん坊の泣き声は怒りのようであるとカントは指摘しています。確かにそのように響くのです。実際に怒りを新生児が体験しているかどうかは分からないとしても、怒りというものが生まれたばかりの赤ん坊にさえ備わっている感情であるとみなすことは可能だと私は考えます。 

 メニンガーが述べている通り、私たちは怒りの感情を有して生まれてくるのです。生まれてから、それの使用を学ぶのです。 

 怒りの感情が基本的なのは、それが自分を守るのに有益だからだと私は考えます。そして、それは心の活動性や躍動性と関係していると私は捉えています。 

 怒りは厄介な感情であるかもしれませんが、だからと言って、怒りを失くそうという目標を立てると、必ず失敗することになります。そういうことは不可能だからです。 

 それに感情はそれぞれ個別なものではありません。一つの感情はその他の感情とつながりを有しているものです。怒りを抑制しようとしてきた人は、他の感情をも巻き込んでしまうのです。こうして、その人からは感情全般が低下してしまって、心の中に生き生きしたものを失うのです。無感動な人や無気力な人と接していると、そのことがよく理解できるのです。 

 怒りは基本的な感情であり、それを喪失することは、その他の望ましい感情やその人の人間性まで喪失してしまう結果になりかねないのです。人間が怒らなくなるということを目標に据えてはいけないと私は思うのです。 

 よく勘違いされる方も見受けられるのですが、人格的に優れた人は怒らないと思い込んでおられる方がいらっしゃいます。それは正しくないと私は思います。どの人も怒りは体験するのです。その人が優れているのは、怒りを体験しても攻撃をしないというところにあるのです。 

 つまり、優れた人は怒りを体験しても相手を攻撃せず、それでいてそれをただ抑え込むということをしないのです。怒りに対して、別の水路づけができているわけなのです。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

PAGE TOP