12年目コラム(66):臨床心理の日米欧(12)~合理主義
僕たちの生、並びに生の営みには非合理なものがたくさんある。それが人間らしさをもたらしているという一面があると僕は思う。非合理なものを排除しすぎること、そして合理性を過剰に取り入れることが問題なのである。
今の若い人は上司が呑みに誘ってもついてこないと言う。また、会社の忘年会や旅行などにも参加しないという。そう嘆いている人がいた。僕は彼らの不参加の理由を訊いてみると、彼の話では「それは仕事ではないから」だと言う。なるほど、若い人は極めて合理的な考え方をしているのだなと僕は思った。
しかし、この合理的な考え方は、若い人と親睦を図ろうとする上司の気持ちを挫き、知見を広げる機会を若い人から奪うようにも思う。
人間関係というのは、合理的には割り切れない部分が多いと思う。こうすれば上手くいくといった法則は必ずしも通用しない。相手が違えば別の人で通用した方法も通用しないかもしれないし、同じ相手であっても、その相手の状態によっては、かつて通用したものが通用しないということも起こるかもしれない。
人間関係の悩みというものを僕もよく受け付ける。彼らの多くは、どうすれば上手く行くかという方法を求める。しかし、これは問題がすり替わっているのである。人間関係の問題っていうのは、僕の定義では、あり得ない問題なのである。人間関係の問題というものは、常に、相手との関係で自分自身の在り方が問題になっているのである。自分が問題なのである。どうすれば上手く行くかではなく、どうすれば自分がその場に存在することができるか、あるいは存在しないことができるかといった問題なのだ。
その時の自分の在り方というのは、非合理的因子に属するだろうと思う。その時の感情や気持ち、あるいは意志などがそこには関与していると思われるからである。
もっとも分かりやすいのは、恋愛とかセックスに関する事柄である。
恋愛というものは、合理的な観点から言えば、まったく非合理的である。極端に合理的な観点から言えば、恋愛することも結婚することも、まったく無駄な行為となってしまうだろう。それらは煩わしいだけのものになるからである。
僕もブログの随所で人間関係が煩わしいと思えると書く時がある。実際、そう感じるのである。その時、僕は自分があまりにも合理的に生きようとしていることに気づく。しかし、同時に、その煩わしいことを回避して、達成したい何かを抱えていることもある。そちらを今は優先したいという気持ちがないわけではない。それでも、あまり健全な考えではないと、自分でも思うのである。
僕のことはちょっと脇に置いておくことにして、要するに、合理的に生きようとすれば、人間関係は必ずしも必要ではなくなってくるということである。合理的世界においては、人間関係は自分の目的のためにのみ必要とされるに過ぎなくなるのである。結婚しても、そこでは、自分の生を援助してもらうための相手が必要となっているという関係になるのだ。合理的に生きるということは、他者が何らかの手段になってしまうということである。道具的な存在価値を有する他者との関係を築くわけである。
それでも恋愛をしようという人もあるし、結婚する人もある。でも、その人は次にセックスの問題として、その合理性の問題を持ちこしてしまうこともあるようだ。
つまり、恋愛して、結婚した、そこまでいいとして、今度はどうすればセックスが上手くなるかという問題を抱えたりする。この人はそこで合理的な解決を求めようとする。つまり最短で目的を達しようとするわけである。
この人(仮に男性としておこう)は、セックスが上達するハウトゥを求め、そのテクニックを実践するかもしれない。あるいはペニスを増大させようと試みるかもしれない。本当にそんなことばかりやっている男性もいるのである。
彼はセックスの問題に対して、極めて合理的に取り組んでいるのである。しかし、それでも上手くいかないだろう。なぜなら非合理の部分が疎かにされているからである。
男性であれ、女性であれ、満足したセックスの経験がある人は、そういう合理的な部分(テクニックなど)よりも、非合理の部分(波長が合うなど)をその時には経験しているものではないだろうか。
これはセックスに限らず、各種の人間関係でも同じことが言えると思う。お互いに満足のいく人間関係というのは、お互いに波長が合っているのだと思う。波長やウマが合うとしか言いようがない何かが起きているのだと思う。そういう人間関係を経験すると、それはいい人間関係として認識されるのだ。何かが達成されなくても、いかなる結論に至らなくとも、つまり外的な何かが得られなくても、お互いに波長が合うということだけで、その関係は良いものとして当人たちに体験されているのである。
一つ注意しておくと、波長が合うというのは、相手に順応するという意味ではない。お互いにリズムとかフィーリングとかがマッチしているということである。
従って、人間関係とは、お互いに波長を合わせようとする不断の努力なのだ。話術が巧みであるとか、スタイルがいいとかいうのは、二の次なのだ。お互いに相手の波長に合わせようと努めることなのだ。
そして、これは合理的にはやってのけられないことである。相手と会う。相手がいつも一定不変とは限らない。その時々によっても相手の波長が異なるだろう。同じように、自分も一定不変ではない。だから波長を合わせるというのは、相手との交流において、その場で作り出していくものである。予め身につけておくテクニックではないし、仮にそれができたとしても、それはわずかの足しになる程度でしかないと僕は思う。
満足のいく人間関係とは、合理的領域によって決まるのではなく、非合理的な領域の事柄で決まるものなのだ。
さて、僕はここでカウンセリングで経験した実例なんかを挙げようと計画していたのだけど、冗長になりそうなので、一気に結論に飛躍しようと思う。これも合理的なやり方なのだけど、あまり長々と綴っても読む方もたいへんだろうと思うからである。
合理主義は、個人からいい体験を奪うと僕は考える。合理主義においては、それが役に立ったかどうかという観点からしか評価されなくなると思う。従って、「カウンセリングは良かったけど、何にもなりませんでした」という言葉が飛び出してくるわけである。この人は、そこで良いことを何か経験しているのである。でも、何にもならなかった、何も得られなかった、役に立たなかったということで、その経験を無効化してしまっているのである。
具体的な方法は得られたけど波長の合わないカウンセリングを受けた場合と、具体的な何かは得られなかったけど波長の合うカウンセリングを経験した場合とを比較してみよう。もちろん、現実にはこんなにきれいに二分できるものではないけど、便宜上、そうしてみよう。あなたはどちらがこのクライアントにとって有益だったと思うでしょうか。
多くの人が誤解しているように僕は思うのだけど、合理的な部分が満たされるよりも、非合理的な部分が満たされた時の方が、人によっては、はるかに救いをもたらすのである。合理主義が、この救いを奪い、この救いに覆いをかけてしまう。そういうこともあるように僕は感じている。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)