12年目コラム(79):カウンセラーへの道(2)

 

 僕が生まれた頃は祖母がいた。僕は祖母という人を知らない。記憶にないのだ。この祖母は僕が2歳になるころには亡くなったそうである。僕が祖母の死を経験していないのは幸いなことだったかもしれない。兄はすでに物心がついているので、祖母の死を経験した。この点に関しては兄の方が不幸だったかもしれない。ある日、いきなり家族から一人いなくなるのである。幼い心にはこういう事態は理解し得ないことであるかもしれない。

 さて、祖母の死によって、母の負担が増えることになる。僕は赤ん坊だし、兄も4~5歳くらいでまだ手のかかる年齢である。父の仕事は不安定であったようだから、母の看護師の収入が家計を支えていたようである。その母も育児休暇を取ることになれば、経済的に困窮してしまうことは目に見えている。おそらくそうした家庭事情があっただろうと思う。

 そしておそらくこの時期だと思う。子供二人を育てていくことが難しいとなれば、子供を養子に出すということを考えるものである。僕にもそれがあった。

 

 実は、僕はその記憶がまったくない。父方の親戚にあたる人で子供のいない夫婦がいた。僕をその家に養子に出す話が持ち上がったのである。この時のエピソードは後に母から幾度か聞かされたことがある。その話に基づいて僕は綴るわけだ。

 ある日、親たちは僕にOさんところの子供になるかと訊いたのだ。僕は「いやだ~」と泣き喚いて抵抗したそうである。それで僕のO家養子の話は流れたのである。

 大人になるにつれて理解できてきたことは、そこには親たちの事情があり、家庭の状況があったということである。しかし、当時の僕には親から切り離され、捨てられるような体験だったのだろうと思う。

 きっと、この時から始まったのだと思うのだけれど、それ以来、母の僕に対する態度が変わったのだと思う。母は僕に対して罪悪感を持つようになったようだ。母のことはいずれ綴ることにしようと思う。

 

 今になって思えば、あの時、Oさん家の養子になっていてもよかったとも思う。もっと違った人生になっていただろうと思う。ただ、2歳前後の僕にはそんなことはとても考えられなかった。

 母からこのエピソードを聞くと、子供時代を含め若い時期であれば、それが僕ではなく、兄だったらよかったのにと思ったこともあった。兄が養子に行けばよかったんだと思うわけだ。どうして、兄ではなく、僕だったのだろうと、一時期は真剣に考えたこともあった。

 しかし、親たちは正しかった。今はそれが分かる。犠牲になるのは最年少者である。立場の一番弱い人物が犠牲になるのである。世の中そういうものだと僕は思うようになった。僕は2歳だ。まだまだ手がかかる年齢だ。兄は5歳だ。そろそろ手が離れる年齢である。母の負担を軽減するなら、手のかかる方を養子に出すという考えは至極妥当なものである。それに、いくら同じ母から生まれたとはいえ、僕は2年の歴史しかかないのに比べて、兄は5年の歴史がある。歴史の長い方により愛着を覚えるのは自然なことだと僕は思う。要するに、長く育ててきた方に愛着が生まれ、手元に置いておきたいと思うのが自然な感情ではないかと思う。

 それに、もし僕がいることで家族全員が困窮するよりも、一人を減らして他の家族が助かる方が考え方としては正しいのである。最大数の救済が善とされるからである。100人全員が助からないよりも、1人を犠牲にして99人が助かる方が善なのである。

 切り捨てられるその1人の感情が分かるか、その気持ちが分かるかと、犠牲になった側は訴えるかもしれない。しかし、それは甘えである。その他全員の救済は1人の犠牲者の感情抜きでなされるのである。人身御供とはまさにそういうものではないだろうか。

 おそらく我が家に経済的な危機があったのだと思う。家族を救うために一人を養子に出さなければならなくなったのだろう。その危機が無ければこんな話は持ち上がらなかったはずだと僕は思う。

 僕が泣きわめいて、ジタバタやって抵抗したので、親たちは養子の話を断念した。これはつまり、僕のために困窮生活を受け入れようということだ。親たちも相当な覚悟が要ったのではないかと思う。

 

 しかし、この危機は回避される。母は育児休暇をすることなく、そのまま仕事を続けることができたのである。

 母は看護師としてあるクリニックにて働いていた。院長先生にしても、スタッフが減るのは困るのだろう。事情を聴いて、この先生が動いたのである。

 さすが医師は力があるなと僕は感心するのだけれど、この先生の口ぎきで難なく僕の保育園入園が決まったのである。ここから僕の保育園時代が始まることになった。

 

 さて、祖母が存命だった時代にもう一つ象徴的なエピソードがある。これは僕も近年まで知らなかったことであるが、僕は歩き始めるのが遅かったらしい。なかなか立って歩くということができなかったらしい。

 もちろん、この遅れは「正常範囲」のものであったそうである。平均よりも遅いということだ。何か「異常」があるとか、障害があるとかいうわけではない。

 しかし、このことは僕の生を象徴している。平均よりもいつも遅いのだ。スロー・ラーナーなのだ。そして、なかなか一人で歩みだせないのだ。後の人生においても、僕はそんなことを度々経験してきたように思う。

 

 

 

 さて、誕生から保育園に入るまでの時代を二項に渡って綴ってきた。ここで記述されていることは、僕は直接的には記憶していない。後年になって聞かされた話に基づいているし、多分に僕の憶測が入り込んでいることも否めない。

 ただ、僕の記憶にある限りでは、この時代、僕に関して良い話を聞いたことがない、悪いことばかりではなかっただろうとは思うのだけれど、いい話を僕は聞かない。そのためか、記憶にない割りには、すごく苦しい時代だったという感覚がある。家族や家庭の状況とか雰囲気とかから、何かを感じ取っていたのかもしれない。漠然とした何かである。今でも僕の中にある基調カラーというかムードというか、そういうものが当時から生まれていたのかもしれない。なんとなく、当時から連綿と引き継がれている何かがあるように感じている。

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

PAGE TOP