12年目コラム(70):世相篇~「ゆとり」と「悟り」
いつの時代でも若い世代にはその世代特有の名前が付けられるものだ。僕が生まれる以前の人たちでは「ヒッピー」と呼ばれる若者がいた。
僕がヤングだったころ、1990年前後のことだが、僕たちの世代は「新人類」などと呼ばれたものだ。僕には謎のような言葉だった。いっそのことガンダムみたいに「ニュータイプ」と呼んでほしいものだとも思った。
こういう名前をつけるのは上の世代の人たちだ。彼らから見ると、僕たちは「新人類」になるのだろう。一体、「新人類」って何だと、僕は思った。僕たちの何が「新」なのだろう。僕には分からなかった。
この経験は、そのカテゴリーの中に属している限り、個人はそのカテゴリーを定義できないということを僕に教えてくれた。まあ、それはいいとして、僕たちは「新人類」と呼ばれていたけど、僕には何も「新しい」ことなんかなかった。
その後、時代は流れて、「ゆとり世代」や「悟り世代」なんて呼ばれる世代の人たちが現れた。
「ゆとり世代」とは、「ゆとり教育」時代に学生だった年代の人たちだ。学校が週休二日になるっていうのは、僕たち世代からすれば信じられないことだった。外国では普通のことかもしれないけど、小中高、さらには大学まで、土曜日は授業があるのが普通だという感覚がある(ただし、土曜日は半ドンだけど)。
それにしても「ゆとり」がどういうことであるかをきちんと考えられていただろうか。本当の「ゆとり教育」とは、今まで10時間かけて教授していたことを20時間かけるということではないだろうか。そうすると、「ゆとり教育」とは日曜日も授業をすることである。土曜日を休みにしても、一日の授業数が増えるだけでは、同じことなのである。むしろそれ以前の方が「ゆとり」があったように僕は思う。
ちなみに、「ゆとり世代」に属する人の中には、「ゆとり世代」だと言われることを嫌悪する人たちもいるようだ。その人たちは、自分がその名で呼ばれないよう、懸命にならざるを得ないようである。とても「ゆとり」のある人たちであるようには、少なくとも僕には、見えない。
「悟り世代」というのは、それよりも後の世代の人たちで、何かを悟っているらしい。「らしい」っていうのは、実は僕自身よく知っていないからである。
とにかく、何か悟ったようなことを言う世代らしい。でも、悟ったようなことを言うことと悟りとは別物である。ここは押さえておきたい。
ところで、人間は誰にも悟りの境地を経験した時代がある。それは乳幼児時代である。乳児たちを御覧なさい。彼らこそ「悟り」の境地を体現しているのだ。ただ、彼らは自分が「悟り」に至っているなどと自覚していないだけである。
ただし、これにも区別が要される。悟りの境地を体現していたということと悟りを得たということとは別物である。
それは、乳幼児には「悟り」にいたる前段階が欠けているためである。僕たちが「悟りの世界」に至るためには、その前に「迷いの世界」に生きなければならない。乳幼児にはそれが欠けているのである。乳幼児は一度「迷いの世界」に踏み出さなければならないのだ。
しかし、上の表現では誤解を招きそうだ。僕の考えでは、「悟りの世界」に生きることは「迷いの世界」にも生きることである。両者は別世界ではないと僕は考えている。
僕は思うのである。「悟り世代」は本当に「迷いの世界」をきちんと生きているだろうかと。そうでなければ、それは乳幼児の段階と同じ生である。「迷いの世界」に踏みとどまっていない人の「悟りの言葉」なんて、空虚である。彼らのそんな空虚な言葉を見て、悟ったようなことを言うなどと思う上の世代も質が低いのである。
「新人類」には何ら新しいものなぞなく、「ゆとり世代」にゆとりは無く、「悟り世代」に悟りは無い。その世代に無いものを上の世代は見て取っている。問題は上の世代である。若い世代に無いものを、有るものとして定義づけてしまっているのではないだろうか。その場合、上の世代が物事をきちんと見ることができていないのである。
付記として、僕の書いているものは「悟り」でも何でもない。もし、僕の書いているものを読んで、「こいつは何か悟っておるな」と思われる人がいるとすれば、その人にはもう一度「悟り」とは何かを考えてみられることを僕はお勧めする。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)