12年目コラム(38):取り入れ・同一視・対象恒常性(3)
取入れと同一視が生じるためには常に他者の存在を必要とする。重要な意味合いを持つ他者の何かが取り入れられることになり、その人の一部が自己に含まれることによって、疑似的にではあれ、その人との一体感を体験する。つまり、相手と同じになるという感覚である。これが同一視ということである。
他者の何かが取り入れられる時、そこで生じるのは自我の変化である。取入れられたものは、自我の中にその位置を占める。自我はそのための場所を空けるわけだ。かつて他の何かが君臨していたところにそれが位置することもあろう。こうして、一つ取入れが行われると、自我の再編成がなされていくことになる。
クライアントが僕に似てきたと感じる時、僕が嬉しくなる理由の一つがここにある。僕の何かが取り入れられることによって、クライアントの心が再編成されていく可能性を見出すからである。
何が取り入れられるかということであるが、それは僕の何かである。しかし、クライアントは、前にも述べたように、自分に欠けている何か、修正したい何かを取り入れるものだと僕は考えているので、クライアントの必要からこの過程が生じているのである。そして、取り入れられるのは、僕の何かであると同時に、僕との間で経験した何か、もしくは僕との間で経験した場面が取り入られていくと僕は考えている。
今の最後の部分を例証してみよう。あなたは小学校1年生の時の担任の先生を思い出せるでしょうか。思い出せなければ別の学年時の担任の先生でも構いません。小学校時代の担任の先生を思い出してください。いかがでしょう、思い出すことができたでしょうか。
では、その担任の先生のどのようなことが思い出されたでしょうか。言い換えれば、僕が思い出してくださいと頼んだ時、担任の先生のどんな像があなたに思い浮かんだでしょうか。
僕は確信しているのですが、あなたは担任の先生を、あたかも証明写真のように思い浮かべたのではないと思う。あなたが担任の先生との間で経験した場面を思いうかべたのではないでしょうか。
記憶ということにしろ、対象の取入れということにしろ、決して相手を静的には保持していないのである。相手との間で経験したこと、経験した場面を通して、相手は記憶に残り、相手の何かが取り入れられるのだ。僕はそう考えている。
従って、ここに対面して面接することの意義がある。目の前に現実の人間がいるということがとても重要になるわけだ。僕は個人的にはネットカウンセリングや電話カウンセリングではこのような過程が生じないと考えている。中には、ネットや電話を使ってもそういう過程が生じうると考えている人もおられるようだけど、それでも面接には劣ると僕は考えている。
同様に、いくら書籍を紐解いてもなんら変わらないという人がいてもおかしくないということの理由もここで明らかになる。取り入れる対象が不在だからである。文面を通して著者の何かが内在化されたとしても、それは空想的取入れの域を出ないものだと僕は考えている。
いくつか補足しながら、ここまでのことを簡潔にまとめてみよう。
クライアントは臨床家と面接する、カウンセリングを受ける。早い段階で生じる人もあれば時間をかけて成し遂げていく人もあるが、クライアントと臨床家との間にラポールが形成され、クライアントは臨床家に対して、いわゆる陽性転移を起こす。
この陽性転移に助けられて、クライアントは臨床家の像を取入れ、内面化していく。そこではクライアントにとって、欠けているものや修正したい部分に関する何かが取り入れられているのであるが、これは同一視という形で具体化される。つまり、ある種の模倣がクライアントに生じることになる。
この模倣は、臨床家の中の何か、クライアントから見て望ましい何かに関係しているものである。従って、この模倣は、クライアントにとって望ましい何かを自我に同化していく試みとして理解することができる。
望ましい何かが取り入れられることによって、クライアントの自我にあった望ましくない傾向は、新たな取入れ物によって中和されていくことになる。さらに、新たな取入れ物は自我理想の形成へとつながっていく。
こうして、取り入れられた内容物は、自我に組み込まれ、自我が再編成されていく契機となる。
内在化された像は、その後のクライアントの経験によって、修正されていき、かつては臨床家のものであったそれがクライアント独自のものに変容していく。
こうして人間の心が変容していくわけである。
さて、ここで述べたのは大雑把なアウトラインのようなものである。もちろん、これが唯一の人間の心の変容のプロセスというわけでもない。他のアプローチやプロセスも当然あるわけである。
また、取入れに関して問題が生じてしまうという例もある。部分的取入れであることが望ましいのだけれど、一部の人は全体的取入れをしてしまう。つまり、それまで自分の中にあったものをすべて放棄してしまうことである。
また、対象の何かを取入れ、そこに同一視することで収まればいいが、一部の人は対象を現実に手に入れようとしてしまう。心の中で自分の一部にしていくことができず、現実に自分の一部にしてしまうという例である。それは、例えば、臨床家に恋するクライアントたちである。いや、臨床家に対する好意や恋愛感情のようなものをクライアントが抱くのはよくあることである。問題となるのは、それを実現化しようとしてしまうことである。行動化してしまうということだ。
他にもあるが、これらの諸問題についてはここでは立ち入らないことにする。
もう一つだけ取り上げたいことがある。上記のようなプロセスは、カウンセリングや心理療法に特有のものではないということを強調しておこう。むしろ、人間の発達はそのような形で成し遂げられていくものである。僕たちが人生において繰り返してきた過程である。ただ、そういうプロセスを踏んできたということを知らないだけで、実は一般的な人間関係で普通に見られることである。
ただ、日常の人間関係でそのようなプロセスが展開するのは、比較的稀である。特に大人になってからはそうである。通常はそこまでのプロセスが展開されるほどの関係を築かないことが多いと思う。
カウンセリングの関係、あるいはカウンセリング場面で生じていることは、日常の生活の中で必ずしも体験しないわけではないが、日常と異なる点は、カウンセリングではそのプロセスができるだけ速やかに展開していくように試みていることである。そこにカウンセリングの個別性、日常的な関係との差異があり、専門性があると、僕はそう考えている。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)