12年目コラム(37):取り入れ・同一視・対象恒常性(2)
人は他者の何かを取り入れる。そこから相手への同一視が始まる。この同一視は相手のしていることの模倣という形で見られることが多い。
この時、本人にとって、相手が意味のある存在となっていること、もしくは相手との関係に意味があるということが感じられていることが前提である。無関係の他者に対してこういうことが起きることは稀だと僕は信じている。
クライアントが臨床家の何かを取り入れる時、もちろん無意識的な取入れであるが、この時、取り入れられるのは、クライアントにとって欠けている何かであり、クライアントが修正したい何かである。
従って、クライアントが僕に似てきたなと感じると僕が嬉しくなるというのは、この人にとって僕が意味のある存在だと思えるからである。そして、僕を通じて、この人が回復しようとしていることが見えてくるからである。
重要な他者を取り入れていく中で、あるいは重要な他者との関係を取り入れていく中で、人は成長していくものである。ウィニコットの「一人でいられる能力」のように、母親が取り入れられることで、一人でいても母親と一緒にいるという経験をするわけである。
また、取入れや同一視が衝動性や攻撃性を中和すると言われる。これは考えるとよくわかる話である。それを制止する対象を取り入れるからである。この事実を如実に示してくれるのが、いわゆる「境界例」と診断されるような人たちだ。好ましい対象が取り入れられ、それに同一視している時、この人たちがいかに穏やかになられるかは、日頃からこの人たちと接している周囲の人にはなかなか見えないものである。
こうしたことは、現実にそれを目の当たりにした人でなければ理解しにくいと思う。「境界例」に限らず、クライアントの中で取入れや内在化、同一視の過程が始まると、クライアントは目に見えて落ち着きを見せる。安定するわけだ。カウンセリングの場で支持されて、その支持が内在化されるからである。支持してくれている他者との経験を取入れ、クライアントが自分自身を支持していくようになるからである。
取り入れて、同一視し、内在化した対象は、クライアントの中で恒常性を保つ。好ましい対象や体験が個人の中で留まり続けるということである。だから、これのもたらす影響は「永続的」なのである。
また、対象となる他者が取り入れられ、同一視していく中で、いわば「あの人のようになりたい」といった気持が生じる。これが自我理想になっていくわけである。この自我理想に支えられて、その人には時間的展望が根付いていく。未来が開けてくるのである。
対象は取り入れられ、その人に内在化されるが、この像は一定不変のものではなく、変容していく可能性を秘めている。分かりやすく言えば、最初は相手の模倣そのままだったものが、その人流にアレンジされていき、それがその人らしさになっていくのだ。
自我理想だけでなく、対象の取入れや同一視は「共感」ということの基礎になる。
共感とは他者の視点の取入れということである。相手がどう感じているかを相手(他者)の視点に立って見るという構図があるわけだ。他者の取入れという経験がないと、これが難しいということは想像に難くないと思う。
例えば、母親が怪我をしている子供を見て「痛そう」と言う。これを聴いた子供は、自分が怪我をしたときに、「痛い」とは言わず、「痛そう」と言うだろう。これは母親を取入れ、母親に同一視しているということである。しかし、この段階を経て、自分が怪我をした時には「痛い」と言い、誰かほかの人が怪我をしているのを見て「痛そう」と言うようになる。自他の区別を学ぶからである。そして、これは共感の基礎にある体験であるということだ。
僕は自分では共感能力がそれほど高いとは思わない。人並みに共感能力はあるだろうとは思うが、格別優れているとも思わない。
ただ、共感能力というのは、日常のあらゆる場面で求められるものである。優れていなくてもいいからある程度の共感能力は有している方がいいとは言える。
成績のいい営業マンや販売員の中には、ゴリ押しで売りまくるという人もあるかもしれないけど、中にはとても共感性の高い人もあるだろう。客が何を求めているのか、このセールストークをどこで打ち切ればいいか、そういうことを相手から感じ取るのだと思う。
夫婦関係でもやはり重要である。DV問題とか、問題を抱えて上手くいっていない夫婦たちと会っていると、「共感性」の重要さが実感される。こういう夫婦では、夫婦のうちの一方、もしくは双方が、共感性をひどく欠いていることが窺われるのだ。時には、本当は自分が相手に共感できないでいるのに、相手が病気だから理解できないのだという論を展開される人もおられる。つまり、共感能力の欠如している自分の問題ではなく、理解不能の精神病である相手の問題だと言っているのである。
同じことが親子関係でも見られる。子供を理解できないので、子供がおかしいと言う親もあれば、親を理解できないので親を攻撃する子供もいる。理解できないのは、知識に欠けている場合よりも、共感性に欠けているという場合の方が多いように思う。
すごく大雑把な言い方だけど、仕事や人間関係で上手く行かない、成功しないという人は、どこか共感性に欠けていることが多いように思う。
いささか話が脱線してしまったけど、要は、クライアントの中で臨床家の何かが取り入れられ、内在化し、同一視していく過程は、その後、クライアントの共感性につながっていく、そういう可能性があるということである。
クライアントの視点で言えば、自分のために一緒に考え、自分のことを考えてくれた臨床家の姿や経験が内面化すると、かつて臨床家との間で行ったように、今度は他者に対して、他者のために一緒に考えたり、他者のことを考えたりするようになるわけである。
一部のクライアントにはこれが顕著にみられた。彼らは仕事の成績が良くなったり、人間関係がうまく行きはじめるのだ。
カウンセリングを通して、なぜクライアントが良くなっていくのか、変容していくのか、前回と今回で大雑把に素描してきたのだけど、あくまでここで述べたことは一つの基本原理のようなものであり、簡単なアウトラインのようなものである。現実にはさまざまなヴァリエーションがあり、その達成を妨げるさまざまの障害物がある。
上記のような過程が速やかに進行すればいいのだけど、そうはいかない例も数多くある。例えば、人や世界に対して敵意を漲らせている人や、他者を拒絶してしまうといった人の場合、上記のプロセスは難航する。時には、そのプロセスに入る以前に中断してしまう。
敵意や憎悪は、ここでもやはり大きなテーマとなる。これらは常にその人にとって望ましいプロセスを妨げるものだと思う。このテーマに関しては、別の個所にて述べようと思う。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)