12年目コラム(33)人間の潜在性(2)
人間は「潜在性」に富む存在である。
この基本命題を受け入れると、多くの不要な区別をしなくても済む。病者と健常者、加害者と被害者、性善説と性悪説、こうした二元論から解放される。
病者には常に健常が「潜在的」に存在し、健常者は「潜在的」病者である。何が顕在化しているかの違いでしかない。どれほどの「病者」であれ、その人の中に健常な要素があるからこそ、あるいは、それがあると信じられるからこそ、人は人を援助し得るのであり、「治療」やセラピーの可能性が開けてくるのだ。
クリニックに勤めていた頃、F先生という女性の臨床家がいた。この先生は口癖のように「あの人は完全な人格障害」と言っていたのを思い出す。僕の大嫌いな口癖だ。何がいけないのか。「完全な」の部分である。完全な病者など存在しないし、完全な健常者も存在しないものだ。
DV問題では、一応、「加害者」立場の人と「被害者」立場の人とを区別することができる。しかし、それはある特定の場面においてのみ可能となる区別である。別の場面では両者が役割を交代していることもある。「被害者」は「加害者」に、「加害者」が「被害者」になっているという場面も頻繁に見かける。完全な「加害者」もなければ、常に不変の「被害者」もない。その時々で顕在化させているものが異なるだけなのだ。
ある母親は自分の子供の言動に困惑し切って来談された。数回、この母親と面接を重ねた後、子供がとても落ち着いてきたと報告された。子供にとって何が良かったのか、この母親には理解できないでいたし、母親自身は自分は今までと同じようにやっていると信じていた。しかし、もし、一緒に生活している子供の言動に変化が見られたのであれば、母親が何か違ったことをしているはずである。どんな些細なことであれ、何が以前と違うかをよく見てもらうよう、僕はこの母親にお願いした。
翌週、母親はこの宿題をこなして来談した。母親曰く、何が以前と違うのかに気づいた、それは子供を「病気」だと見なくなっているということだった。恐らく、それは正解である。
母親が子供を「病気」と見做しているので、子供は自分の「病」を顕在化するしかなくなっているのだと思う。あるいは、子供の「潜在的健常」の部分が、母親のその観点のせいで見えなくなっていたのかもしれない。いずれにしても、この子には潜在的に健康な要素があり、母親の認識や態度の変化によって、それが顕在化していったのである。
一つ付け加えておくと、潜在的要素はよほど顕在化されない限り気づかれないものである。少しだけ表に現れているというようなものは、大抵の場合、無視されたり、見過ごされたり、過小評価されたりするものである。
上記の母親の例は、顕在化に必要なものが何か、その環境的要因は何かについて、ある種のヒントを与えてくれる。
自分自身が自分の何に関わるか、そして、重要な他者が自分の何に関わっているか、そういうことがけっこう重要なのだと思う。母親はこの子を「病気」だと見做し、「病者」として子供に関わっていた。子供はそれを顕在化するしかなくなる。なぜなら、この子にとっては、そうすることが母親と良好な関係を築くことの条件となるからである。一方が他方を「病人」とみなし、他方がそれに適った振る舞いをするなら、この両者の間に葛藤や軋轢、矛盾が生じなくなり、お互いに困難を回避できるのである。
後光効果とかピグマリオン効果と言われるものも、人間の潜在性を示す現象だと思う。
僕があなたをある種の傾向として見る。つまり、あなたはこういう人だという「見解」を僕が持つ。僕とあなたとの関係において、あなたはそれを顕在化するようになる。それを顕在化することがこの関係において好ましいこととしてあなたに経験されるからである。
僕はクライアントのイメージを持ちたいと思う。僕に上手くそのイメージが浮かんできたら、それを持ち続けたいと思う。このイメージを押し付けるとか、そういうことではない。ただ、僕の中にそれを持ったままクライアントと関わるということである。
僕にはそれがどんなふうにして生じるのか、理論的に証明することが難しいのだけれど、このイメージに近いことをクライアントがしていくようになる。人間関係の不思議なところである。
クライアントのイメージということについては、次に述べていこうと思うテーマであるので、それ以上にここでは触れないことにする。
要は、人間は潜在的な存在であり、病んでいる時や上手く行かない時には、もっと他のものが顕在化していく必要があるということだ。その条件を整えることと、それが自然に顕在化していくような関係を形成することが目指されるわけである。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)