12年目コラム(47):出会った人たち~人生経験「豊富」な人たち
カウンセリングの勉強をしていく中で、また、こうして開業してからも、たくさんの人と出会った。その人たちの思い出も綴りたいと思う。
ただ、いい人たち、尊敬できる人たちは、それこそたくさんおられるので、その一人一人の思い出を綴りたい気持ちはあれど、たいへんな分量になると思う。だから、こちらは断念する。
ここで取り上げるのは、それ以外の人たち。僕が怒り、嫌悪し、軽蔑したくなるような人たちだ。それほど多くはない。それにカウンセリング関係の人だけに限定する。
「私は人生経験が豊富だから」
大学生のころの学生相談室の先生がそういうことを言った。どこかの学校で長年教師をして、それを退任したという高齢の先生だった。
同じことを研修中の同僚からも聞いた。この人も定年退職したというような人だった。企業に長年勤め、それなりにいろんな経験をされたことだとは思う。
一部の年代の人にとって、人生経験ということはとても価値があるように思われるのかもしれない。それはそれで構わないと思う。彼らが自分は人生経験が豊富だと自負するのもまったく構わない。
僕は信じている。人生経験の量なんて、カウンセリングにはほとんど関係がない、と。過去の経験は、援助に有益なこともあれば、援助の妨げになることだってあるし、その経験をして良かったと思えることもあれば、その経験をしていない方が良かったと思えることだってあるだろう。
ところで、カウンセラーに限らず、「自分は人生経験が豊富だ」と自称する人を、僕は軽蔑する。まったく知恵がないように見えるのだ。
そもそも、人間が100歳まで生きたとしても、たったの100年で経験できる事柄なんてたかが知れていると僕は思う。あらゆることを経験するのに、100年なんて短すぎる。300歳まで生きても同じことだ。人間の経験することに限りはないのだ。だから60年や70年生きた程度で「人生経験が豊富」だと豪語する人は、僕は信用できないし、狭い知見の持ち主であるようにしか僕には思えないのだ。
また、僕は男性として生まれ、男性として生きている。このことは、僕は女性が経験することのすべてを経験できないということを意味しているのだ。妊娠、出産の経験を僕はすることはないだろう。生理でさえ、僕は経験しない。乳癌がどういうものであるのかさえ、僕は経験できないだろうと思う。
つまり、男性として生まれた以上、女性しか経験しないような事柄は経験できないのだ。それなのに「人生経験が豊富だ」などと言えるだろうか。
女性として生まれた人も同じことだ、男性しか経験しないような事柄を女性は経験しないまま終わるのだ。野球のボールがキ○タマに当たった時の痛みは女性にはわからないだろう。本当に○ンタマがめりこむような痛さで、吐き気がこみあげてくる感じだ。
どちらかの性に生まれた以上、他方の性が経験することは経験できないのだ。言い換えれば、生まれたときから、僕たちには経験できない事柄が決定されているのだ。
人生経験が豊富だと自称する人たちには、自分の経験しか見えていないのではないかと思う。自分が経験し得ない事柄は、無視されているか、認識もされていないのかもしれない。もちろん、これは僕の一方的な見解だ。
時代や国、文化の影響もある。僕は戦争を経験したことがない。それはたまたま戦争をしていない時代の国に生まれたからである。時代が違えば、あるいは国が違えば、僕もまた戦争を経験していたかもしれない。
人生経験が豊富だと自称したあの人たちも、戦後は経験しただろうけど、実際の戦場は経験していないはずである。戦時中、彼らは子供だったはずだからである。ましてや、武士の経験もしていなければ、ギリシャ・ローマ時代のガレー船漕ぎの経験もしていないのは明らかだ。彼らは自分の経験しか見えていないのだろうし、それ以外の経験がどれほど莫大なものであるかに思い至らないのじゃないだろうか。
つまり、人類が経験してきたことの莫大さに比べれば、100歳の人が経験してきた事柄なんて、無に等しいものである。僕たちは大部分の事柄を経験しないまま人生を終えるのだ。とても人生経験豊富なんて言えたもんじゃない。
経験の量よりも、一つ一つの経験がしっかり自分に根付いている人の方が、カウンセラーとして有能だろうし、人間としても深みがあると思う。一つの経験が根付くということは、その経験を反芻し、語り直し、しっかり学び取ることである。そういう過程を経て、経験は自我に根付いていくものだと僕は考えている。
出勤途中、ある家の生垣に花が咲いているのを見た。これは僕の経験したことだ。取るに足らない経験かもしれない。おそらく、数日もすれば、この経験は僕の記憶から失われていくだろう。
しかし、僕が、どうしてあの花が目に付いたのだろう、あの花にどうしてこうも印象付けられたのだろうと、いろいろ考えていくとする。いくつもの疑問を投げかけ、連想を働かせていく。すると、数日前にはつぼみだったのに、こうして花を咲かせた生命力に感動したのかもしれない、あるいは、その花の背後に、その花を育てた人の愛情を感じ取ったのかもしれないなどなど、思い当たることがいくつも出てくるだろう。
どれか一つの正解に絞る必要はない。でも、こうなると、これは単に出勤途中に花を見たという経験以上の経験であることがわかると思う。僕は、花を見ただけでなく、花の生命力や育てた人の愛情に触れる経験をしたのである。そうなると、花を見たという何気ない経験は、僕にとって大きな意味のある経験となって僕に根付いていくことになるし、僕は貴重な経験をしたことを初めて知ることになる。
もし、これからカウンセラーになろうという人がこれを読んでくれているとすれば、僕は一つだけアドバイスしたい。今日が平凡な一日だと思えても、その中に貴重な経験をしていないか、探してみることをお勧めする。本当は価値のある体験をしたかもしれないのに、僕たちはそれを見過ごしてしまっていることが、本当に多いと思う。
そう、人生経験なんてものは必ずしも豊富でなくても構わないのだ。案外、豊富な経験をしている人は、一つ一つの経験を疎かにしているかもしれない。100の経験をするより、一つの貴重な経験をした人の方が素晴らしいことだってあるのだ。僕はそう思う。
そして、人生経験が豊富だと自称する人、その経験を頼りにカウンセリングをしようという人たちに対しては、もう少し開眼することを願う。彼らも決して悪い人間ではないのだ。ただ、もう少し経験に目を開くだけでいいのにと、そう思う。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)