12年目コラム(7)―<臨床心理士資格への嫌悪(終)>
この「臨床心理士資格」シリーズもいい加減に終えようと思っていたのだけれど、もう後一、二点だけ書き忘れたことがあった。それを書いてこのシリーズを終えよう。
この資格取得は多少の融通が効く。臨床経験が認められれば、認定される場合があるそうだ。しかし、ここにも落とし穴がある。
この「臨床経験」とは、あくまでも「臨床心理士」取得者の下で仕事をしたという意味であり、「臨床心理士」取得者による推薦や証明が添えられないといけないのだ。
結局は師弟関係ということだ。「臨床心理士」は弟子を「臨床心理士」に推薦する(認定するのは協会だけど)ことができるというだけのことだった。
僕は開業して丸11年になろうとしているけど、上記の基準で言えば、この11年間は経験と見做されないということなのだ。臨床心理士の下でたとえ1日でも経験を積んだ人にさえ、僕は負けるわけだ。その人にはその1日の経験が認められるけど、僕はゼロであるからだ。
一人で仕事をするということは、こういうデメリットにも耐えないといけないということだ。嫌というほど思い知らされる。誰一人として僕の経験を証明してくれる人がいないのだ。僕の11年間の経験は、誰からも決して認めてもらえない類のものなんだ。
高槻で開業した時、はっきり言って、なんのコネも伝手もなかった。高槻という場所自体にこれまで縁がなかったから、人脈もなく、本当に見ず知らずの土地に飛び込んで、いきなり始めたのだ。
飲食店なんかだと、独立する時に、贔屓客を引き抜いたり、事前に宣伝したり、開業してから知人や友人に案内を出したりとか、いろいろできるけど、僕の場合はそういうことが一切できなかった。一人のクライアントに来てもらうのに、それこそ必死だった。
開業して分かったことは、自分が働いて、自分の手で稼いでいるという信念を持っている人たちは、すべて間違いを犯しているということだ。その人に仕事があるのは、会社の名前があるからなんだ。その会社の名前でまず相手に信用してもらえているだけなんだ。それを自分の実力と勘違いしている人もけっこうおられるように思う。営業に回って、自分が仕事を取ってきたと偉そうな顔をする人もあるだろうけど、本当はその人個人の力ではなく、会社の力なのだ。
同じことが資格にも言える。臨床心理士が仕事をできるのは、単にその資格があるからというだけのことで、その臨床家個人の力ではないのかもしれない。<コラム5>で臨床心理士の資格証書をデカデカと飾り立てていた臨床家のことを書いたけど、結局、ああいうふうにするしかないんだろう。その臨床家個人の力とか魅力とかいうものが、資格に比べて、なんて非力なんだろうとさえ思ってしまう。だから資格の威力を前面に出さなくてはならなくなるのだろう。
そう思うと、あの臨床家もけっこう哀れである。自分の実力とか魅力とかでアピールできず、結局、たった一枚の紙切れを前面に打ち出すしかないのだから。
僕も一応は資格を有している。それを提示することはないし、ここでも公開したりはしていない。今後、そういうことをしてみようかとも今は考えているが、少なくともこれを書いている現時点においては、僕はそういうことをしていない。
僕は僕の有する資格を見てもらうよりも、僕の個人的な経験を見てもらいたいと思っている。このサイトに長々と僕が綴るのもその思いがあるからだ。同じ資格を有している人たちであっても、これまでに経験したことは一人一人異なっているものだろう。
臨床心理士資格取得者を探そうとしている人たちに、僕は尋ねてみたい気もする。「あなたは臨床心理士の資格を有するカウンセラーさんを探しておられるのですね。では、どういう経験をしてきたカウンセラーをお望みなのでしょうか」と。おそらく、答えられまい。そこを考えないから資格だけで選ぼうとしているのだと思う。資格というのは、手っ取り早い選択肢でもあるからだ。誰かを選ばなくてはならない場面で、じゃあ、それに適した資格を有している人にしようと決めるのは、手っ取り早い上に、煩雑な葛藤を省いてくれるものである。安易な気持ちの人はそれをするものだと思う。
要するに、有無を言わさぬ勢いで「臨床心理士ですか」と僕に尋ね、違うとなればガチャンと電話を切るような人は、自分のカウンセラーを自分で選べない問題を抱えているということなのだ。
どうして選べないのかに関しては様々な背景や事情があるだろう。例えば、混乱していたり自分自身が不明確だったりして、自分がどういう人を求めているのか、どういうことを期待しているのかが理解できない状態にあるのかもしれない。また、人間不信だったり、誰をも好きになれないといった問題を抱えているのかもしれないし、「専門家」と見做されるような人に対して嫌悪感を覚えてしまうといった類の問題を抱えているのかもしれない。
そのような場合だと、自分のカウンセラーを選ぶのに、自分の感覚を頼りにできなくなるだろう。自分を当てにするよりも、資格の有無で決めてしまう方が、理に適っているように思われているだろうし、負担が少ないやり方であるように体験されていることだと思う。だから、そういうふうにしてしか選べない人の気持ちも多少は分かる気もするのだ。
その人の抱える問題や状況と、この資格の神格性と、僕の状況との三者が揃った結果であるとは言え、いきなり電話を切られる側にしてみれば、いい迷惑である。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)