12年目コラム(6)―<資格と専門性>
これまで述べてきたように、「臨床心理士」は一つの学会が認定する、いわば民間資格だったわけだ。他にもそのような資格が多数にある。どうして一民間資格だけが国家資格になるのだろうか。各学会や団体が協力してそういう運動をするのならわかるけれど、そうではないから僕は反感を覚えてしまうのだ。
しかも、その資格は医師並みの資格である。専門性の高い資格だと見做される。そうなると、それは将来の職業や安泰を確約してくれる資格であると、そう思い込んでしまう人も出てくるだろう。
事実、そういう人たちを僕は何人か知っている。臨床心理士の有資格者なんだけれど、結局、ポンコツになってしまった人たちだ。ポンコツだなんて言って失礼。僕は言葉が悪いものでね。要は、その仕事に就いて、潰れてしまった人たちのことなんだけど、でも、そうなったのはその人たちが悪いんじゃない。この資格にそれだけの力を与えてしまっていることが問題なんだ。
実際、心理臨床がどういう仕事なのか、具体的には何も知らず、臨床心理士のイメージと資格のネームヴァリューだけが独り歩きしてきたように思う。
あるスクールカウンセラーさんがいた。初期のスクールカウンセラーさんだ。その人は子供好きで、子供たちと関わり、子供たちを助けたいと、純粋にそう願っていたんだ。それでスクールカウンセラーを目指したわけだ。ところが、実際に働いてみると、仕事の99%は大人との関わりだったそうだ。僕からすると、それは当たり前のことだ。保護者や先生に対しての仕事なんだから。彼女もスクールカウンセラーのイメージと臨床心理士の資格イメージだけで仕事を選んでしまったんだと思う。
潰れてしまうのは、それがどういう仕事なのかよく分かっていなくて、そして心を病む人と常に接するということがどういう体験であるかを学ぶこともなく、先に資格を得てしまうからなんだと僕は思う。
また、カウンセラーは話を聴くのが仕事だと思い込んでいる人がとても多い。僕もその一人だった。イメージだけが先行している感じがする。本当は、聴かないことも仕事のうちで、クライアントの何を聴いて、何を聴くべきでないかを判断すること、どういう話をクライアントから引き出して、何を引き出してはいけないかの判断をすることが仕事なのだ。これに関しては、また別の機会に述べることがあるかもしれない。
コラム(1)のところでも述べたけれど、自分自身を語ることができるのは人間だけであり、それができるということはその人が人間である証拠なのだ。僕はクライアントにもそれをしてほしいと思う。
クライアントが自身の感情体験、歴史を語る時、クライアントは一人の人間となっているのだ。カウンセリングを受けているけれど、なかなかそれができないという人も少なくない。でも、そんな人でも、自分自身を語るようになれることもある。僕はその現場に居合わせることができるのを幸福に思う。
はっきり言う、この体験、この場面には、資格なんて関係がないのだ。むしろ、資格なんて邪魔だと僕は考えている。
もし、僕が「臨床心理士」の資格を有していて、それをアピールしたら、おそらく、今以上にクライアントは増えるだろう。でも、それは僕個人が信用されているのではなくて、その資格が信仰されているだけなんだ。
このこともはっきり言おう。その臨床家が臨床心理士であろうとなかろうと、クライアントは自分が信用できる臨床家に対してはきちんとお金を払うものなのだ。他の分野ではどうか知らないけれど、臨床心理に関しては、その資格にお金が支払われるのじゃないんだ。
僕が資格としての「臨床心理士」を有していないということで、最初から信用されなかったという場面も度々経験した。構わない。むしろ、そういう人には来てもらいたくない。
逆のパターンもある。あるクライアントが話してくれた。僕の所へ来る前に、その人は某臨床心理士を訪れたのだ。オフィスがあって、壁に臨床心理士の立派な証書がデーンッと飾ってあったという。その人はそれがひどく不快に感じたそうだ。
その人がこの話をしてくれて、僕も「そうでしょう。あんな紙切れ一枚に莫大なお金と時間をかけているんですよ。バカでしょ」と言って、二人で大笑いしたのでした。
結局、そのクライアントにとって、その臨床心理士はどこか信用できないけれど、僕のことはどこか信用できると思って来てくれたのでした。そういう人が来てくれるのが、僕にとっては一番うれしいことなんだ。
最後に僕の個人的な立場というか理想を述べておこう。
僕は資格と専門性とは分けて考えなければいけないと思う。時に両者を一緒くたに考えている人もあるけれど、僕は別のものだと考えている。
また、専門性があることとその専門性を表に出すことも別のことだと考えている。サリヴァンとかベネデッティなんかのケース記録を読むと、まるで普通のやりとりだったり、普通にケンカしているだけというように見える場面がある。それでもそこに高い専門性が秘められているのだ。そういうのに僕は憧れる。
一見すると普通の会話なのだ。専門的な会話ではないのだ。その普通の会話の中で、クライアントが変容していく、一番無理のない「治療」であるように僕には思える。
その理想は、資格という「ご威光」があると却って邪魔になり、実現から遠のくのではないかと、個人的にそう思うこともある。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)