12年目コラム(25):目的論(1)
クライアントたちを見ていて思うのは、彼らがあまりにも因果論に囚われすぎているということだった。因果論そのものは否定しないつもりだけれど、僕が思うに、因果関係で捉えることのできない領域にそれを持ち込んでしまうので、それ以上に前に進むことができなくなっているようだ。
そこで、この因果論をどうにか打破したいと思う。その端緒として意味論を取り上げた。ある現象は何かの結果と見るのではなく、その現象にどんな意味があるかという観点である。
しかし、意味論だけでは片手落ちなのだ。もう一つの視点として目的論を取り上げようと思う。ある事柄の意味はそれ自体目的となっていることもあり、両者は重複する部分もある。一方で、ある現象の持つ意味と、その現象が目指す目的とが異なる場合もある。
どれだけ問題となる行為であれ、その行為をする目的というものが必ずある。何の目的もないように見える場合、その目的が無自覚であったり無意識的であったりしているだけで、探求すると目的が見えてくることも少なくない。
ここで一つ注意しておきたいのは、しばしば目的と理由が混同されてしまうということだ。「ある行為がなぜ生じているのか」という問いは理由を問うていることになる。目的を問う場合、これは「ある行為は何のために生じているか」という形式になる。この違いはけっこう重要である。
もし、ある男性が妻に暴力を振るうとしよう。彼が「衝動を抑制できないからだ」と答えたなら、それはこの行為の理由を述べているに過ぎない。見てわかるように、これは因果律にかなり近いものである。
目的論的見地に立てば、この男性が妻に暴力を振るう場合、彼なりの目的があるはずだと考えることになる。この観点に立つと、いわば、彼の暴力は彼自身の救済に役立つものとして彼には体験されていることになる。
他にも、例えば、手洗いが止められないというような行為でも、その行為者にとっての何らかの目的がある。その行為をすることで行為者の何かが救われているなり、役に立っていることがあるはずである。何の役にも立たない行為であるならば、速やかに消失するはずなのだ。
人によっては、こういう話はすごく不自然なように聞こえると思う。本人も厄介な行為だと体験しているのに、それに何かの目的があって、しかもその目的が本人にも分からないなんて、おかしいと思うかもしれない。確かにそう思われても当然だと思う。精神分析や無意識の心理学の知識があると、これはあまり不自然なことではないということが分かるのだけれど、そうでない人にとっては「神秘」的な話のように聞こえると思う。
でも、僕はクライアントやこれを読んでくれている人に神秘の世界に誘おうという気持ちはまったくなく、ただ、一歩進めてほしいと思うだけである。
子供の事で来談された夫婦があった。以前からこの子の様子がおかしく、日に日にその言動がおかしくなったと言う。親はどう接していいかわからず、オロオロするばかりだった。あまりにこの子の言動がひどくなってきたので、両親はこの子を精神科医に見せる。幸か不幸か、この子はある診断名を付されることになった。
幸か不幸かと述べたのは、病名がついたことにより、「この子は○○病だから」と考え、親が今までのようにこの子に圧力をかけなくなった利点があったのだが、一方で、この親子の間は「○○病」という病名で断絶してしまうことになっていたのだ。
さて、僕はこの両親に、その子のその言葉はどういう意味だと思いますかと尋ねてみる。彼らは「意味なんてあるだろうか」と疑問を抱いています。意味がないと思うのはなぜでしょうと僕。彼らは「精神病だから」と答える。そして、これ以上進まないのである。
子供が「おかしな」ことを言っている。親はそれに対して「病気だから仕方がない」という理由づけをする。子供はそこで置いてきぼりにされてしまうし、親はそれ以上子供のことを考えなくなる。この状態が何年も続いてきたようだった。
細部は省略するけど、子供の言動には意味や目的があるかもしれない、そこをよく見てほしいと僕は彼らにお願いする。仮に意味や目的がなくても構わないのだ。これを契機として親たちがこの子のことをよく見るようになったのだ。そして、あの時のあの子の言葉はこういうことを言いたかったんじゃないだろうかとか、いろいろ夫婦間で話し合われたりもする。カウンセリングの場では僕もそれに参加する。
こういうことを繰り返していく中で、親はこの子に対していろんな見方ができるのだということを知っていったように思う。そして、親の視点に柔軟性が生まれれば生まれるほど、親子間の緊張が緩和されていくのだった。
それで「この子の精神病が治ったのか」とか、「治らなかったのなら意味がない」などと思わないでほしい。それは部外者、乃至、傍観者の意見である。当事者である両親は、「子供はずっと治療を続けているし、回復していないけど、家庭の雰囲気がこれだけ良いのは何年ぶりだ」ということをおっしゃられた。
この親子の間で緊張関係が緩和していき、親がより子供の様子を気にかけるようになるほど、子供が安定していって、親子関係で良好な循環が芽生え始めたのである。この子が家庭の中で、親子関係で落ち着きを取り戻すほど、この子の「治癒」の可能性が開けていくのだ。いや、すでにこの子は「治癒」の過程に入っているのだ。
繰り返すが、この親は子供との関係において、因果律しか持ち込んでいなかったところに、目的や意味を持ち込むことができたということであり、それらが停滞していた親子関係を前に進めることに一役買ったということである。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)