12年目コラム(23):意味論(3)
法則の上ではAとBは同じ内容を表すとしても、意味に目を転ずれば、Aではこの部分が強調されBではもう一方の部分にアクセントが置かれているといった違いが見える。ある人の発話Aと発話Bの間に時間的間隔がある場合、それが同じ内容の発話であっても、意味やアクセントの移行が見られることもあり、この移行は発話者の変化や進歩として捉えることができる。それが前回、前々回のこのコラムで述べたことの骨子である。
これまでは言葉の上での、言語表現上の意味という点を見てきたが、同じことは非言語の領域でも見られる。行為やしぐさにも意味があるということであるが、基本的な部分は同じである。
それぞれのしぐさには固有の意味がある。そういうことを研究する心理学分野もある。フロイトの失錯行為の研究もそれを含んでいるし、神経言語プログラミングの分野でも関連する研究がなされている。
ある仕草にはこういう意味があるとされる。それはそれで正しいものではあるが、どういう状況でその仕草が見られるのかによっても意味合いが異なってくるだろう。つまり、一般化や法則化はできないということである。その時々の振る舞いとその人の傾向などをトータルに見ないことには、その意味に思い至らない。
どこかで書いたことであるが、継続中のある女性クライアントが来られた時に、前回のカウンセリングから帰宅した時に怪我をされたと話された。大したことではないと、彼女も言うのだけど、僕の中では、なんとも申し訳ないような気持ちがしていた。
前回、彼女は深い罪悪感を表明したのだ。彼女は自分が怪我をすることでその贖罪をしたのだ。いつもは、そして今までは、そこで怪我をすることなんて彼女にはなかったのだが、その回に限ってそういう怪我をしてしまったのだ。怪我の程度が軽かったのは不幸中の幸いだったけど、それは彼女の中で体験されていた罪意識がそれだけ小さくなっていたということでもある。
僕の不注意も一端を担っていると思う。前回、もう少しフォローが必要だったのだ。
いずれにしても、それ以来、クライアントとお別れする時はいつも「お気をつけてお帰りください」ということを言うようになった。少しでも自分に意識的であってほしいと思うからである。
ある女性は「親切の押し売り」をする。周囲の人が困ってもそれをしてしまうと言う。彼女は「自分は人に喜んでもらいたいだけ」と主張するのだけれど、時には禁止されてもやってしまっていた。本当は秩序を乱し、ルールを破っているだけなのだが、彼女には自分がそういうことをしているという意識はなかった。
もし、知らなかったのであれば、それ以後に慎めばよいだけだ。これは迷惑なんだなとか、ここまでやるとやり過ぎになるのだなということを知れば、後はそれを守ればいいのだ。しかし、周りが迷惑していると分かっても、あるいは、そこまでやることが禁じられていると知っても、彼女は同じことを繰り返す。
彼女の人生が上手くいかないのは、彼女のそうした不誠実さにあるのだと僕は考えていた。それをどう彼女に分かってもらうかが問題だった。彼女は自分が周囲に対して不誠実なことをしているという自覚はなかった。あくまでも善意の施しだと信じている。
彼女は過去に仲間からひどく疎外された経験を持っていた。恐らく、今でも根に持っているのだと思う。彼女はその体験を繰り返し語ったが、いつも恨みを込めて語っていたし、時には非常に激しい口調で当時の仲間を罵るのだった。
僕が思うに、彼女の「親切の押し売り」は、その時の恨みを果たすような意味合いがあるのだ。相手は迷惑を感じている。でも「親切でしていることなの、だから怒らないでしょ」というメッセージも同時に伝えているのだと思う。そうして周囲の人が彼女を敬遠するようになったのだが、この状況はかつての疎外体験を彼女に思い出させるものだったのだ。
他にも例を挙げることができるのだけど、これくらいにしよう。要するに、ある人のある行為には意味があり、それはその行為と矛盾する意味がある場合もある。そして、その行為の意味を理解しようと思うなら、その行為だけを見るのではなく、その人を全体的に見ないといけないのだ。だから、「夫が殴るんです。どうしてですか」などといきなり質問されても僕には答えようがない。まず、その人と旦那さんのことを十分に知らなければならないのだ。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)