<#015-27>S氏3回目面接~解説編(8)
<抜粋>
(51)T:その時にはちょっと感情が入り込んでいたかもしれませんね。それで妻はSさんの問いを無視して、Sさんの手を払いのけて、そのまま行こうとしたので、Sさんは問いに答えろという感じでもう一度問いかけるんですね。
(52)S:そうですね。妻が僕の手を払いのけた時に、さらにカッとなったもので。
(53)T:そこでSさんも引けなかったんですね。つまり、妻が無視して出ていこうとするのを、それ以上、止めなくてもよかったかもしれないんだけれど、そうすることもできない感じになったのかな。
(54)S:そう言えばそうなんです。妻が無視するなら放っておいてもいいのかもしれなかったんですけれど、なんて言いますか、もう後には引けないというか。
(55)T:妻が答えるまでは引き下がることができないような気持というか。
(56)S:そうですね。何と言いますか、なんとしてでも僕の問いには答えてもらうというか、それくらい強い気持ちになっていたように思います。
<解説>
抜粋部分は、問題発生場面におけるS氏の二つ目のアクトに当たる部分であります。妻は、彼の手を払いのけ、彼の問いを無視します。彼が「俺が訊いているんだ、答えろ」と詰問する部分を取り上げています。
(52)では、妻が彼の手を払いのけた時に、彼がさらにカッとなったと言っていますが、おそらく事実そうだったのでしょう。しかし、妻のその行為によって、彼はさらに妻に関わることを余儀なくされてしまったことになります。
(53)は、いささか私の誘導でもあるのですが、妻が無視するならそのまま行かせてもよかったかもしれないという観点を交えています。もし、ここで「さらにカッとなった」という部分を取り上げたり、そこだけを強調してしまうと、彼はその時の怒りを再体験するだけになったかもしれません。恐らく、その再体験は治療的には意味がないであろうと私は考えています。つまり、彼はこの場面で適応に失敗していると私は見立てているのですが、その時のものをそのまま再体験するということは、その失敗をまた体験することにしかならないであろうと思うわけであります。
(54)で、S氏は「妻が無視するなら放っておいてもよかったかもしれない」と言いますが、これは(53)での私の誘導によるものであり、その時は決してそうは思っていなかったであろうと、私は考えています。せいぜい「今にして思えば、そうしてもよかっただろう」といったところであります。いずれにしても、ここで感情を発散させてしまうよりも、そのように考えることができる方がより治療的には意味があると私は考えています。
(55)は、(53)でも少し触れていたのですが、彼は後に引けなくなっている、引くに引けなくなってしまっているということを私は押さえています。私の見解では、妻がS氏を巻き込むと言いますか、引きつけているからであります。そして、ここを押さえておかないと、S氏の中で罪悪感あるいは自責感情が亢進するかもしれないからです。
(56)では、S氏はかなり冷めた目でその場面を見ている感じが伝わってきます。私はそれでいいと思います。感情に駆られて見えなくなるよりも、感情を脇へ置いて、その時の自分をみることができる方が治療的であると私は考えています。彼は何としてでも問いには答えてもらうというくらいの強い気持ちになっていたと言います。これが事実であるか否かは今は不問にしていいのであります。その場面の自分自身を振り返って、見てみるということができれば、カウンセリングの現段階では、いいのであります。
さて、感情には発展とか展開とかが見られるのであります。怒りのような感情でも然りであると私は思います。
S氏は、最初、妻がドアを蹴って開けたというところに反応しました。そのことが彼をカッとさせたと彼は信じているわけであります。実際は、妻が彼を無視する、それも彼の方は妻を無視できない状況を作っておいて、彼を無視するというこの状況全体が彼をして不愉快にさせたことだろうと私は思っています。
S氏の最初の問いかけに妻は無視します。それどころか、彼の手を払いのけています。彼の中で怒りの感情はさらに高ぶることになったのですが、もはや彼は何に対して怒っているのか分からなくなっていたかもしれません。少なくとも、二つ目の詰問は、もはや妻がドアを蹴ったという文脈からは離れていただろうと思われるのです。彼の問いに答えなかったことか、手を払いのけたことか、もっと別の事象が彼の怒りを掻き立てていたように私には思われる次第であります。
つまり、最初の詰問の時と二つ目の詰問の時とでは、彼の中で、怒りの性質が変化していただろうということであります。最初の時の怒りと二つ目の時の怒りとは、その内容が異なっているというわけであります。極端に言えば、まったく別種の感情体験をしていたかもしれないということであります。S氏自身はそのような区別をしていないのですが、S氏だけに限らず、クライアントはそうなのであります。自分の感情体験をあたかも一枚岩のように体験するのであります。同じ種類の感情が持続していると信じているのであります。仮にそうであるとしても、この場面と次の場面とでは、種類は同じであっても、その性質や内容が変化ないしは進展していたりするものなのであります。そのような変化や進展は、その感情体験をしている当事者にはなかなか知覚できないものであるかもしれません。
とは言え、意識や感情の流れを知覚するというのは、それを体験している時と同時進行でできるものではない上に、あとから内省することになっても、自己覚知が相当高くなければできないことであると私は考えています。それでも、そういう視点を有していると、その時の自分がどうであったかと振り返る糸口になり得ると私は思うのです。
さて、S氏のこの抜粋場面に関してもう少し述べたいと思います。
妻は最初から彼を「無視」していました。彼の最初の問いかけに妻は無視で応じています。二度目に彼が問い詰めた時、彼女は彼の手を振り払っています。この時点でやっと彼の方で妻が自分を無視しているということに気づいたかもしれません。妻がそこまでしなければ、彼は妻が自分を無視しているということに気づくことができなかったかもしれないわけであります。言い換えれば、そこまでされないと気が付かないほど、彼は自分の中の何かに囚われていたということでもあると思うのです。そして、彼の感情は、ドアを蹴ったことに関する憤りから、無視されることへの憤りへと進展した可能性もあると私は思うのです。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)