<テーマ118>怒りの処理(2)~「抑圧」
(118―1)防衛としての抑圧
次に取り上げる対処法は、怒りの抑圧ということです。先述の「引き伸ばし」は、その場で怒りを発散しないけれども、怒りの感情はその人の中でくすぶり続けている状態でした。つまり、怒りは消えることなく当人に体験されているのです。
もし、その怒りが抑圧されたと言う場合、怒りの感情が当人にはまるで体験されなくなっているのです。そして、自分が怒りを感じていたということさえ気づかないということが起きるのです。そこが「引き伸ばし」と「抑圧」の違いであると私は捉えております。
この怒りの抑圧というのは、初期の精神分析の要でした。神経症とは性や敵意を無意識に抑圧することによって生じると単純に理解されていた節があるのです。抑圧して、他にどういうことをするかと言えば、正反対の感情を抱いたり(反動形成)、知的にごまかしたり(知性化、合理化)、他の対象でそれを表したり(投影)するというわけです。これらは怒りに限らず、あらゆる不快な感情に対する対処策なのです。どのような対処策をその人が身に付けるかで、その人の性格傾向が方向づけられる(性格防衛)ということなのです。
人が生きていく上では、こういうことは多少はしなければならないことです。だから、私は全ての人は少なくとも「軽い神経症」であると捉えているのです。逆に言えば、こういうことができないという人は、それはそれでたいへんな人生を送ることになるのです。なぜなら、その人は、自らを守る術を持たず、常にあらゆることに直面化していかなければならないからです。これは考えただけでもしんどい生き方なのです。
(118―2)抑圧は忘却から始まる
怒りを抑圧するということは、分かりやすく言えば、それを忘れてしまおうと試みることであります。
ある人は怒りを、日常生活の様々な場面にて、感じています。その怒りは、話を伺ってみる限り、その場の状況や流れからみて、自然な感情でさえあるのです。しかし、当人はその怒りを禁じ、それを遠くへ押しやることに全エネルギーを費やすのです。大抵の場合、そこでかなり消耗されて、疲労困憊してしまうのです。その人は怒りを体験することが少なくなるかもしれませんが、そのために多量のエネルギーを消耗するのです。しかし、それで彼の怒りが消失してしまうというわけでもないのです。
実はこのことが非常に厄介な現象なのです。抑圧というのは、云わば臭い物に蓋をするという行為に喩えられるものです。蓋をしても臭い物が消えたわけではないのです。また、蓋がきちんと閉まっている間は、匂いが漏れ出すということはないのですが、もし少しでも隙間が空いていたりすると、微かずつでも匂いが漏れ出してきます。そして場合によっては、匂いが漏れ出さないように、常に蓋をチェックしないといけなかったりするのです。怒りを抑圧するという場合でも、同様で、この抑圧がきちんと働いている間はまだいいのですが、精神的に苦悩していたりして、抑圧の力が弱まると、やはりそれが表に現れてくるのです。しかも、それが非常に微妙な形で出てきたりするので、厄介なのです。
無意識的な敵意は、それが無意識的であるが故に厄介であり、しかも微妙な形でそれが漏れ出たりするので更に厄介なのであります。
抑圧とは忘却することから始まります。怒りであろうと性的な事柄であろうと同じです。それは臭い物に蓋をするという対策に喩えることができるものです。しかし、それは蓋をしただけであって、臭い物を処理したというわけではありません。従って、何かの拍子でそれが漏れ出たり、そうならないように注意していなければならなくなります。そこでエネルギーを使い果たし、その人は他の有益な場面で活用できる力が制限されてしまうのです。
(118―3)怒りの抑圧に成功しなかったクライアントの例
あるクライアントは驚くほど私に従順でした。素晴らしい人を崇めるように私を尊敬されるのでした。私はかなりのひねくれ者で、尊敬されたり賞賛されたりすると、必ず何かウラがあるなと考えてしまうのです。そもそも一対一の関係で、クライアントが私を素晴らしいなどと賞賛しているとすれば、クライアントは少なくとも私より劣った自分を体験されているはずなのです。だから素直に喜べないのです。それはさておき、そこまで賞賛してくれる彼なのですが、彼が私に質問する時などは、かなり挑発的な口調で挑んでくるのです。この時、彼の抑圧している敵意が顔を出してしまっているのだと私は捉えました。本当は私に対しての敵意もあるはずなのです。それを抑圧して、表に出さないようにするために、怒りとは正反対の行動を取り続けておられたのです。もちろん、こうしたことは彼が意識的にしているのではありません。無意識的になされているものであり、言い換えればそのようにすることが彼の習慣になっていたのです。
彼のケースについてもう少し述べておきましょう。私は彼が無意識的に敵意を抱いているようだと感じておりましたので、折に触れて、「僕に対して言いたいことが言えている感じがしている?」などと介入していったのです。もちろん、初めから「いいえ、本当は嫌っているのです」などと言ってくれるはずはありません。ある時、彼の環境でちょっとした出来事が生じて、非常にイライラした面持ちで彼は来られました。さすがに抑圧も効かなかったのか、彼は初めて「先生はそこに座って高見の見物をして、いい気なものだ」と表明されたのです。後に「敵意の治療」という項目で述べようと計画しているのですが、少し先走りして、これに触れておきましょう。そう言う彼の言葉に対して、私は「あなたは誰も自分を助けてくれないので、怒っている。そしてこれまでもそうだったのではないか、本当は人を責めたい気持ちでいっぱいだったのではないか」といった解釈投与をしたのです。それを受けて、彼は話し始めます。それは、彼が自分はずっと人を憎んで生きてきたのだと、初めて語った瞬間でした。他者から理解され、受け入れられ、共有された敵意というのは、徐々にその勢力を弱めていくものなのです。もちろん、それが一回で達成されるとは限りません。彼とはその後数回にわたって、そのことを話し合ったのでした。彼は自分では何も変わらなかったと述べられたのですが、敵意の抑圧が解けた分、彼はより活発になり、そして、適度に自己主張もされるようになったのです。彼の家族は、逆に、彼が以前よりも怒りっぽくなったと感じられていたようですが、それは彼が怒りを隠さなくなったからです。抑圧が解けると、初めのうちは激しい形でそれが噴き出すことがあります。水門を開いた直後は堰き止められていた水が激しく奔流するのと同じようなもので、やがては適切な勢いに収まるものです。彼の場合もそうでした。最初はとても怒りっぽく見えていたし、実際、そうだったのです。しかし、そのうち、彼の本来的な姿に落ち着いていったのです。
この例では、クライアントは敵意を抑圧していたのです。長年彼はそれを抱えて生きていました。偶然にもこの抑圧が成功しなかった時に、転換の機会が訪れたのでした。彼が怒りを抑圧しなければならなかったのは、それを抑圧する必要が生じたからであり、常にその必要を感じて生きてきたのでした。この時の面接を契機として、彼はそれほど怒りを抑圧しなくてもいいのだということを体験されたのです。そして、抑圧するよりも、適切な形で表現できる方が望ましい結果になるということを身を持って学ばれたのです。
(118―4)抑圧とは自分に所属しているものを切り離すことである。
ここで抑圧ということについてもう少し述べておこうと思います。抑圧と言うと、その言葉の響きからして、上から圧力をかけて抑え込むというイメージを持たれるかもしれません。それは必ずしも間違いではないのですが、実際は、抑え込むイメージよりも、切り離すイメージに近いものであると私は捉えております。
自分自身に属していながら、それを自分のものではないとして切り離すような現象なのです。多少なりとも私たちはこれをしているものです。通常、もっとも切り離されるのは、自分の子供時代であります。多くの人は子供時代のことに関しては「忘れている」というように表現されるのですが、これは単に記憶力の問題ではないのです。子供時代のことはしばしば切り離されてしまうことが多い領域なのです。実際、人は自分の子供時代のことを非常によく覚えているのです。ただ、特定の事柄や時期に関しては非常に曖昧であったり、抜け落ちたりしているのです。だからその部分はその人から切り離されて存在していることになるわけです。そういうものでも、カウンセリング等に於いて、根気よくそこに目を向けていき、連想を広げていくという作業をしていくと、次第にその人の目に留まるようになることが生じますので、それらは決して無くなっているわけではないのです。
(118―5)抑圧は自己疎外を生み出す
抑圧というのは、自分の中にあるものを自分のものではないものとしていくことです。怒りの感情を体験しているのに、怒りを感じていないということにしてしまう行為となるわけです。別項で述べようとは思うのですが、こうした怒りは容易に憎悪に結び付くものだと私は捉えております。
この抑圧ということは、自分にあるものを自分のものではないとする試みですから、これは自己の一部が疎外されていくことになるわけです。分裂しているということもできます。残された部分と切り離された部分とが別れているという意味でも分裂でありますし、切り離す主体と切り離される主体とが同一でありながら分裂しているという意味でもあります。
こうして自分の一部が自らによって切り離され、疎外されるとどのようなことが生じるでしょうか。仮にあなたの心の領域を10とします。あなたには10という心の世界があると仮定するわけです。そのうちの1を切り離すとどうなるでしょうか。本来10であるはずのあなたは9になるわけです。心の領域がそれだけ狭くなるということです。意識も行動も思考もそれだけ制限されてしまうということになります。もし切り離している部分が7だとしたらどうなるでしょう。あなたには本来10の領域を有していながら、わずか3の領域で生きているということになるわけです。人が10分の3の領域で生きるとしたら、その人はかなり狭い行動パターンしか示せないでしょうし、多くの制限を感じ、窮屈な生を送っていることでしょう。人一倍生き辛さを体験されていることでしょう。当然、柔軟性を欠くことにもなるでしょう。柔軟性を欠くのは、あなたがどのような場面に遭遇しても、あなたは活用できる3の領域で対処するからであります。こうなると、ここまで抑圧することは「病的」と見做されるのです。
保持されている部分と切り離されている部分が何と表現されているかということですが、保持されている部分は「意識」できている部分です。切り離された部分は「無意識」であります。無意識の領域に在るものは、かつては意識されていた物もあるのです。「無意識を意識化する」という公式は、切り離された部分を取り戻していくということです。あなたの心は本来10であった。それが3にまで狭まっているから自分でも訳の分からないことが生じているという体験につながるわけです。それを再び10まで広げていこうという考え方をしているわけです。従って、10になるということは、あなたが本来的なあなたに戻って行くということをも意味するのです。
抑圧ということに関して、私は上記のように捉えております。
(118―6)抑圧と抑制
それでも人間は多少なりとも抑圧の力が働かなければならないと私が述べるとしたら、矛盾したことを述べているようにお感じになられるかもしれません。この違いを適切に述べることは困難であり、専門書などでは両者に「抑圧」という同じ言葉を当てている場合もあるのです。そこで私は「抑制」という言葉を充てたいと思います。
「抑圧」ということは、自分のものを自分のものではないものにしてしまうことです。いわば葬り去るようなことです。「抑制」というのは、制御することであり、コントロールすることです。葬り去るのではなく、然るべき位置に納めるという意味合いを込めています。
(118―7)一つの実験
一つ例を挙げようと思うのですが、ここで一つあなた自身の体験を思い出していただきたいのです。その思い出というのは、思い出しただけで自分が嫌になるというような失敗談です。思い出すと今でも顔から火が出るくらい恥ずかしいという体験を思い出していただきたいのです。いつの時代でも構いません。最近のことでもいいし、小学生の頃の体験でも構いません。時間を取っていただいても結構です。何か思い出せるでしょうか。少々、辛くて、残酷な課題だと思いますが、できるでしょうか。
あなたに安心していただくために、私の恥ずかしい体験を書いておきます。一番恥ずかしかったのは、34歳にもなって、道端でおしっこを漏らしてしまったことです。私は夜道を歩いていました。職場を出る時に、トイレに行っておいたらよかったと思ったのを覚えています。私はそこで、まあ、いいか、帰ってから行くかなどと考えたのです。そして夜道を歩いている時、私は考え事に夢中になっていて、自分がおしっこを漏らしたのに気づいていなかったのです。気がつくと、「あれ、今、放尿したんちゃうか」と我に帰ったのです。あの瞬間はひどい自己嫌悪に陥りましてね、すごく恥ずかしかったです。夜のことで誰も見ていなかったからよかったものの、お漏らししたのに気づいていないなんて、よほどぼんやりしていたものだと思う。この事態を収拾するために、近所の児童公園に入り、ベンチに腰掛け、両足を大きく開いて、濡れたズボンを乾かそうと、下敷きで股間をパタパタ煽いでいるあの姿は、クライアントには絶対に見られたくないものです。
まあ、私はこういう恥ずかしい体験をしたのでありますが、それをこうして語れるというのは、その体験を私が抑圧していないということです。引き出しに仕舞ってあって、必要とあれば取り出せるようにしてあるということです。これを語るのは、この体験を私は切り離していない(本当はすごく切り離してしまいたい)ということの一例だからなのです。
あなたが何かご自身の体験を思い出されたとすれば、その体験は抑圧されているのではなくて、うまく制御できている体験である可能性があるのです。その体験が、今ではあなたにそれほど苦痛を与えていないとすれば、その体験はあなたの中で切り離されることなく存在しており、尚且つ普段はきちんと仕舞われていて、必要な折には取り出せるという形で扱うことができているということです。これは抑圧とはまったく異なるものです。
(118―8)本項の要点
怒りに対して人が用いる対処法として、「抑圧」という防衛機制を取り上げました。抑圧はそれを忘却し、なかったことにしようという試みであります。その代り、そうすることで、人は自己の領域を狭めてしまい、それに多大なエネルギーを費やしてしまうのです。「抑圧」よりも望ましい対処として、それを制御するという観点を述べました。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)