9月30日:コンビニ客を見て
昨夜は夜勤をした。夜勤まで原稿やブログを書いて過ごした。つまり、仕事を終えて直接夜勤をしたわけだ。もう、たいへんだった。アクシデントもあり、たくさんの業務もありで、フラフラだった。朝の5時頃、本当にフラッとなった。足に力が入らない感じだった。頭もボーッとしている。
夜勤を終えて、そのまま高槻に出て、これを書いている。コーヒーが欲しい。月末でやることがいっぱいある。仮眠くらいはするつもりだけれど、それだけの余裕があるかどうか。
コンビニの夜勤なんて、本当に下らない。真夜中にフラフラしている連中が客だ。そういう人は大物にはなれないと思っている。
深夜のコンビニで雑誌なんかを延々と立ち読みしているような人も多いが、そういう人間は器が小さいのだ。無料で読んで得したと彼らは感じているかもしれないけれど、そういう生き方しかできないのだろう。読みたいのなら購入して自分の物にすればいいのに、店で読んで間に合わせるという、そういう間に合わせの人生を送るのだろう。
また、これも面白い現象だと思う。立ち読みをするというのは店の商品を借りているわけだ。いつもそういうことをする人がたまに買い物をするとクレジット払いで清算したりする。よく分かる。借り物の人生を送っているのだろう。
僕は本はよく読むけれど、立ち読みはしない。目次を見たり、後書きや解説に目を通すことはあるが、それは買うか買わないかを決定するためだ。中身は購入してから読む。だから、コンビニの立ち読みの心理がよく分からないのだ。あれはそんなにいいものなのかね。
雑誌くらい読んでいってくれても構わないのだ。トイレも使用していいのだ。それで何も買わないというのが、僕から見ると礼儀知らずと言うか、セコイと言うか。少しでもお金を落としていけよと心の中で呟く僕である。
昔、僕がもっと若い頃のことだけれど、ある飲み屋に忘れ物をしたことがあった。翌日その店に電話をかけると確かに忘れていて、店で預かっているという返事だった。僕はその日、忘れ物を取りに行った。僕はそこの店主に叱られた。忘れ物だけ取りに来たんかってね。僕は驚き、一瞬腹を立てかけたけれど、その店主の言うことの方が正しいとも思った。飲み屋に忘れ物だけを取りに行くというのが作法から外れているわけだ。飲み屋なのだから一杯でも飲んでやらんといけないのだ。飲み屋としては他のお客さんの手前もあるし、それに店の面子にかかわることだったのだ。僕はそれに気付かなかったのだ。
その時の店主のように、立ち読みだけしに来たんかとか、トイレだけ借りて帰るつもりかと言いたくなることも多々ある。そういう客は店の面子を潰しているわけだ。店の顔に泥を塗っているわけだ。なお性質の悪いことに、自分がそういうことをしていると気づいていないのだ。
僕は街中でトイレに行きたくなったら、コンビニではなく、パチンコ屋を探す。普通にトイレは使わせてもらえるのだが、僕はパチンコは打たない。悪いから飲み物を買って、休憩所で飲む。トイレを使わせてもらったのだ。せめてそれくらいのことはする。あの飲み物の利益がパチンコ屋に入るのかどうかはわからないけれど、そういうことでもしなければ僕の気持ちがおさまらないのだ。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)