9月3日(水):『乳牛の衝突を躱す夢』
昨日は半日外出して、夕方頃より高槻に来て、いくつかサイトの作業なんかをして過ごす。体調は優れない。それは今日まで引きずっている。
(夢―「乳牛の衝突を躱す夢」)
僕は学校のような場所にいた。僕は現場作業員の一人だった。至る所で工事とか点検がされていた。大勢の人が働いている。僕も自分の分担の仕事をしようとするけれど、何をしていいか分からない。作業員が大勢いすぎて手持ち無沙汰になっている。校舎と校舎の間にある中庭のような場所を僕は歩いている。乳牛が放し飼いされている。牛は僕を見ると疾走してくる。危ないと思い、僕は身を躱す。牛は僕の後ろの壁に頭を打ち付けた。
(連想と感想)
夢では他にいくつかの場面があったように思うのだけれど、鮮明に覚えているのは上記の部分だけだ。
場所は学校だ。僕も当然通っていた。子供時代であり、学びの場であり、社会性の場であるように思う。そこが工事中だった。工事中とは言っても、それほど大がかりなことはしていなかった感じではある。解体中とか建設中とか、そういう状況ではなかった。
僕はその状況において、何をしていいのか分からずにいる。困惑、迷いといった感情を体験している。
作業員が多すぎる。これは作業に費やすエネルギーが過剰であることではないだろうか。適切なエネルギーではないようだ。
乳牛。豊かな乳を連想する。母性とか女性性といったイメージと、産出性、生産性といったイメージも浮かんでくる。そこから養育、創造などのイメージが喚起される。
その乳牛が突進してくる。僕に刃向ってくる、攻撃してくるということだ。僕はそれらのイメージに対して何か危機感を覚えているのかもしれない。
身を躱し、牛が頭を打ち付ける。僕はその危機感を避けようとしているようだ。その代り、それらのイメージが被害を蒙ることになる。
母性、養育、創造性などが現在僕の中で危険視されているのかもしれない。あるいはそれらが被害を受けているということなのかもしれない、僕がそれを躱すのでそうなっているのかもしれないし、多大なエネルギーを不必要に費やしてしまっているがためにそうなっているのかもしれない。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
(付記)
立て続けで夢を見たようだ。この頃はそうだったかもしれない。夢をよく見る時期とそうでない時期がある。毎日、夢が記憶されることもある。こうして読み返してみると、いくつかの場面が蘇ってくる。記録しておくことは大事なことだと思う。
(平成29年2月)