9月24日(土):僕がギャンブルをしない理由
僕はギャンブルを一切しない。よくそれで人から褒められる。もちろん、過去において、ギャンブルをしてみたことはある。みんなが馬券を買うから、僕も一口乗ったことがある。それは見事に外れたけれど。また、ふと、パチンコで絶対勝つ方法を思いついて、一度だけ試したことがある。それは散々な結果に終わったけれど。とにかく、やったと言ってもその程度である。
「買わなきゃ当たらない」の宣伝文句に動かされて、宝くじを買ったこともあったが、結局、「買うから外れる」という認識を強化しただけだった。その後は、ロトシックスやナンバーズに手を出したことがあるけれど、当たりそうな見込みが得られないので、さっさと止めてしまった。
僕はそういう賭けごとをして当たったためしがないのだ。最初から当たるという期待を抱けないのだ。僕のそういった傾向を探求していくと、僕は幼稚園の頃のある体験を思い出した。
当時、友達だったD君の家へ僕は遊びに行くことになった。場所は知っていたのだけど、そこは同じような家が二軒並んでいて、僕はどちらがD君の家なのか分からなくて困った。さんざん悩んだ挙句、僕は一か八かで片方の家を選んで、玄関を開け、D君の名前を呼んでみた。すると、奥の方から「D君は隣やでー」という声が聞こえた。僕は恥ずかしくなって、その場を後にした。
二軒のうちどちらかがD君の家である。どちらがD君の家であるかを、僕は当てなければならなかったわけである。当たる確率は50パーセントである。僕のこの体験は、50パーセントの確率の賭けでさえ、僕は勝てなかったということだ。
この体験は、後々の体験へと引き継がれる。例えば、僕がナンバーズをするとしよう。僕の中では、この数字が来そうだなという予測を立てている。しかし、一方で、いや、そんな数字が来るはずがないとどこかで観念している。翌日、結果を見て、やはりその数字が来ていないのを知ると、やっぱり僕の思った通りだと実感する。つまり、最初に、これに賭けようと思う。次に、いやこれが来るはずがないという気持ちが生じる。最後に、やっぱり来なかったということが判明する。自分が当たるはずがないという観念が先に生じてしまうのだ。その後で、僕の観念が正しかったということが判明するのだ。この、自分が当たるはずがないという観念が、僕がギャンブルに手を染めずにきたことに役だってきたのだけれど、その原点はD君の家を見事に外した、あの体験にあるようだ。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
(付記)
幼稚園時代にD君の家を外したということで、僕は自分の予感があてにならないということを体験しているのだ。もし、あの時、D君の家を当てていたら、今頃は自分の勘は当たるなどと自惚れてギャンブル依存になっていたかもしれない。人の一生なんて、そういう些細な出来事でけっこう左右されてしまうものだと思う。
でも、その後、ギャンブル依存の人たちともお会いしてみるとよくわかったのだけど、僕は彼らとはまったく感覚を異にしているようだ。僕は自分がツキに見舞われるに値するような人間だとは信じていないし、ツキなんてものもまったく理解できないでいる。
(平成25年6月)