9月2日(水):DVを認めさせることはDVである
今日はなかなか充実した一日だった。午前中に事務仕事と面接をこなし。午後からキーボードと再聴、その他の事務作業、並びに面接とこなす。
キーボードというのは、まあ、昨日から再開したものだけれど、鍵盤を弾くということだ。曲を弾くのではない。指の練習をするものだ。指先を動かしていると目が冴える感じがする。一日30分程度実行すると決めている。
再聴というのは、かつて録音したカセットテープを聞き直すというものだ。7年近く前までは録音はすべてカセットテープだった。一日一回分を聴き直す。これはこれで再発見することも多い。
帰宅後はブログその他の文章を打ち込み、短編小説をいくつか読む。それと、少々テレビを見る。
こういうことをしていると不思議な一致もある。
今日、再聴した過去の面接と、今日来られた新規のクライアントの話と、一部共通するものがあった。過去分を再聴しておいたおかげで、新規クライアントのある話に関しては呑み込まれないで済んだ。
新規クライアントは、簡単に言えばDV問題で来られたのだ。彼は僕以前にカウンセラーと会っているけれど、そのカウンセラーからは、自分の行為がDVであったことを認めることを勧められたという。僕に言わせれば、このカウンセラーは病気である。
彼は自分が妻を殴ったことを認めている。どうしてさらにDVであることを認めなければならないのだろうか、僕は理解に苦しむ。彼の行為がDVに該当しようとしまいと、彼は自分が妻に手を上げたことを認めているのである。どうしてそれだけでは不十分なのだろうか。
このカウンセラーは明らかに「被害者」の立場に立っている。そして、このカウンセラーは一方は「加害者」という悪であり、他方は「被害者」という善であるというスプリッティングをやらかしてしまっているように僕には見えてくる。
DV問題には、「加害者」という人間も「被害者」という人間も存在しないのだ。それらはある特定の場面だけのものであり、その場面における双方の「役割」を示す言葉に過ぎない。「被害者」やその援助者がある人物を「加害者」にしてしまうのである。この場合、本当の「加害者」はどちらであるだろうか。
ある場面をDVなどと抽象することによって、多くのことが見失われてしまうだろうし、多くの誤った方向性が生まれるだろうと思う。
分かりやすく言えば、「彼は妻に手を上げた」という問題と「彼はDV加害者である」という問題とは全く違った性質の問題になってしまうということだ。前者から後者に移行すると問題の多くがすり替わってしまうと僕は考えている。「彼は妻に手を上げた」という彼の行為そのものから、つまり現象そのものから決して離れてはいけないのだ。そこからどこかに還元したり、分類したり、抽象したりすればするほど、その現象そのものからの理解が失われていくことになる。
従って、A氏のDVとB氏のDVとC氏のDVとがそれぞれ異なった問題であることもあるわけだ。同じDV問題といえ、三者三様の問題を抱えていることがあるわけなのだけれど、そういう相違が見えなくなると思う。相違というのは、要するに、それぞれの人の独自性である。個人の独自性が見えなくなれば、そこに何を見るかというと、「理論」である。理論しか見えなくなってしまうものだと僕は思う。そして、その見地はそれ自体がDVになり得るものである。
まあ、こんな話を始めると永遠に続けてしまいそうだ。詳しくはサイトの方を見てもらうことにして、今日はここまでにしておこう。今日のクライアント、彼が妻に手を上げたということは僕も信じたけれど、僕は一度も彼を「加害者」とは見なかった。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)